「コピペ」ってすでに辞書にまで掲載されている立派な(?)日本語なんですね。Macに標準装備されている「スーパー大辞林」では、「コピペ」→「コピー-アンド-ペーストの略」→「コピー-アンド-ペースト」→「コンピューターのデータ編集作業で,文字や図形などのデータの一部を複写し,他の部分へ貼り付けること」となります。
世間を騒がしている剽窃問題については記載がありませんが、これも時間の問題かもしれません。
剽窃について、大学で教えている経験からすると、対策はただ一つ。正しいコピペの方法を教えるしかないです。
私が担当している学部の「心理学基礎実験」では、入学したてのピカピカの一年生を対象に、心理学の基礎的な実験実習をして、レポートを書く方法を教えています。
なにしろ相手は先月まで高校生だった学生諸君です。「ですます」調ではなく「である」調で書くんだよとか、事実と解釈を区別して書くんだよとか、感想ではなく考察を書くんだよとか、そういうところからスタートします。段落の書き出しは一文字あけるんだよとか、「すごいちがい」とか「ぼんやりした」とかは口語体だよ、「大きな差があった」とか「明確にならない」というように文語体に書き換えるんだよ、なんてことまで指導します。
文献を読んで引用するというところまでは学習目標に設定していませんが、学生によっては他の授業で学んだことや教科書を参照したり、インターネットで調べたことを考察に書いてきたりします。
当然のように「コピペ」が多発します。なので、引用の仕方を教えることになります。引用には直接引用と間接引用があるよ。どこまでが引用でどこまでが自分の考えなのかが読み手にわかるように示すんだよ。そのためには直接引用は「」でくくるし、間接引用にも引用元を明記するんだよ。そしてレポートの最後にどこから引用したのかがわかるように引用元の一覧をつけるんだよ。ネットの情報は信用できないことが多いから、ネットで見つけたことは図書館の本や雑誌で確認するんだよ。それができなかったときには、ネットのどこから引用したのかわかるようにURLを書くんだよ、などなど。すべて学生が書いたレポートを元に、実例(正しい例と間違った例)をたくさん示します。
引用する行動は、自発的に調べる行動ですから、この段階では(その後も)強化して増やしたい行動です。もちろん、すべてが引用になってしまったら意味はありませんが、心理学の場合、自分たちで実験や調査をしてそのことについて書くことになるので、そもそもすべてを引用で構成することは難しく、そこのところはあまり心配ありません(通常の授業でレポートを課す場合はまた少し話が違ってきますが)。
この授業の受講生は70名前後。一学期に4-5回のレポートが提出されます。そろそろ7年やっていますから、これまでに二千以上のレポートを読んできたことになります。そして、ここまで来ると、引用を明記しない「コピペ」はかなりの確率で発見できます。それ以外の箇所の文体との相違が手がかりになりますし、同じ実験について同じ時期にレポートを書きますから、複数の学生が同じ文章をコピペすることもあります。怪しいと思った文章はまさにコピペし、ぐぐってみます。すると、かなりの確率で引用元がヒットします。私にとってはこの信号検出作業が弁別訓練になっていて、検出率が上がっています。直観的制御が効いている感じです。
「コピペ」について教示をするのは、2回め以降のレポートからです。一回めのレポートで引用なしのコピペがあっても減点しません。そして教示後の初回のレポートからは引用なしのコピペは減点します。ただし、引用ありのコピペは加点します。学生にとって、レポートの採点による分化弱化、分化強化の随伴性は効果的で、間もなく反応が分化していきます。最終回のレポートは一年前期にしてはお見事!と胸をはれるレポートになっていきます。
ただし、般化・維持は難しく、3年生になってゼミに配置され、レポートを書かせてみると、1年の前期にやったことをすべて忘れてしまっている学生もいて、再学習となってしまうこともあります(今年度はカリキュラム改訂があり、2年次でも実験実習とレポート執筆指導をする機会が追加されたので、このあたりは改善されるのではないかと期待しています)。
レポートや論文執筆における「コピペ」問題は、意図的で非常に悪質な例を除けば、引用の正しい方法を教え、練習させ、フィードバックして繰り返し練習させることで減らすことができます。逆にいえば、問題があるということはそうした指導が欠如していることの顕われだと思います。
さらに、意図的な引用なし「コピペ」も、指導教員であればゼミ生の論文にそれを発見することは、常日頃から指導をしていていれば(実験計画を発表させ、議論し、データを発表させ、議論し、論文の書き方を教えながらフィードバックし...)、気づかないはずはありません。これも、問題があるということはそうした指導が欠如していることの顕われだと思います(たとえば論文を提出する前に一度も確認しなかったとか)。
データの捏造や改変については、引用なし「コピペ」の発見ほどたやすくはありません。個人的には、これまでどう考えても矛盾するようなデータを目にして、学生に再確認したことが何回かありますが、すべては単純な集計間違いでした(だと思います/信じています)。問題は、そのような明らかな矛盾が見つからない場合です。発見できず、見逃してしまった確率が0かと問われれば、0とは言えないと答えるしかありません。
私の場合、学生の度重なるやりとりを通して、学生の報告行動が実験事実そのままに制御されるように工夫しています。行動分析学の研究では他の心理学のように仮説を立て統計的に検証することが少なく、どちらかと言えば変数探索的な実験が多くなります。仮説検証型だと「こうなるはずだったのにならなかった」「有意差がでなかった」と報告することになりますが、指導する側がどう頑張っても消去や弱化の随伴性がついてまわるようです。なぜそう思うかと言うと、そういう研究をしている学生・院生の会話を聞いていると「何がわかったか」という話より「有意差がでた/でない」の話の方が多いからです(さらに「どうすれば有意差がでるか」という話とか)。
行動分析学の実験の場合、「こうなりました」とありのままに報告するところからはじまり、「そこから何がわかるかな?」とか「次どうしてみようか?」と話が展開するので、実験結果が「失敗」に映ることが比較的少ないというメリットがあります。それでも、学生さんは最初はそうは思わない傾向があって、「うまくいきませんでした」と報告してきたりします。そんなときにも、見せられたデータを面白がり、解釈の切り口を示したり、次の実験のアイディアを促すヒントをだしたりして、学生がうまくいかなかったと思い込んでいることでもそのまま報告することが強化されるように気を配っています。
データの捏造や改変の問題の背景には、マスコミが指摘しているような成果主義や競争原理の他に、研究者養成過程での教育的随伴性があるのだと思います。すなわち、研究者の行動が「わからなかったことがわかること」で強化されるのではなく、「わかりたかったことが示せること」で強化されるようになっている可能性です。研究室やゼミの随伴性は、おそらく指導教員や所属組織の随伴性(成果主義や競争原理)にも大きく影響されるのだとは思いますが、科学の本質を考えると、より深刻な問題ではないかとも思います。