教会で祈りを捧げたり、神社で手を合わせたりするように、宗教的慣習として決められた手続きや約束事に則って行われる「祈り」もあれば、より日常的な“願い”としての「祈り」もあります。

 ソチオリンピックのフィギュアスケートでは真央ちゃんの演技に対し、日本中で「跳んで」と願う声が上がったのではないでしょうか。先週ずっと風邪をこじらせていた私は、夜中じゅう咳き込んで眠れず、思わず「かみさま、咳とめて」と祈りました。

 このような「祈り」はスキナーの言語行動理論からは拡張マンド(extended mand)として解釈可能です。

 拡張マンドはマンドが刺激般化もしくは反応般化した反応です。父親とキャッチボールしているときに「ゴロ投げて」と要求したらゴロを投げてもらえて強化されたマンドが、友達とキャッチボールしているときに自発される場合が刺激般化です。友達に対してはこれまで自発されたことも強化されたこともなかったけれど、父親に対するマンドが強化されていたことで般化したと解釈します。同じ文脈でそれまで自発したことがない「フライ投げて」が自発されたら反応般化です。刺激般化した拡張マンドも反応般化した拡張マンドも聞き手によって強化されれば、定義上、通常のマンドになります。つまり、拡張マンドと言えるのは聞き手によって強化される前の初発反応だけです。
 拡張マンドには聞き手によっては強化されないマンドもあります。どちらも、習得済みのマンドが刺激般化、もしくは反応般化したものです。

 迷信的マンド(superstitious mand)は聞き手に強化されることはありませんが、たまたま偶然に強化されることがある拡張マンドです。一緒に遊んでいる友達に「なわとびとんで」とお願いしたり、プールで遊んでいるときに「とべ〜」と声をかけたりしたときに友達が跳んでくれることで強化されてきたマンドが、テレビの向こうの真央ちゃんに自発されるのは、刺激般化でもあり、「トリプルアクセルとんで!」なら反応般化でもあります。そして、真央ちゃんは失敗することもありますが成功することもあり、私たちのマンドとは無関係ではありますが、偶然強化され維持される反応です。

呪術的マンド(magical mand)は聞き手に強化されることもなければ、偶然に強化されることもない拡張マンドです。ソチの真央ちゃんのフリーの演技を見たあと、「時間を巻き戻してもう一回ショートをできたら」と思った(願った)人もいたでしょう。「時間を巻き戻して」は偶然にも強化されることがない呪術的マンドです。

 私の「かみさま、咳とめて」はどちらとも言いがたいところです。偶然でも咳がとまったことは記憶の限りはありませんが、論理的には言い続けていればいつか咳は止まりますから。雨が降り続いているときに「やんでくれ〜」と思うのも同じような随伴性です。

 呪術的マンドは強化されないのになぜ維持されるのでしょう。一つには拡張マンドの元になる通常のマンドは強化され続けているからです。もう一つには呪術的マンドを自発させる好子や嫌子の確立操作が強力だということでしょう。

 このように「祈り」とみなされる行動の中には、信仰や宗教とは無関係に、マンドが派生した拡張マンドとして解釈できるものもあるのです。

 参考文献:『行動分析学入門』 第21章 言語行動

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 TBSラジオ『安住紳一郎の日曜天国』が最近のお気に入りです。ポッドキャストのみならず、radikoで配信されている全2時間ぶんの放送をラジ録2というソフトで予約録音して、ジムや車で聴いています。

 いつだったかの放送でリスナーからのお便りに「人はなぜ電話中に歩き回るのでしょうか?」というメッセージがありました。オフィスで隣の席の同僚が、電話がかかってくるたびに席を立ち、給湯室に入ったり出たり、事務所中をぷらぷらと歩き回り、あげくのはてに上司の席の後側まで通過していく。そんな内容だったように記憶しています。なんだかちょっと迷惑ですというニュアンスのメッセージでした。

 気になってググってみたら、同じような疑問を持っている人は他にもいるようです。Yahoo!知恵袋でそういう疑問を投げかけている人もいました。この問いに正解があるとして、なんのために正解が欲しいのか、どうしてそういうところで正解が得られると思うのかは毎度のように疑問ですが、それでも、話をしていると動きたくなるとか、他人に聞かれたくない話をしているのではないかとか、もっともらしい回答も書込まれていました。

