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 心理三田会が開催している心理学カフェで,中野泰志先生が講演されたタイトルが気になっていたのだけど(参加できなかった),たまたまTwitterのタイムラインでみかけたので調べてみました。

 視覚に障がいがある人たちにも(そして障がいがない人たちにも),読みやすいフォントを開発しようと始まった研究プロジェクト。エビデンスを元に改善を重ね,最終的に,デジタルデバイス上でも,印刷しても読みやすいフォントが出来上がったとのことです。詳しくはこちらの資料で。

 しかも,なんと,Windows10にはアップデートで追加されていたのですね。無料で!

 残念ながらMacではそのような恩恵にあずかれそうにないので,開発元のモリサワが提供しているMORISAWA PASSPORT(Bizバージョン)をサブスクしました。

 いきなりすべては難しいですが,今年度から授業で使うスライドや配付資料,ワークシートなどの書体を,徐々にこのフォントに変えていきます。

 さて,運用上の課題が一つ。

 MORISAWA PASSPORTで使えるようになるフォントは,Macのフォント管理アプリ(Font Book.app)からはアクセスできません(モリサワのサポートで確認済み)。なので,よく使うフォントとして登録しておけず,たとえばWordでフォントを選ぼうとすると,ものすごい数のフォントからスクロールして探さなくてはなりません(「最近使ったフォント」には残りますが,これって時々消えちゃうんだよね)。
今のところ,このフォントをスタイルとして登録しておくことで対応しています。

 これまで授業や講演会などのスライドには「しねきゃぷしょん」など,一風変わったフォントを使っていました。授業アンケートなどに「フォントがきれい」という感想があったりしていい気になっていましたが(^^;;),読みやすさに関する配慮が完全に欠落していました。

 書体によって読みやすに大きな違いがあるということすら知らなかったので,ご勘弁。でも,こういう改善がまさにエビデンスにもとづいた前進ですよね。

 ご要望がございましたので、先週、徳島県の「実践研究報告会」で講演をしたときのスライド資料と配付資料を公開します。これだけだと何がなんだかわからないと思いますが、通常学級で学びを支援するために重要な4つのポイントについてそれぞれ体験的な演習を組み込んでいます。また、Mentimeterというwebサービスで参加者の皆さまとやりとりをしながら進める構成になっています。最近、PowerPointは使っておらず、このプレゼンもKeynoteです。大多数の方には読めないと思うので、一応、PDFも用意しました。

