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「絶対に穴のあかない超合金」vs.「何にでも穴をあけられるドリル」とか、「絶対にあけられない金庫」vs.「どんな鍵でもあけられる鍵師」とか、ひいては「ぜったいに見破られないヌーブラ」vs.「ヌーブラを見抜く男(だったっけ?)」とか、ときどきぐぐっと見入ってしまうフジテレビの『ほこ x たて』。

昨晩は「釜で炊いたご飯を見抜く男」と「釜で炊くご飯を完全に再現した炊飯器」の対決だったのだが、これにはちょっとがっかり。なぜなら、釜と炊飯器で炊いたご飯をそれぞれお碗に一杯ずつ盛り、名人が両方をじっくり観察したり、味わってどちらが釜で炊いたご飯なのかを一回ぽっきりで当てる形式だったから。

チャンスレベル50%。あてずっぽうでも2回に一回は当たってしまうじゃないかい(同様のもちっとまじめな記事はこちらから)。

象印さん、現場に応援スタッフをかなりの人数送りこんでましたが、名人に「日本の技術力はすごいです」なんて社交辞令言われる前に、この勝負の問題点を指摘して、せめて5試行くらいはやってもらうべきではなかったのかな。理系の会社としては。つーか、それで0-5だと逆に辛いか。

名人が、どちらかに決める前には自信なさそうに首をかしげていながら、当たったとわかったら、ほらみたことかのように表情が変わったようにも見えたので、南部鉄器極め羽釜ファンの私としては、まるで自分のことのように地団駄ふんでしまいました。

この番組、10月から日曜夜7時のゴールデンに進出するそうです。またまた超合金対決もあるそうで、期待大なり。

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 上の図は「文化の違いと人々のふるまい 行動経済学で解明進む」(大垣昌夫, 日本経済新聞, 2011/3/9, 朝刊)に掲載されていたもの。あまりに興味深いので無許可転載。

 興味深いのは、確かに直感的にも納得できる、日本と米国の"国民性"みたいなものが見事に数字に表れていること(もちろん、"国民性"のような大きなテーマは、標本抽出など、よほど研究計画がしっかりしていないと妥当性のある結論は導けないもので、本論文を読まないと判断できないのだけれども)。

 もう一つ興味深いのは「確信度」の正体。行動分析学からすると「確信度」なるものを評定する行動(タクト)の随伴性である。

 この研究では「確信度」を以下のように算出している。

11個の世界観に関する質問を用いた。例えば、「死後の世界がある」「神様、仏様がいる」「人間は他の生物から進化した」というような信条に「完全に賛成」なら1、「どちらかといえば賛成」なら2、「どちらともいえない」なら3、「どちらかといえば反対」なら4、「完全に反対」なら5を選んでもらう、というものである。ここでそれぞれの質問で1か5の回答なら1点、それ以外の回答は0点として「確信度」と呼ぶ変数を作った。

 「日本人で一番多いのは、11点満点中「0点」の人々である」というから、上述の「それ以外の回答」が何なのか気になるところだが(記事には明記されていない)、日本人は米国人に比べて「どちらともいえない」「どちらかといえば賛成」を選ぶ人が多いということになる。

 上の図からわかるように、米国人のデータは5と6にゆるい山があるものの、ほぼ平坦で、なんでもかんでも「完全に」と、いつでも自信たっぷりなわけではない(個人のデータをみればそういう人もいるだろうけど)。

 ということは、このデータからわかることは、日本人がことさらに「完全に」の選択肢を回避しているということである。

 "確信"していないのかもしれないし、"確信"していることをタクトした後にそれが間違っていたときに起こりうる環境変化(「間違っていたじゃないか」と批判されることなど)を回避しているオートクリティックなのかもしれないし、その両方の成分がどれだけ作用しているのか回答者本人にもわからないような状態で多重制御されているのかもしれない。

 「〜である」の替わりに「〜と思う」と言ったり、書いたりする日本人は多い。英語でいちいち"I think ...."と言っていたら、まず、行動コストが余分にかかるのと(言語--Language--の持つ特性)、場合によっては "You think!?" (「いったい、ほんとうのところどうなんだ!?」)と問いつめられるかもしれない(事実と解釈を区別する言語共同体の持つ特性)。これは今回の原発関連の政府による一連の発表を英語圏の記者がいらいらしながら聞いていることからもわかる。