 確かに電話しながら歩き回る人を見たことはあるし、自分もそうすることはあるけれど、電話がかかってきたときに歩いていたのに立ち止まったり、立っていたのに座ったりすることも同じくらい、いや自分の場合はそれ以上にありそうです。よく歩き回る人でも、他に誰もいない自宅で独りくつろいで珈琲でも飲んでいるときに友達から電話がかかってきたときに部屋を歩き回ったりはしなさそうです。オフィスで他の社員と一緒に仕事をしているときでも、資料を拡げて読みながら話をしなくてはならないときには歩き回らないはずです。

 「人はなぜ電話中に歩き回るのだろう?」と素朴に思うのは自然として、その理由を見つけるには、まず「人はどんなときに電話中に歩き回るのだろう?」という形で設問を立て、観察したり、記録したり、考えるべきです。そうすれば「本能がそうさせているのではないでしょうか」といったトンチンカンな答えに辿り着かなくてすむはずです。

 それでは、人はどんなときに電話中歩き回るでしょうか? 観察したわけではないですが、私の推測は以下の通りです。

1. 周りの人に聞かれたくない話をするとき
2. 周りの人に話し声で迷惑をかけたくないとき
3. 携帯や子機の電波が入りにくいとき
4. 座ったまま話をするのが失礼な相手から電話がかかってきたとき

 もちろんこれだけではなさそうです。たとえばPCで仕事をしていたときに電話がかかってきて仕事を中断せざるをえないが丁度コーヒーが飲みたかったのでお代わりを注ぎに行くために立ち上がるなんてこともありそうです。だから、これはこれがすべての解ですというリストではありません。むしろ一つ確実に言えることは、電話中に歩き回る行動の原因は複数あるし、1と4が同時に起こりえるように重複している場合もあるということです。

 行動の原因はその見かけからはわかりません。“電話中に歩き回る”ところだけを見ていると、どれも同じように見えてしまうかもしれません。ところが、カメラを引いて俯瞰で眺めると、歩き回る前後の状況変化が異なることがわかります。上記の1や2は自分の周りに人がいなくなることで強化される行動です。3は通話のノイズが減り、相手の声がよく聞こえるようになることで強化される行動です。4は座ったままで話をしていると感じる不安が減ることで強化される行動です。それぞれ行動随伴性が異なるわけです。行動分析学では行動随伴性が異なる行動は外見は同じでも機能が異なる別々の行動であるとみなします。

 そしてそのように考えると想像できるように、これらの行動は機能の違いゆえに、よく見ると外見も少々違っているかもしれません。1や2はひそひそ話になるかもしれません。3では逆に声が大きくなるかもしれません。4では腰を引いたり、ぺこぺこおじぎをするなどの行動が同時に発現するかもしれません。

 もう一つ行動の原因推定を難しくさせるのが「学習」という側面です。目の前に相手がいたときの経験(「座ったままで失礼な!」と怒られたなど)が影響していると考えると4はわかりやすい例かもしれません。1-3も同じです。周りの人に聞かれたくない話をしていたときに歩き回ることで話を聞かれずに済んだという経験が次の行動に影響し、次に周りの人に聞かれたくない話をする電話がかかってきたときに歩き回る行動が引きだされるようになるのです。つまり、現在生じている行動は、現在の状況だけではなく、過去の類似の状況にも原因があることになります。過去の状況は現在生じている行動を俯瞰で観察しても見えてきません。だから推測が難しいのです。

 さらにもう一つ原因推定を難しくさせるのが「過剰般化」(より正確には「隠喩的拡張」)という現象です。周りの人に聞かれたくない話をしていたときに歩き回ることで話を聞かれずに済んだという経験が次の行動に影響し、次に電話がかかってきたときに、周りの人に聞かれたくない話でもないのに、電話がかかってきたという過去の経験と共通する部分的な状況だけから歩き回る行動が引きだされるようになる場合です。

 つまり、「人はなぜ電話中に歩き回るのだろう?」を考えるために、まずは「人はどんなときに電話中に歩き回るのだろう?」から無難にスタートしても、観察するだけで原因を推定するのは困難だということになります。