 通常学級の先生方に研修をされている方におきましては、参加者に学んで欲しい行動を引き出し、楽しみながら練習してもらえる演習をぜひ導入してみて下さい。

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 京都ABAIの招待シンポジウム "Improving Education in Every Classroom: Right Here, Right Now"で紹介された資料がwebページにまとめられました。
 Evidence-based Kernelsは、行動分析学の研究や実践で効果が実証されている基本的な要素です。
 他にも、Twyman先生が紹介していた数々のアプリへのリンクや、Heward先生が紹介していたActive Respondingに関する資料などが満載です。
 小中高大の授業で気軽に使えるものばかりですので、ぜひ参考にして下さい。
 京都ABAIでのこのシンポジウムの反響に気をよくされたHeward先生に、来年のChicagoABAIでもやろうよと誘われてしまいました。一度限りの美しさという日本人の価値観を説明したのですが逃れ切れず、もう一度やることになりました。シカゴだとウォシュレットや舞妓さんのジョークが使えないので、また何か考えないと...
 「反転授業」というのがちょっとしたブームになっている(たとえばこの記事)。大雑把にいうと、授業の前に予習をさせ、授業中は予習してきた内容について、講義ではなく様々な演習や実習をする指導法だ。講義をビデオに撮り、ネットで閲覧できるようにして予習させる方法がよく使われるらしい。
 講義よりも演習や実習を優先させ、そのために予習を促進する工夫をするというのは実は新しいアイディアではない。むしろ、インストラクショナルデザインの考え方からすれば常識的な考え方であり、こういう取り組みが広まることはいいことだと思う。
 一方向的な講義というのは学び手から学習内容に関する行動を引き出さない。引き出せたとしても(例:教師が発問するなど)、強化もできないか(タイミングの問題や学び手の正誤反応がわからないことや、学び手にあわせて正答率を高めるプロンプトをだせないことなど)、貧弱になりがちだ。
 話を聞いて何かを学ぶための下位行動レパートリー(重要な点だけノートをとる、考えながらノートをとる、アイディアをメモする、文字だけではなくも文字情報間の関係性を図で描くなど)の取得程度には個人差が大きい。ちょっと注意がそれて大切なことを聞き逃しても、たいていはそのままになってしまう。
 集団講義形式というのは、言ってみれば8インチフロッピーディスクのような古代テクノロジーであり、黒板と共にそろそろなくなってもいい方法だと私は思う。
 だからといって、ネットでビデオというのもずいぶん安直だとも思う。わかりやすい教科書とその授業で対象とする範囲指定、学ぶべき点(学習目標)の明示さえすればいいわけで、何もビデオである必要はない。一般的に、話し言葉で伝えられる量は、書き言葉で伝えられる量よりも少ないし、教科書であればわからないところは何回も繰り返し読み返せるし、それでもわからない場合には資料を補足することも容易である。予習を自習させる限り、できるだけ学び手がとりうる行動の選択肢を広げておいた方がいい。ビデオという時間軸が固定され、提示速度も一定のメディアは、学び手にとってとりうる行動の選択肢が狭い(講義と違うのは巻き戻しができるということだけである)。
 また、むしろ重要なのは、予習行動を確実に自発させるための条件である。反転授業の先駆者であるアーロン・サムズ氏は、上記の記事によれば、予習してこなかった学生には授業中に教室でビデオを見させるそうだ。でも、それではそもそも演習や実習を重視するという話と矛盾してしまう(ただし、サムズ氏によればそうこうしているうちに学生は予習してくるようになるそうだ)。
 自分の場合、予習に課した学習目標について授業開始時に小テストをしたり(小テストの成績は授業の成績にカウントされる)、webクイズを予習にしたり(履歴が残るのでそれを成績にカウントする)など、色々な工夫をしてきたが、受講生の80%くらいはそれで予習をしてくる(ただし、この数値は授業や年度によって±10%くらいで変動する)。
 いずれにしてもビデオをネットで閲覧可能にするだけでは不十分だし、逆にビデオを使わなくても予習は促進できるということである。
 上記の記事では「まず、オンライン学習コンテンツにアクセスするためのデバイスとインターネットアクセスをすべての学習者に確保する必要がある」「(日本では家庭でインターネットを使用した学習環境が未整備で)特に初等中等教育においては大きな課題になるだろう」というコメントが引用されているが、これは本質を見誤ったコメントである。せっかくブームになっているなら、そこ(ネットやビデオ)に注目して、もっと重要な点を見逃してはいけない。
 重要なのは、集団講義形式が捨て去るべき古代テクノロジーであり、教え手が学び手に直接関われる授業では、学び手が学ぶべき行動を引き出し、強化することに時間を割くべきであり、そのための予習行動を促進する様々な工夫を学び手は授業環境にあわせてしていくということなのだから。
 どんなに効果的な教授法も、普及の過程で本質を見誤ると、玉石混淆となり、結局は衰退していく。プログラム学習しかり、ケラー先生のPSIしかりである。
 「反転授業」がそういう顛末を辿らないことを願う。
Keller, F. S. (1968). 'Good-bye, teacher . . .'. Journal of Applied Behavior Analysis, 1(1), 79-89. doi:10.1901/jaba.1968.1-79

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 今年は竜巻や台風、大雨などの天災が続きました。被災された皆さま方に、心からお見舞い申し上げます。

 上の画面は台風26号接近中のカーナビ画面です。車の外は大雨でしたが、いきなり何本も点線が点滅し始め、壊れてしまったかと驚きました。

 大雨を知らせる仕組みなのだとすぐに気づきましたが、必要ないですよね。本物の雨が降っているわけですから。

 画面はちかちかするし、地図は見えにくくなるしで、散々でした。

 親切心からのシステム設計なのでしょうが、これは《情報技術の罠》の典型です。

 ユーザーのニーズや使い勝手という視点からではなく、これができる、あれもできる、だから組み込もうというSE視点だけでシステムをつくると、大抵はうまくいきません。

 インストラクショナルデザインには"リーン"(lean)という概念があります。目的の行動を引き出すのに、最低限必要なインストラクションにおさえられればおさえられるほど、すぐれているという主旨です。