 最近の日本語だと「〜と思う」だけではすまなくて、「私の中では〜と思う」というように、まるで「〜と思っているのはあくまで私の中での話なんだから、それ以上、入ってこないで!」と、あたかもAT フィールドをはりめぐらしたオートクリティックが自発されることも多い。

 そうかと言えば、ネットでの匿名発言(2ちゃんねるにしろTwitterにしろ)でも、友達同士の会話でも、「絶対に」とか「間違いない」とか「〜に決まっている」というような断言のオートクリティックもよくみかける(授業やゼミではあまりない)。それが故に、私は、上のデータが"日本人の確信度の低さ"だけを純粋に表しているわけではなく、断言することが弱化される随伴性による(or その類似の随伴性の履歴効果による)回避の機能をもったオートクリティックであると考えるわけである。

電通総研10-20代の生活意識を研究するプロジェクト『若者問題研究所(略称:電通ワカモン)』発足  第一弾として高校生調査を実施 (2010.12.15)

 ツイッターのタイムラインから調査報告書(といっても概要みたいなもの)を読んでみました。

 そうしたら、アンケートの質問項目はどうやら「将来、どんな職業につきたい、または生き方をしたいですか? 一つだけお答え下さい」で、回答は多岐選択だったようです。

 どのような選択肢があったのかはわかりませんが、この表からすると、少なくとも「公務員」「大企業の正社員」「介護士・保育士・看護師」は別項目だったようです。

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え、市町村の保育園に務める保育士って公務員じゃなかったっけ?

え、ニチイとかワタミとかの介護大手って「大企業」とはみなされないの?

 そもそも、社会調査でも心理検査でも、一つの項目で2つの質問をしてはいけません。回答がどちらの質問に答えたものなのかがわからなくなり、せっかくのデータが水の泡となるからです。

 それに「生き方」って言ったって、雇用・賃金が安定していて、定刻に帰宅できる(最近はそんなこともないみたいですけど)から「公務員」という人と、給料は安くてもいいから世のため人のために働きたいから「公務員」と回答する人とでは選択肢の意味がまったく異なるじゃないですか。

 これは単なるサンプル調査だからまだいいけど、まさか高校や大学の進路指導やキャリア教育でこんな粗雑な仕事していないといいんだけれど。

 せめて、日本標準産業分類の項目についてそれぞれどういう産業なのかを説明し、かつ、ある産業の会社に入社したからと言って、その職業に就くわけではないことも説明し(「メーカー」に就職したからといって工場での「製造」に携わるとは限らないこと)、その上で「どのような仕事をしたいですか?」、「どのような産業に務めたいですか?」、「あなたの生き方として仕事には何を求めますか?」などの質問を別立てでしないとね。

 この記事書くのにいろいろ検索したら「職業図鑑:450種の職業が一目でわかる!」というサイトを見つけました。『13歳のハローワーク』は薦めても読んでくれない生徒さんでも、このサイトなら使ってくれるかも。進路指導の先生方、ぜひご活用を。

 話の本筋からははずれますが、「高校生のなりたい職業」は「高校生が就きたい職業」、「どんな職業につきたいですか?」は「どのような職業につきたいですか?」でないと、どーにも気持ち悪いです。

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気がつくと姿を目で追いかけていたり、すれ違っただけでうれしかったり。
小学校高学年になると気になる異性がいる子どもも増えてくる。
「いいな」と思う異性への接し方を聞いたところ(複数回答)、「たくさん話しかける」という積極派が最も多かったが、「遠くから見ている」消極派も2位につけた。
(2010/10/16, 日経プラスワン, 3ページ)。

 「2位につけた」って... 「遠くから見ている」のは「接する」に入らないでしょ。

 こういうアンケート結果は、どのような質問を、どのようにしたのか、つまり調査方法を込みで判断しないと何がなんだかわからない。

 記事には、

一方、昔なら定番だったと思われる「走るのが速い」は男女とも上位10位内から外れた。

 ともあるから、おそらく調査者が勝手に決めた選択式なのだろう。

 そもそも "「いいな」と思う異性への接し方は?」" と聞いただけなら、異性にどのように接したいのか、それとも異性からどのように接してもらいたいのか、どちらを聞いているのかさえわからない。

 本気で実態を調査するなら、直接観察や本心を聞けるような状態でのインタビュー、自由記述などの下調べをして、ある程度定型の回答が得られたところで多岐選択式(複数選択可能)の質問紙を作らないとね。

 目の付けどころは面白いけど、方法が残念な調査の例でした。

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遅延証明書が好きになれない(好きな人はいないかもしれんが)。