 そこで「実験」という方法論が登場するわけです。周りの人に聞かれたくない話をするときに歩き回ることで聞かれないからそうするなら、歩き回っても聞かれてしまうようにして、それでも歩き回るかどうかを確かめればいいことになります。たとえば電話をしながら歩き回る同僚に聞き耳を立ててついて回るなどです。携帯や子機の電波が入りにくいから歩き回っているのであれば、どんなに歩き回っても電波状態がよくならないような部屋で電話をしてもらい、それでも歩き回るかどうかを確かめればいいことになります。こうした実験によって、ようやく「人はなぜ電話中に歩き回るのだろう?」に答えがだせるようになるのです。

 そんなことまでする人はいないでしょうね。

 でも、オフィスで同僚が電話をしながらウロウロしているのにイライラしている人は、このようなことを考えていれば、そのうちウロウロに対するイライラは解消するかもしれませんよ。

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おかげさまで、非常にスローなペースで、でも継続的に売れてはいるそうで、このたび増刷となりました。お買い上げいただいた読者の皆さんに感謝致します。

編集者のKさんから「増刷出来」というキーワードをいただいたときに、「出来ました」の「ました」を省略した若者語かと、またもや語彙のなさをさらけだしそうになり、でも寸前で辞書を調べ、「出来」は「しゅつらい(or しゅったい)」と読み、「物事ができあがること」を意味することを学んでことなきを得ました。

増刷が決まってから入稿まで数日しかなかったので、手直しは少々です(相関係数のところは直しました)。

地震、津波、避難について書いてあるのですが、3.11の後では、やはりそのことに触れないと不自然だとは思いつつ、今回は時間がなくてそのままです。次回、また増刷の機会があれば、なんとか対応しようと思います。

ちなみに、この本、大学受験の国語の試験で何回か使われています。著作権がらみで使用許諾願いというのが来るんです。そういうのは初めてだったので最初はちょっと戸惑いました。問題を読むのも怖かったです(とんでもない勘違いされていたらどうしようと...)。これも新書の特性でしょうか。

本屋さんでピンクの帯をみたら、ぜひどうぞ(笑)。


応援の心理学

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 先週の金曜日、夏休み最後の余暇活動として、デビスカップワールドリーグ入れ替え戦、日本対ドイツの初日、シングルス第一試合と第二試合を観戦してきました。コートサイドで杉田くんと錦織くんを応援。

 日本のテニス会場は静かなことで有名なのですが、この日ばかりはおそろの赤のTシャツを着て、バレーボールの試合でよくみるスティックバルーンをならす人が目立ちました。杉田くん所属の三菱電機の方々でしょうか。会場一角に陣取り、高校野球のような応援を繰り広げる一団もいました。

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 試合は下馬評では勝ち目薄しだった杉田くんが頑張り、錦織くんは力量をみせつけ、貴重な2勝をあげました。新聞記事によると、仙台出身の杉田くんは、試合中、「きつい場面で『仙台のみんなも頑張っているぞ』という声援があり、気持ちを立て直した」とのことです(日経新聞)。

 会場では「ドンマイ、どんまい」「ファーストいれてこ」「ばんかいしよう」「3本め〜」「ここ集中!」など、およそプロの試合では聞かれることのない声援(部活や実業団ではあるけど)がとびかい、若干苦笑していたのですが、そういう声援も杉田くんには力になったということでしょう。

 ところで、観客からの声援が選手にどのような影響を及ぼすのか、あるいは観客はなぜ声援するのかなどについての心理学の研究はあまりありません。

CiNiiで検索しても、みつかるのはこのくらいです。

  • 広沢俊宗・井上義和・岩井 洋(2006)プロ野球ファンに関する研究(V) : ファン心理、応援行動、および集団所属意識の構造(第二部スポーツファンへの多面的アプローチ,創造性の視点)    関西国際大学地域研究所叢書, 3, 29-40.
  • 元 晶?(Won Jung-uk)(2008)韓国プロサッカー観戦者の消費行動特徴に関する研究 :Kリーグ観戦者の人口統計学的特徴、観戦動機、観戦ニーズを中心に 環境と経営 静岡産業大学論集, 14(1) ,1-14.

 発達・学習という視点(いつごろから人を「応援」するようになるのだろう、どうやってそのスキルを獲得するのだろう)でも、余暇・QOLという視点(応援し、応援されることには、生活の質に対してどのような影響があるのだろう)でも、面白そうな研究がたくさんできそうです。

 実は、この「応援」に関する問いは某テレビ番組制作会社からの取材依頼で一度調べたことがあるテーマです。回答に返信なしの失礼なやつの一つでした。問いは面白いだけに残念。

あ、届いた。

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ふと思い立って、一枚だけ残っていた2007年の年賀状に自宅の住所を郵便番号と番地(○-○ー○)だけ記入して投函してみた。

見事に(?)届きましたぜよ。数字と名前だけで。

これは便利。

それなのにほぼ99%(というか100%)の郵便物には市町村名や都道府県名がわざわざ記載されている。

なぜだろう?