 50年代にプログラム学習が流行していたときには「black out」テクニックという技が使われていました。これは、たとえばマニュアルや教科書のうち、不必要と思われる箇所を、まるで政府の機密文書のように黒塗りしていく方法です。黒塗りしても、目的の行動が引き出せるなら(機器が操作でき、学習が進むなら)、その部分は削ぎ落としてダイエットします。そうやって、教材をできるだけ引き締まった状態に仕上げていく方法です。

 我が国でも今後いよいよiPadなどのタブレット端末が初等中等教育に導入されていくことと思いますが、《情報技術の罠》に陥ったコンテンツには警戒して下さい。そして、開発者の皆さまには、罠に陥らないよう、必ずユーザーテストを積み重ねるようお願いします。

 なお、この記事を書くのにgoogle検索したら、文科省のサイトに「プログラム学習」の解説があるのをみつけました。

 へぇ〜。

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ミクシィ(mixi)から資金を調達し、今後の発展がますます楽しみなStudyplusのクラウドスタディ。その代表取締役の廣瀬高志氏と先月久しぶりにお会いして近況をお聞きしました。

そのときに教えてもらったのが、この業界では既に常識になっているという「A/Bテスト」です(廣瀬氏によれば「いけてる会社はみな使ってますね」とのこと)。

「A/Bテスト」とはwebサービスの特定ページ(例:ユーザー登録画面)に複数のインターフェイスを用意して、これを不特定多数のユーザーに無作為に割り当て、その後のそのユーザーの遷移を比較することで、どちらのインターフェイスがより効果的か(例:ユーザー登録を終えてくれるか/その後、戻ってきてくれるか)を、サービスを提供しながら、リアルタイムに収集されるデータをもとに判断する方法のことのようです。

後で調べたら、U-Siteの記事がとてもわかりやすかったです(「A/Bテストとユーザーテストの使い分け」)。拙著の「インストラクショナルデザイン」では、システムの評価を段階的に「開発評価」、「性能評価」、「実施評価」に分けていますが、「A/Bテスト」は「実施評価」の段階で、細かな調整をして、改善を継続していくのに使える方法と位置づけられると思います。

上記の記事で引用されているWIRED.jpの記事「A/Bテストがビジネスルールを変えていく(あるいは、ぼくらの人生すらも?)」から興味深い箇所を引用します。

"オバマのチームにとって何より衝撃的だったのは、テストを通じて、彼らの「勘」がいかに使えないものかがわかったことだった"

データを取り始めるとわかる"あるある"のひとつですね。

"可能な限り多くの組み合わせで無数のA/Bテストを同時に行う多変数テストと呼ばれる技術を使えば、何らかの微調整がなされたサイトを見ているユーザーの割合は100%に近い"

nが巨大なgoogleやamazonならではの贅沢。

"シロカーはA/Bテストの威力もさることながら、この技術を簡単に利用できるツールがないということに驚いていた。「あのころのツールは使うことを考えただけでうんざりしました」"

そうです。自分も2000年に鳴門教育大学で「コラボレーション・ネットワーク」(残骸?がまだ残っていました)というホームページ(死語?)を立ち上げた頃に、トップページのデザインや色でどのくらいアクセスが異なるかを、apacheのログから調べていました。zoopsを導入したときには、サイトのアピアランスをユーザーが選べる仕組みが使えたので、それを調べたりもしていましたが、まさに「うんざり」するような作業でした。

それが今ではこうしたテストを簡単に実施できるwebツールが開発され、提供されているのです。無償で使えるものも多いです。google analytics にもそういう機能があるし、廣瀬氏にはmixpanelというサービスを紹介していただきました。10年前、ログデータをダウンロードして自作スクリプトやExcelで集計していたことが、手間なくリアルタイムデータを瞬時に解析でき、グラフを見ながら意思決定できるのだから、時代の隔絶感がものすごいです。

"なぜこんなことが起こるのか? 何度も何度も話し合ったが、その理由は誰にもわからなかった。そのうちに、そんなことははっきり言って大した問題ではないことがわかってきた"

半分正答、半分誤答かも。役に立たない解釈(理論)は確かに不要です。そしてそういう解釈だらけというのも事実でしょう。たとえば、行動コストや強化遅延、弁別刺激の見やすさを規定する要因など、行動分析学のいくつかの概念はおそらく有用だと思います。このあたりのロジックはスキナーの学習「理論」に関する考え方と同じです。

Skinner, B. F. (1950). Are theories of learning necessary?. Psychological Review, 57(4), 193-216.