なぜなら遅延証明書にまつわる随伴性が超紋切り型の言い訳を強化する随伴性だからだ。

遅延証明書が必要な状況っていうのは、遅延証明書があれば怒られなかったり、ペナルティを避けられるような状況だと思う。

そもそも遅延証明書を発行している主旨は、自分ではどうしようもない理由で(電車が遅れて)遅刻したときに、その事情を説明してわかってもらうこと、そしてそれが嘘ではないことを証明するもののはず。

ところが、どっこい。

たとえば都営新宿線の市ヶ谷駅だと、電車が少し遅れただけで(時刻表から遅れてるだけで電車は運はしていても)、改札の出口にこんな箱が設置される。

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電車の遅れで遅れた人も(ほとんどいないはずだけど)、自分が遅れて遅れた人も、遅延証明書は取り放題。だから、自分のせいで遅れたわけではないですよということを証明する機能はとうに失っている。

それに、そもそも約束の時間に遅れたなら、証明書どうこうの前にまずは「謝る」ことが社会を円滑にしていく大人の振る舞いというものだ。これはたとえそれが自分のせいであっても、電車が遅れたせいであっても同じ。だって、理由はなんであれ、遅れたこと、相手を待たせたことに変わりはなく、「謝る」のは自分に責があることを認めるという機能よりも、待たせた相手が持っているかもしれない感情的なしこりを解くことに意味があるのだから。

それが遅延証明書があるだけで、ころっと事情が変わる。謝る必要などさらさらなし。だって、俺のせいじゃないもん。ほら、遅延証明書があるでしょ。ってな感じ。電車がすんごい遅れたんですよぉ〜なんて説明する必要もなし。紙切れ一枚で済む、究極の言い訳なのだ。

という事情で、自分の授業では遅刻は遅刻。遅延証明書があろうがなかろうがマイナス点というポリシーを貫いてきたのだが、だからとってより社会的に望ましい行動が自発されるわけでもないことがわかった。遅刻して申し訳なさそうに教室に入ってくる学生はほぼ皆無。みんな堂々としている(出席する行動は強化したいからアンビバレンツ)。

なので、今年度からは遅刻による減点はやめました。でもそれによって遅刻が減ったようにも見えないので、おそらく遅刻による減点は効果がなかったということでしょう。

せめて遅延証明書による紋切り型の言い訳を強化しなくてすめばと思っていたけど、相変わらず無言で教壇に遅延証明書をおいていく輩もいる。

いらないんだけどね。

某TV番組の制作会社から「人はなぜ応援するのか?」を教えて欲しいと問い合わせがきた(全国ネットのゴールデン枠)。

バンクーバーオリンピックを来月に控えての企画らしい。

専門ではないのだが、面白いテーマだと思い、休日返上で文献調査してみた。

すると、意外なことに、心理学的な研究はほとんど見つからなかった(社会学的な論文はいくつか見つかったが、あまり面白くない)。

たとえば運動会で自分のチームの友達を応援するようになるのは、いつごろ、どのようにだろう?なんて疑問は、発達心理学の研究にありそうだが、ない。

どんな人がどんな選手をどんな理由で応援しがちかなんてのは、社会心理学の研究にありそうで、ない。

心理学で最も近そうなのは、スポーツ心理学における「ファン心理」や「観戦行動」の分析だが、どちらも「応援」とは微妙なズレがある。観戦してても応援するとは限らないし、観戦しないでも「気持ちで」応援はできるし。

それでもいくつか関連する文献がみつかったので、以下のメールを返信した。

XXさま こんにちは。

お問い合わせの件ですが、私は「スポーツ観戦」の研究をしていませんのでよくわかりません(ごくごく一般的なことか、推測や憶測になってしまいます)。

そこで少し文献を調べてみました。しかしながら、「スポーツ観戦」とか「ファン心理」の研究ならいくらかあるようですが、観戦中に応援することの効果や機能についての研究はあまり行われていないようです。

関連のありそうな文献をご紹介しておきます。お役に立てず、申し訳ありません。

広沢俊宗・井上義和・岩井 洋(2006)プロ野球ファンに関する研究(V) : ファン心理、応援行動、および集団所属意識の構造(第二部 スポーツファンへの多面的アプローチ,創造性の視点) 関西国際大学地域研究所叢書, 3, 29-40.

元 晶?(Won Jung-uk)(2008)韓国プロサッカー観戦者の消費行動特徴に関する研究 : Kリーグ観戦者の人口統計学的特徴、観戦動機、観戦ニーズを中心に 環境と経営 静岡産業大学論集, 14(1) ,1-14.