(1) 都道府県名や市町村名を書かなくても届くことを知らないから。

(2) 都道府県名や市町村名を書くことで届いているから。

つまり、強化歴のある行動は随伴性と抵触しない限り(消去されたり、弱化されない限り)、維持される。

(3) 万が一、郵便番号を間違えていたり、間違って読み取られた場合の保険。

こういう強化スケジュールってあったっけ? 行動クラスが2つあって、各々強化されるが、相互に自発されると強化率が上がるなら(弱化率が下がるなら)、その行動は強化されるということか。

(4)(友人何人かに聞いたところ) 都道府県名や市町村名を書かないと相手に失礼のように思えるから。

となると社会的トラブル回避の機能をもつ言語行動でもあるのかも。

 圧勝でしたね。バラク・オバマ大統領候補。「チェンジ」で共通認識を作った合衆国民の皆さまを祝福です。こういうところはさすが。かなり感動。

 さてさて、黒人初の大統領が誕生するまでには、まだ時間がありますが、百年に一度と言われるくらいの金融危機はまったなしの状態のようです。

 先日、報道ステーションでは、米国の中産階級の人たちのクレジットカード破産を特集してました。サブプライム問題が表面化したと同時に激増しているそうですが、アメリカ人のクレジットカード破産は、前々から、知ってる人は知ってる、わりとありきたりの問題だったりします。

 特集では、米国のクレジットカードでは、我が国でいう「リボ払い」が一般的であることを指摘していました。初耳だったけど、考えてみると、なるほどと思うところです。

 「リボ払い」の場合、どんなにクレジットカードを使っても、月々の返済額は変わりません。限度額に達するまでは、ただただ、返済期間が延びて行くだけ。通常の1回払いであれば、カードで購入した月、もしくはその翌月には、そのぶんの金額が口座から引き落とされます。

 現金で買物をすると、支払いのときに財布からお金が消えていきます。つまり、購買行動は、好子出現による強化(購買して商品やサービスを入手)と、好子消失による弱化(購買して現金を失う)の並立随伴性で制御されています。

 クレジットカード払いだと、現金が財布からでていきませんから、弱化の随伴性はゆるく、だから購買行動が抑制されにくいわけですが、1回払いであれば、その額はそのまま一ヶ月くらいのうちに口座から引き落とされます。これに対して、「リボ払い」の場合は、数年後の支払期間が数ヶ月延びるだけです。これは塵も積もれば山となる型の随伴性。購買行動がいよいよ抑制されにくくて当然でしょう。

 クレジットカード破綻を減らしたいなら「リボ払い」を禁止すべきですね。

 もう一つ、これは留学していたときに考えていたことですが、米国では、給料の支払いが月単位ではなく、二週間に一度の人も多いです。子どものお小遣いも、庭の芝を刈ったら2ドル、というように、その時々でもらうことが多いようです。
 幼い頃からも、就職してからも、おこずかいや給与の月給制度に慣れてきた、私たち日本人にとっては、月の前半で持ち金が減ってしまうということは、次のおこずかいや給料日まで、困窮と生活していかなくてはならないことを意味します。二週間なら、ちょっと我慢すればなんとかなるかもしれません。でも、一ヶ月、学校帰りに友達と一緒に駄菓子を買って楽しめないのは辛いし、家庭生活なら崩壊です。
 もしかしたら、この月給制のおかげで、私たちはお金を貯めたり、計画的に使ったりする行動が、一般的なアメリカ人に比べると得意なのかもしれません。

 クレジットカード破綻をさらに減らしたいなら、おこずかいも給料も、月給制にするといいのかもしれません。

 財布や携帯電話をどこかに置き忘れたり、洗濯物を取り込み忘れて夕立に降られたり。飲み過ぎてひどい二日酔いになったり、下がり続ける株価に我慢できずに売ったとたんに反転したり。好きな子にいじわるなことを言ってしまったり、結婚記念日を忘れて怒られたり。

 やってはいけないと思いながらついついやってしまったり、しなくちゃいけないとわかっていながらついつい忘れてしまう経験は誰にでもあるだろう。そして「また、やってしまった」と認識すると、自信を喪失したり、抑うつ的な気分になる人までいるかもしれない。

 人はなぜ同じ過ちを繰り返してしまうのだろうか?