A/Bテストは行動分析学の条件交替法の拡張版と言えないこともないですね。シングルケースデザインの大原則である、同一参加者に対してすべての独立変数を適用し比較するという条件が満たされないとはいえ、ベースラインを測定し、特定の従属変数に影響しそうな独立変数を導入し比較して、効果のある方をすべての参加者に導入して確かめるわけだから。

たとえば交通安全に関する研究で、特定の道路を通過する不特定多数の運転者の行動(制限速度内で走行する/シートベルトを着用するなど)を従属変数に、ルール遵守の割合をフィードバックする実験などでも、各変数が同一参加者内で全て適用されている保証はないわけですが、それでも変数の効果は確認できるわけですから、"参加者"を標的行動が生じる母集団と考えればそれが同一人物でなくても、シングルケースデザインのロジックは適用できるような気がします。ですが、これはもっとよく考えてみないとならないですね。

いずれにしても、データをもとに改善するという基本的なところが肝心要です。

その他、役に立ちそうな関連記事:

日曜、テニス仲間に頼んで、はるとの散歩の様子を録画してもらいました。山本先生に近況をご報告し、フィードバックをいただくためです。この話はまたいずれ。

もう一人の友達には、散歩に行っている間に、洗濯するので座椅子のカバーをとっておくよう頼みました。

うちの座椅子は楽天で購入した「ポーラ」です。3カ所が14段階でリクライニングするという優れものです。

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はるに齧られても放っておけるように(止めに入って齧りを強化しなくてすむように)、カバーを二重にしています。

なので「カバー2枚かぶせてあるから、よろしくね」と指示しました。

これが私の思い込みで、間違った指示だったことが後に発覚します。

散歩から帰ってくると、出かける前は上の写真のように美しかった座椅子が、2台とも(!)、下の写真のように無惨な姿になっていました。

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これじゃまるで「Air」でエヴァシリーズに逆襲されて倒れた弐号機です。

友達を問いつめると、

  • 「だって2枚って言ったじゃん」
  • 「確かに2枚めはものすごく外しにくかった」

と言います(反論します)。

そう。追加でかぶせていた取り外し可能なカバーは一枚だけで、もう一枚は座椅子本体のカバーだったのです。

なんとか元に戻せないかと奮闘しましたが、カバーと本体が嘘のように複雑な構造になっていて、触れば触るほど、ウレタンが崩れ、フレームが剥き出しになり、いよいよ弐号機状態。目玉が現われても怖いので、そこであきらめ、月曜に家具通販のロウヤ(販売元)に問い合わせることにしました。

電話対応の女性はとても丁寧で、製品開発の部署にも問合せてくれましたが、

  • 構造が複雑なので(お客様の手で)元に戻すのは難しい。
  • 修理は行っていない。
  • (捨ててしまうのももったいないので再利用のために送り返しましょうか?と聞くと)お気持ちはありがたいが、修理後の再販は一切行っていない。

とのことでした。

この座椅子、累計11万台以上が売れているそうですが、このような問合せは初めてだそうです(このとき女性が笑いをこらえていたように感じたのはやはり私の被害妄想でしょうか)。

さて、こうなると、いくら「カバー2枚かぶせてあるから、よろしくね」と言ったからといって、二枚めのカバーが取りにくかった時点でやめておけばよかったのに。あるいは一台めが無惨な姿になったのを見た時点で二台めから取るのは一枚だけにして、そこでやめておけばよかったのに。それが《常識》じゃないか?と思いたくなります。だって1/110,000の確率ですよ。《常識》をゆうに外れて統計的にまったく有意な確率です。

