上の図は「文化の違いと人々のふるまい 行動経済学で解明進む」(大垣昌夫, 日本経済新聞, 2011/3/9, 朝刊)に掲載されていたもの。あまりに興味深いので無許可転載。
興味深いのは、確かに直感的にも納得できる、日本と米国の"国民性"みたいなものが見事に数字に表れていること(もちろん、"国民性"のような大きなテーマは、標本抽出など、よほど研究計画がしっかりしていないと妥当性のある結論は導けないもので、本論文を読まないと判断できないのだけれども)。
もう一つ興味深いのは「確信度」の正体。行動分析学からすると「確信度」なるものを評定する行動(タクト)の随伴性である。
この研究では「確信度」を以下のように算出している。
「日本人で一番多いのは、11点満点中「0点」の人々である」というから、上述の「それ以外の回答」が何なのか気になるところだが(記事には明記されていない)、日本人は米国人に比べて「どちらともいえない」「どちらかといえば賛成」を選ぶ人が多いということになる。
上の図からわかるように、米国人のデータは5と6にゆるい山があるものの、ほぼ平坦で、なんでもかんでも「完全に」と、いつでも自信たっぷりなわけではない(個人のデータをみればそういう人もいるだろうけど)。
ということは、このデータからわかることは、日本人がことさらに「完全に」の選択肢を回避しているということである。
"確信"していないのかもしれないし、"確信"していることをタクトした後にそれが間違っていたときに起こりうる環境変化(「間違っていたじゃないか」と批判されることなど)を回避しているオートクリティックなのかもしれないし、その両方の成分がどれだけ作用しているのか回答者本人にもわからないような状態で多重制御されているのかもしれない。
「〜である」の替わりに「〜と思う」と言ったり、書いたりする日本人は多い。英語でいちいち"I think ...."と言っていたら、まず、行動コストが余分にかかるのと(言語--Language--の持つ特性)、場合によっては "You think!?" (「いったい、ほんとうのところどうなんだ!?」)と問いつめられるかもしれない(事実と解釈を区別する言語共同体の持つ特性)。これは今回の原発関連の政府による一連の発表を英語圏の記者がいらいらしながら聞いていることからもわかる。
最近の日本語だと「〜と思う」だけではすまなくて、「私の中では〜と思う」というように、まるで「〜と思っているのはあくまで私の中での話なんだから、それ以上、入ってこないで!」と、あたかもAT フィールドをはりめぐらしたオートクリティックが自発されることも多い。
そうかと言えば、ネットでの匿名発言(2ちゃんねるにしろTwitterにしろ)でも、友達同士の会話でも、「絶対に」とか「間違いない」とか「〜に決まっている」というような断言のオートクリティックもよくみかける(授業やゼミではあまりない)。それが故に、私は、上のデータが"日本人の確信度の低さ"だけを純粋に表しているわけではなく、断言することが弱化される随伴性による(or その類似の随伴性の履歴効果による)回避の機能をもったオートクリティックであると考えるわけである。