行動経済学では人が確率をいかに誤って認識してしまうかを様々な課題から示している。モンティ・ホール・ジレンマというのもその一つで、次のような課題だ。

テレビのゲームショーを想像して欲しい。あなたの前には3つの箱が置かれている。そのうち一つだけに賞品(ダイヤモンドの指輪)が入っていて、残りの2つはハズレで空っぽである。

どの箱が正解か知っている司会者は、あなたに一つの箱を選ばせた後で、こう言う。

「わかりました。その箱をお選びですね。では、あなたが選ばなかった2つの箱のうち、片方だけを開けてみましょう」

司会者が開けた箱は空である。司会者は続ける。

「さぁ、ここであなたにもう一度選択のチャンスを差し上げます。そのまま先ほど選んだ箱を選んでもいいですし、こちらのまだ開いていない箱の方を選んでもいいですよ。どちらにしますか?」

あなたならどちらを選ぶだろうか?

大半の人は、どちらの箱も当たりの確率は1/3で同じだからそのまま選択を変えないと回答するという。私も最初そう考えた。でも、これは不正解。

正解は選択肢を変える。そうすると指輪があたる確率が2/3になるのだ!

間違えてしまった人もご心配なく。有名な数学博士でさえ同じ過ちをおかすらしいから。

人はなぜ確率の理解が苦手なのだろうか?

今日はサマージャンボの抽せん日。2億円を夢みてうきうきしている人も多いのではないだろうか。自分もバラを30枚購入している。目指すはポルシェカイエン。

自分も含めて、そういう人たちの夢に水をさす気は毛頭ないのだが、宝くじで高額当選する確率は極めて低い。35を過ぎた女性が結婚できる確率は雷に打たれて死ぬ確率より低いという性差別的なアメリカンジョークがあるが、確率論から言えば、宝くじで2億円あたるよりも宝くじを買いに行く途中で交通事故で死亡する確率の方がはるかに高いのだ。

それでも人は宝くじを買い続ける。なぜだろうか?

文化庁の「国語に関する世論調査」が今年も発表され、新聞各紙が取り上げた。


中でも興味深いのは「ご苦労さま」と「お疲れさま」。

どちらも、ほんとうは目上から目下へのねぎらいの言葉なんだそうだ(知らなかった)。

でも、「目上/目下」というのは歴年齢のことなんだろうか? 職場での役職のことなんだろうか? まさかお家柄とかじゃないよな、とさっそく疑問だらけになる。

昔、某大学の学長のPCが「I Love You ウィルス」に感染し、彼のPCからその大学の教職員にウィルスメールが配信されてしまったことがある。Macユーザーの自分は冷ややかに傍観していたが、次世代のMacは“インテルはいってる”になり、Windowsまで動いてしまうから、うかうかしてはいられなくなる。

大手企業や自衛隊や警察などでファイル共有ソフト Winny に潜むウィルスによる個人情報の流出事件が相次ぎ、官も民も対応を迫られている。ネット銀行などを装ったフィッシング詐欺の被害も増えている。ダウンロードしたら危険なファイルへのリンクをクリックしてしまったり、個人情報を入力してはいけないサイトで実名や生年月日、住所やクレジットカードの番号まで入力してしまう人が後を断たない。

人はなぜクリックしてはいけないものをクリックしてしまうのだろうか?

10年ぶりに東京へ戻って驚かされたことの一つが電車で化粧する女性たちだ。マスコミ報道で存在は知っていたけど、読むと聞くとでは大違い。目の前で繰り広げられる彼女たちのふるまいに、戸惑い、恥ずかしさ、そして大きな興味を抱いた。

じろじろ見ては失礼だと思いながらも、その器用さと手際の良さに感動してしまい、ついつい観察してしまう。けっこう揺れているのに眉とかしっかり描いてるし、電車の中で化粧しやすいようにバッグから容器まで装備もいろいろ工夫していそうである。そうやって観察してよくわかった。あの人たちはコンパクトを見るのに忙しから、回りからじろじろ見られても気がつかないか、気にしていないのだ。

週刊誌の記事などからは女子コーセーなど若年層が多いという印象を受けていたが、三十代・四十代の女性もいらっしゃる。必ずしも単純に「世代」による現象とは言えないようだ。

彼女たちはなぜ電車で化粧をするのだろうか?