しかし冷静に振り返れば、そしてインストラクショナルデザインの考え方の本道を貫くのなら、やはり「学び手はいつも正しい」です。

そもそも取り外し可能なカバーの枚数を私が確認してからお願いすべきでした。ロウヤさんに、裏面のタグか何かに「このカバーは取り外してはいけません」という注意書きを期待するのは、1/110,000という発生確率からも、そしておそらく小さいタグは見逃され、大きいタグはデザイン上不利であるという事情から無理でしょう。

思い込みや《常識》に頼ったことで2万円以上の損失がでましたが、いい勉強になりました。

結論:「学び手はいつも正しい」&「座椅子本体のカバーは決してはずさない」。

さて、春休みの間、けっこう頻繁に更新してきたこのブログですが、いよいよ昨日から新学期が始まったこともあり、この後はスローダウンする予定です。

新学期とはいっても、実は、私、今年はサバティカルで大学はお休みです。授業も会議もない天国のような一年間が待っています(天国には行ったことがないけれども)。とはいえ、通常ならおそらく三年はかかるような仕事量をこの一年でこなすつもりなので(主に執筆です)、それと両立しない行動の頻度は極端に減ることが予想されます。

まぁ、ぼちぼちと。

4901480479385 教えたいことを教えるためには教えたいことが教えられたかどうかを確認するために測定(テスト)しないとね。
 教えたいことほぼすべてを測定しないとね。そうしないと「山かけ」という望ましくない行動を自発させ、ときに強化してしまうから。
 そうすると、学期末テストでは不十分だね。期末テストだとテスト時間も限られているし(問題数が制限されるし)、テスト直前の「一夜漬け」という、これまた望ましくない行動を自発させ、ときに強化してしまうから。一夜漬けできる時間には限りがあるから、教えたいことをすべて学んでもらうには妥当ではないね。
 だから、テストは何回かに(or 何回にも)分け、出る問題も予告して(勉強すれば強化されるように)、解答したら、できるだけ直後に、正誤のフィードバックや解説をした方がいいね。

 というわけで、担当する講義科目の中で知識の獲得を主目的にした授業では、小テストをできるだけたくさん実施しています。そうなると、当然ながら、採点という手間がかかります。教員側の行動を弱化する要因です。

 なのでマークシートを使って自動採点していますが、多岐選択で良問を作るのはなかなか難しいし(不可能ではないけれど)、チャンスレベルを低く抑えるのも難しいので(不可能ではないけれど)、全体の1/4〜1/2の配点を自由記述問題にあてています。

 これまで自由記述問題については、採点してから、個々人の得点を成績管理しているExcelファイルに手入力していましたが、一つ進展がありました。

 自由記述問題の得点を学生のマークシートにマークしてしまい、多岐選択問題と一緒に自動で読み込ませるという方法です。

 今までも考えてはいたのだけれど、何十人ぶんもの得点をマークするくらいなら、数値を手入力した方が早かったと、唯一希望がもてた、「マークシート5倍速塗り鉛筆」はめちゃくちゃ高価なのと、なかなか手に入らないので(いつwebサイトにアクセスしても売り切れてる)諦めてました。

 それが、このたび、「マークシートは本当にボールペンを読まないのか?」という卓越したレポートを見つけて、ホワイトボードマーカーを試してみたら、問題なく読み込めるじゃないですか! 一筆でマーク完了。

 これぞローテク、ローコストのFD(Faculty Development)です。

福島大学附属中学校の取組みが本になりました。まさにタイトル通りの内容です。私も一章書いてます。通常学級の授業改善にインストラクショナルデザインの考え方を導入したいと考えている先生方、先生方を支援して授業を変えることで子どもたちの学びを応援したいと考えている校長先生や教頭先生にはぜひとも読んでいただきたい一冊です。

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以前にもご紹介した"夢をかなえる学習支援システム:スタログ"が、SNSとして完全リニューアルされました。

これまでスタログを活用して下さったユーザーの皆さまからの声を最大限に活かして、数々のバージョンアップがなされています(「学び手は常に正しい」ですね)。そして、"みんなで勉強する"というソーシャルな随伴性が組み込まれました。もちろん、FacebookやTwitterなどとも連携できます。