ところがまったく音沙汰がない。 目が点になるとはこのことである。

担当者ともどもこの制作会社は次回から返信しないブラックリスト行き。

昨年の夏に帯状疱疹をやってから認知機能がどうにも低下していたので(新聞を読んでいても頭がボーッとして内容が理解できない、集中できないなど)、iPhoneのゲームを使ってみることにした。

『全脳トレ』東北大学川島隆太郎教授監修の、いわゆる「脳トレ」。

「脳トレ」そのものには懐疑的だが("脳"がトレーニングされるわけじゃないし、"脳力"なんてのも曖昧すぎるし、老化防止などにエビデンスがどれだけあるかわからないし....)、でも、数分間集中して頭を使って強化される課題が欲しかった。

『全脳トレ』にはいくつかのゲームが含まれているが、計算(加減算)、カウント、条件性弁別、図形の分解組合わせ、短期記憶などからなる課題がほとんど。

一日に「全脳トーニング」を3課題、「脳年齢測定」を1課題やるようになっている。10月からほぼ毎日取り組んでいる。当初は脳年齢が40-50歳と判定されていたのが、最近では20歳を度々マーク!(脳年齢は20歳がベストスコアらしい)。

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ゲームはそれぞれ「前頭葉」「側頭葉」「頭頂葉」に対応するように作成されているらしく、「全脳トレーニングの変化」が下の図のように各々の累積得点としてグラフ表示される。

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興味深いのは、このゲームを始めた最初の数ヶ月間、明らかに「頭頂葉」のデータだけが伸びていなかったこと。

頭頂葉と言えば、感覚の統合をしているところだけど、計算の機能も果たしていると言われている。

確かにゲームの中で苦手としているのは「ダイスのうらがわ」「3をたして」など計算の部類。

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ところが、ゲームの解説によると、これらは「前頭葉」のトレーニングということになっている(主観的には成績が低いのに評価は高い)。

逆に「頭頂葉」と関係あるとされている「点灯記憶」は主観的には得意なほうだし。

最も苦手としている「パイプ接続」は「頭頂葉」と関係あるらしいから、このゲームが足をひっぱっているのかも。ただし、このゲームは未だに何をどうすればいいのかよくわからん。「ダイスのうらがわ」のように、慎重に時間をかけて考えれば正解する課題とは話が違うと思うのだが...

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それでもここ数週間で「頭頂葉」の得点が向上してきて、累積得点の伸び率は他の2つとほぼ同程度になった。

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「パイプ接続」は相変わらずできんのだが(謎)。

認知機能はおかげさまでほぼ回復。ただし「脳トレ」との関係性は不明。

最近のマイブームは“視考”(Visual Thinking)というコンセプト。

スタンフォード大学のMcKim博士が“Experiences in Visual Thinking”という著書で提唱したアイディア(McKim, 1972)で、「視ること」「描くこと」「考えること」が知的生産活動を支える3つの要素であるとする思想だそうな(石井, 2006)。

行動分析学で人の行動(ココロと言ってもいいけど)を読み解くのに一番役立つと思うのは、行動随伴性ダイアグラムを描いてみることだと思う。だから、学校の先生でも、ゼミ生でも、講義の受講生でも、最もマスターしてもらいたいのが、この思考法。ところが、同時に、教えるのが最も難しいスキルだったりもする。

強化や好子や弁別や分化といった基礎概念の定義をマスターするのはそれほど難しくない。ABC分析も穴埋め完成問題ならほぼ100%正解できるように教えられる。ところが、何かしらのテーマを与えて、自由に分析して“ひらめき”を得る、という課題になると、まったく身動きがとれず「難しいです」という苦情のような悲鳴があがる。

なぜだろうか?