 某英会話スクールのテレビコマーシャル。リメイクされる邦画「日本沈没」とのタイアップらしく、日本人全員が国外退去を命じられ、それまで英会話など興味がなかった男性が「○○○○、行っときゃよかったな」とつぶやく。メッセージは「日本が沈む前に」。日本を沈没させなければならないほど、日本人の英会話への動機づけが低いということだろうか。

 おりしも公立小学校に英語の授業が正式に導入されようとしていて、これには反対意見もかまびすしい。元々は、国際舞台で活躍する日本人を増やそうという政府の国策にもとづくカリキュラム改革のようだが、推進派・反対派どちらの意見も妥当なわりに確たる根拠があるわけではないように見える。

 雨が降るたび「ひと雨500本」と言われるほど、駅や電車で傘の忘れ物が増えるらしい。その数は上着などの衣類、財布、カードや証明書などをダントツで上回っているという。

 人はなぜ傘を置き忘れるのだろうか?

 置き忘れた傘の回収率はとても低い。夕立に出くわしてワンコインで買ったビニール傘なら、置き忘れに気がついてもわざわざ取りに戻らないようである。傘が必要なのは雨が降っているとき、あるいはこれから降りそうなときで、雨が止んだ後は荷物になるだけだから、夕立の後の忘れ物が多いことは常識的にも理解できる。

 杉山尚子先生(山脇学園短期大学)が新書版『行動分析学入門』で分析しているように、暗い部屋に入るときに灯をつける行動は、部屋が明るくなることで強化されるが、部屋を出るときに灯を消す行動は本人にとって直接のメリットはなく、電気代の節約とか「また、つけっぱなしじゃないか!」と同居人からなじられるのを避けることで強化される。後者の随伴性は前者に比べるとそれほど強くはないから、灯をつけ忘れる人はいないけど、つけっぱなしで部屋を出る人はけっこういるわけだ。

 傘の置き忘れも同じように分析できる。カフェから出るとき、まだ雨が降っているのに傘を置き忘れる人はほとんどいない。雨が止んでいるときには、せっかく買った傘を失うことや「また、なくしたの!」と怒られることを回避するくらいの随伴性しかないから、レジで会計を済ませた後に傘立てを見て、自分の傘を取ってから店を出る行動が引き出されにくいんである。

 と、ここまでは、傘の価値の話。雨が降っているときはワンコインのビール傘でも500円以上の価値がある(6万円のスーツを濡らさずにすむから)。雨が止めば、傘の道具としての価値が一時的に下がる。中古だから100円にもならない。だから傘を持って出る行動が少なくなるという解釈だ。
 でも、傘の置き忘れのような“うっかりミス”には他にも理由がありそうだ。駅での忘れ物ランキング上位には、財布やカードという、いつだって価値があるものが登場している。価値があるものなら置き忘れないというわけではない。

 学生が授業に遅刻したり、レポートの〆切を守らないことがあるように、私たち大学教員も授業や会議に遅刻したり、原稿の〆切を守らなかったりする。
 先週はゼミの時間に遅刻してしまった。めったにないことなのだが、再発防止のため、遅刻するたびにゼミの打ち上げ基金として五百円ずつ積み立てることにした。ちなみにこれは私だけの特別ルールで、学生の場合は遅刻15分につき出席点が1点ずつ減点となる。
 大学教員にとっては論文や専門書を執筆して発表する仕事の優先順位はかなり高いことになっている。ところが、授業や会議や学生の指導やその他の雑用に比べて、この仕事は遅れがちな仕事でもある。
 毎年何本か着実に論文を書いている人もいて、つくづく感心・尊敬してしまうのだが、こういう人は少数派である。多くの教員は〆切を守るのに必死だし、〆切を守れない人も少なからずいる。
 大切な仕事であると認識しているのに、どうして原稿の〆切を守るのがそれほど難しいのだろうか?