今年は心理学実験実習を担当してます。

実験実習といえば、学部生のときには2年次に履修し、大量のレポート作成に追われながらも、実験そのものや班のメンバーとの一体感がとても楽しかったことを思い出します(@千葉大学)。

修士では学部生(3年次)の実験実習のティーチングアシスタントのようなことを修士の授業として履修しました(@慶応義塾大学)。インストラクションの用意や実験機器の準備に追われ、これまたものすごく忙しかったけど、ウブな学部生との交流は楽しかったなぁ。

法政ではなんとホッカホッカの一年生が実験実習に取り組みます。まだ「心理学とはどんな学問か」はっきり掴めていない時点での実習であるということ、それから今年から週1コマ(90分)で通年の枠になり(昨年度までは週2コマ続きで半期だった)、しかも後ろに授業があるので延長はできないという制限での実習です(千葉大・慶應とも、実験によっては2コマ続きの時間割内では終わらずに、夜の7時8時まで居残って実験してましたねぇ)。

そういういろいろな事情もあるので、通常の実験自習とはちょっと変わった授業作りをしています。錯視や鏡映描写や記憶などの古典的実験を扱うことにはかわりありませんが、定番の実験教材で定番の測定法で定番の分析を「させる」のではなく、学生たちに仮説を考えてもらい、測定方法や教材も考案させ、その結果を発表し、討論する中で、変数の統制法や統計の使い方などを学んで、改善してもらうという方法です。

実験は体験するだけでもけっこう楽しいものだけど、それだけで終わらずに、「これってどうなってるんだろう?」「これってどうすればわかるんだろう?」「どうやって発表すればみんなにわかるように説明できるんだろう?」などなどの疑問が自主的に生まれ、自習を進めるうちに解決していくような授業設計を目指します。

うまくいくかな。

「いつもと同じようにカレーを作ったはずなのに味が違います。どうしてでしょう?」

このような日常生活における原因推定を標的行動にした実験をしたことがある。

「できるだけ早く考えて下さい」という速考条件と「できるだけよく考えて下さい」という熟考条件、問題に対するいろいろな解答例を示す例示条件と例を示さない条件の2×2の要因配置でそれぞれの被験者群で訓練を進めたところ、速考+例示条件が他の条件よりも多くの原因推定を引きだした。パフォーマンスが最も低かったのが熟考+非例示条件だった(島宗・三宮, 2001*)。

でも今になって考えると、“速考”と“熟考”を思考スピードの高低で単一次元的に分けるのは適切ではなかったかもしれない。

いわゆる“物事をじっくり考える人”の思考を観察したら、たとえば「解が一つ見つかってもそれで課題を終了せずに他の解を考え続ける」とか「なかなか解が見つからなくても考え続ける」などの行動様式が見つかるはずだ。前者は課題終了の弁別刺激の問題、後者は消去抵抗の高低の問題である。

こうした行動様式と思考のスピードの高低は論理的には独立した変数である。速いスピードでじっくり考えることも可能なのだから。

世の中を賢く生きるための思考を身につけようと思ったら、思考スピードと、上述のような思考形式の両方が必須になるだろう。

*島宗 理・三宮真智子(2001)日常的な問題の原因推定に及ぼす速孝・熟考・例示の効果 日本行動分析学会年次大会プログラム・発表論文集, 19, 112-113.

現職の先生たちと一緒に仕事をしていて、じれったくなるときがある。

「思い込み」はその一つ。

ゼミでPEP-Rの実習を準備しているとき、一つ一つの検査用具をビニール袋につめていく竹田さんに、とうとう堪え切れなくなって、「なんでビニール袋につめるん?」って聞いてしまった。

「その方が次の課題をすぐにだせるから」というのだが、突っ込んで聞いてみると、一度に使う検査用具は3つくらいで、それはカゴに入れておく。だから、どう考えてもこのビニール袋づめ作業のメリットがわからない。

さらに突っ込んで話を聞いていくと、「確かにそうですね。なんでビニール袋につめるんだろ? でも、すっとこうやってますよ。そう教えられたし...」とのこと。

教えられたことは、「なぜ、そうするのか?」とか「もっと楽なやりかたはないのか?」とかはあまり考えず、教えられた通りに伝達・実行するのも現職教員(というか公務員?)に特徴的で、じれったく思う思考形態だ。

そんな貴兄に....

果たして完全禁煙の居酒屋ってうまくいくと思いますか?(ちょっと唐突だけど)

喫煙者は酒を飲みながら喫煙する。だから完全禁煙の居酒屋にはいくはずがない。よってうまくいくはずはないと予想するかもしれない。

ところが.....

日本の食料自給率は40%? それとも70%?