 新学期が始まって、学生が教室にやってくる時間に“格差”というか二極化傾向があるのに気がついた。

 授業開始30分以上前から教室にいる学生もいて、こっちが時間を間違えたかと驚かされたと思えば、授業が始まって5分以上たってから悪びれずに入ってくる学生もいる。

 七割近くの学生は5分前には到着している(エラい!)。欠席者は除くとして、遅刻者でもほとんどは電車が遅れたなどの“正当な”理由があって、「遅延証明書」を取ってくるものもいる(そんなもんを見るのは高校時代以来だったので、やたら懐かしかったぞ)。

 私の授業の前に他の授業や用事でキャンパスにいたかどうか、たまたま授業前に空き時間があったかどうか、通学路など、一人ひとり事情が異なるから、そのへんを調査しないと結論は出せないのだが、遅刻に関する学生のパフォーマンスは、2つの特性の組み合わせ(2×2の4パターン)で、おざっぱに分類できそうだ。

・健康に悪いことがわかっているのにタバコをやめられないのはなぜ?
・ダイエットのためにジョギングしようとしても続かないのはどうして?
・この世から戦争がなくならないのはなぜ?
・どうして泳げるようにならないの?
・歳をとると物忘れがはげしくなるのはなぜ?
・子どもが言うことをきかないのはどうして?
・うちの夫はどうして服を脱ぎ散らしたままにするの?
・好きな子の前では緊張して話せなくなるのはどうして?

「人はなぜそのように行動するのか?」--これは人々が心理学に興味を持つ理由の一つだし、行動分析学という学問の究極的な目的でもある。

実験や実証を最重要視する行動分析学はとてもストイック。権威や憶測ではなくデータがモノをいうというポリシーと、役に立ってこそナンボという実利主義的な価値観が、望月昭先生(立命館大学)が指摘するように、優れた“業務用心理学”としての実績を作ってきたのだから、このストイックさは誇るべき資産だ。

でも、その一方で、データがないと何も言わない、わかっていないことは推測しないという頑なまでの態度が、人々が心理学に持っているイメージや期待からのズレを生んできたこともまた事実だと思う。

なぜなら行動分析学の学術誌で受理される研究は実験計画がしっかりしていてデータがある論文であり、そういう論文を書こうと思ったら、たとえば昔なら強化スケジュールやマッチング、ついこないだまでは等価性、応用なら自閉症というように、論文になりやすい領域やテーマが比較的限定されているからだ。

これはどの学問領域でもそうだと思うけど、学問の本来の目的を達成するための随伴性と、学者の研究行動に影響している随伴性は必ずしも一致しないのである。

先日、吉村浩一先生(法政大学)が大学院のガイダンスで「行動分析学は心理学の歴史の中で、唯一、一貫した学問体系を作り上げた学問かもしれない」という主旨のことを述べられていた。

まさしくその通りだと思う。

そして本来なら(というか理想的には)、たとえば『心理学研究』に載っている論文のすべての領域は『行動分析学研究』でも(研究方法論はまったく違ったとしても)カバーされていなくてはならないのだ。行動分析学の古典的な教科書であるKeller & Schoenfeld の『Principles of Psychology』や、私の師匠のMalott & Whaleyによる『Psychology』はそういう構成になっているし、スキナーの『Science and Human Behavior』や『Verbal Behavior』にいたっては、実は実証的な研究による直接的な裏付けはほとんどなく、基礎的な行動の原理を使うと複雑な人間の行動はこのように理解できますよという解釈が中心だ(ちなみに『Science and Human Behavior』は二瓶社から和訳がでています。原書はここから無料でダウンロードできます。←愛知大学の浅野俊夫先生による情報提供)。

こういう行動的な解釈は理論的行動分析学と呼ばれ、実験的行動分析学と応用行動分析学に並んで、一応、行動分析学の三本柱ということになっている。“一応”と書いたのは、このことは行動分析学以外の心理学者にはほとんど知られていないし、行動分析学界でもストイックな行動分析家にはBS(牛の排泄物)と揶揄されることさえあるからだ。

鳴門教育大学在職時代に運営してたコラボネットやこのブログではデータに裏打ちされた研究をわかりやすく紹介するというスタンスをとってきた。この方針に変わりはないが、行動分析学が対象とするテーマやトピックをもっと拡げるために、データがなく、推測に過ぎない記事も書いていくことにした。

ただし、その区分けは重要だと思うので、新しいカテゴリーをつくりました。それがこの「人はなぜそのように行動するのか?」(ベタだけど)。

できれば週1本くらいのペースで書いていこうと思います。

法政心理ネット