日経新聞(2005.2.21)によれば「どちらも正解」。40%はカロリー換算、70%は金額換算で、野菜や果物など値段は高くてもカロリーが低い国内産の食料があるために、これだけの開きがでるという。

他にも、「保育園の待機児童数」や「国民年金保険の納付率」を例に上げ、政策決定の基本となるデータが意図的に歪められていることがある可能性を指摘している。

どの統計も物事の一面でしかない。しかも、作成者の意図が隠されている場合もある。利用者は絶えず行間を読む姿勢が必要だ

という主張にまったく賛成する。

日曜のテレビ番組で中山文科相が、総合学習の時間の活用の仕方を見直すと発言していた。どうやら廃止にはしないらしい。

総合学習の時間という時間割の問題は、そこで何を教えるべきかという指導目標についてのスタンダードがないことだと思う。小中学校の段階で、各教科単独では確かに教えにくく(教えられないわけではないと思うけど)、横断的な教材や活動の方が教えやすいことは確かにあると思う。

上のような「統計のウソ」を見破るための思考などはその一つだろう。

体験学習のように、どんな活動をするのかといった指導方法の見直しではなく、いま子どもたちに何を教えるべきかという、指導目標の検討をお願いしたい。

日本行動分析学会の年次大会で気になった発表シリーズ その1:『通常学級において目標設定とフィードバックが授業準備行動に及ぼす効果』 道城裕貴・西山亮二・松見淳子から

通常学級でのクラス全員への介入。標的行動は授業が終わった後に(1)机の上を片づける、(2)次の時間の教材を机の上に出す、(3)いすを机に入れる、の3つ。

休み時間の間に机の上に教科書があったら邪魔じゃない?っていうツッコミは置いておくとして、目標設定とフィードバックだけでパフォーマンスが71%増加したというから驚き。

介入は6週間続けられたが、その間、この効果は持続した。でも、できればもっと長い間(たとえば半年とか)、同じ介入を続けて効果が持続するかどうか検討して欲しかった。

なぜなら、多くの場合、フィードバックだけでバックアップ好子がないと効果が持続しないから。

それに、こんなに簡単な介入なら、担任の先生が最初から導入できていてもいいのは?とも思いがちだけど(今回の実践は道城氏が大学院生ボランティアとして学校に入って行った実践だという)、おそらく、「目新しさがなくなれば元に戻ってしまうから」はこの手の介入をためらうときの、よくある理由だと思う。

そんなことを考えていて思ったのは、逆に、なぜ「目新しさ」は好子として機能するのだろうか?ということ。バックアップ好子がないことは最初から分かっているのに....

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残念ながらアテネでは惨敗してしまったが、末續選手は日本古来の動きのひとつ-ナンバ走り-で世界に挑んだ。そしてこれまでの日本選手を越える記録をだした。

他にも、巨人の桑田投手や桐朋高校バスケットボール部など、古武術の動きをスポーツに取り入れて成功した事例が報告されるにつれ、「ねじらない、ためない、うねらない」という古武術の動きが注目されるようになった。

スポーツアトム研究会で上田先生に教えてもらい、興味をもって読んだ本が『古武術で蘇るカラダ』(甲野善紀編 宝島社)。

古武術とは、そもそも武士がいかに己の技を磨き、殺される前に相手を殺せるかという過酷な随伴性の中で編み出されてきた、カラダの動かし方のようだ。よって、スピード、意外性、力などが重視される。

力を入れるのではなく、力を抜くことで初動を速くするなど、面白いアイディアもたくさんある。行動分析学的に考えれば、行動の機能を高めるために、どのような行動形態(トポグラフィ)をとれるかという問いだ。

ただし、怪しげな記述もそれ以上にたくさんある。

p.28には

通常は重くてとても持ち上がらないバーベルでも、落下中のエレベーターなら無重力状態に近くなるため、自分の体とともにバーベルも軽く感じる。膝を抜く動作では、疑似的にこの状態を作る

とあるが、エレベーターもバーベルも人も同じ速度で落下している限り、そんなことは起こらないと思うのだが...

納得診療?

国立国語研究所というところは面白い。

「外来語」委員会というのがあって、わかりにくい「外来語」ではなく、日本語を使いましょうということなんだろうけど、今回の提案(6月末)では、

・「ドメスティックバイオレンス」→「配偶者間暴力」
・「アカウンタビリティー」→「説明責任」
・「スタンス」→「立場」

などの言い換えが提案されている。

われわれがフツーに使ってしまう「スキル」は全体で半分、60歳以上だと1/4以下の人しか意味がわからないということで「技能」に言い換えられている。

すでに日本語にある概念や用語なら、確かにわざわざカタカナを使う必要はないので大賛成。

でも、問題は概念自体が新しく、日本語に(あるいは日本文化に?)一対一対応するコトバがないとき。

「インフォームドコンセント」が『納得診療』とは、ちょっと納得できないんだよね。

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