ソーシャルな随伴性というのは、同じ目標に向かって勉強している人たちの進み具合をみて奮起したり、「いいね!」をもらって励まされたりすることもあれば(確立操作や好子出現による強化モドキ)、どんな教科書や問題集があるのか、どんな勉強方法がいいのか、心が折れそうになったときどうすればいいのか等々、色々なハウツーが共有されていくということでもあります(オペランダムやルールやモデリングなどなど)。

クラウドスタディの廣瀬社長はこうした情報システムを使えば教育格差の解消につながるという信念をもって起業されました。私もその信念に100%同意し、だから応援しています。

今年度から、うちの博士ゼミは社会人の大学院生が3人になりました。それぞれ忙しく仕事をしながら研究を進め、博士論文を書いています。職場も日本各地(?)に散らばっているので、顔をあわせて話し合う時間をとるのはかなり難しく、ぜひこのStudynoteを使ってみようと考えています。

そのうち研修もこれでやってみようかな(パフォーマンスマネジメントの研修 IN Studynoteとか)。

というわけで、以下、自分なりのキャッチコピーを考えてみました。

勉強ってそもそも楽しいことなの? そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。だけど、勉強を続けられるかどうかは、楽しいかどうかとは関係ないかもね。

夢という目標と、一緒に進む仲間がいれば、きっと続けられる。必要なのは随伴性に飛び込むことだけ。


字余り? (^^)

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 後期のレポート採点がすべて終了〜 これで気持ち良く年を越せます。

 Wordではファイルごとに最後に表示したときの画面倍率が保存されているようで、ファイルを開くと、レポートごとに異なる倍率で表示される。

 さすがに学部生は若い。多くの学生が100%以下。中には70%とかで作業している奴もいる。こんなんでよく読めるなぁ。

 老眼の俺にはとても厳しくて読めないので、150%から200%に拡大して読むことになる。 

 ファイルを開くたびにほぼ毎回この操作をしなくてはならない。倍率を強制的に固定する機能があればいいのと探したが、ないねぇ〜。

 学期ごとに平均120通のレポートを読むとして、日本全国約3万人いる大学教員の半分が老眼だとして(ありえる)、前後期に同じような作業をしていれば、毎年、日本だけで360万回この操作が行われていることになる。

 無駄ですねぇ。

 MSさん、なんとかしてくれ。

 追記:品川クリニックから「40歳からのレーシック」の案内が届いた。すでにレーシックをした人も追加で老眼対策の手術ができるらしい。"レーシックカメラ"という小さく薄いレンズを埋め込むということ。心がちょっと動きます。

 

 

 

[WorkItOut!!からの引越し案内]

 ソニーがソニーらしさを取り戻すために「ユーザー・エクスペリエンス(UX)」をキーワードに商品や組織を見直しているそうだ。

 個人的にはVAIOにWindowsをつんだ時点がつまづきだったのではないかと思う。最初からXMB(クロスメディアバー)のようなシンプルなUIですべてまかなうくらいの本気度でOS開発からやっていれば、ずいぶん違った展開になったのではないだろうか。

 この資料は、現在、売上高でソニーの1.5倍、営業利益ではナント27倍の(日経ビジネス, 2011.9.26号, p. 28)アップルがUI開発にインストラクショナルデザインの考え方を使っていたというお話。


アップルのパソコン-Macintosh(マック)の前身であるLisaというコンピュータとソフトウエアの開発には一人の行動分析家-Greg Stikeleather-が関わっていました。
この資料は彼が現在経営に携わるHeadSproutという会社のスタッフに向けて送った、当時を回想したメールを翻訳したものです。

続きはこちらから。

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 行動分析学の授業では毎度おなじみの課題分析の演習(ペットボトルからコップに水を注いで飲む課題)。徳島のサマスクでも使ってます。

 頭で考えて書きだすだけでは不十分なステップを,ユーザーテストをしながら行動観察によって発見し,追加し,さらにテストを繰り返して改善していくことを練習する演習。

 この演習(に限らず,ホワイトボードを使って演習をしていると),必ず,ちょっとしたイラストを描くチームが現われて,これがけっこう自分にとっては楽しみになっている。しかも,みんなけっこう上手なんだよね。俺には無理(イラスト描くスキルまったくの未習得なり)。

 学習目標とは関係のない,いってみれば逸脱行動なんだけど,授業を楽しむ行動としてこれは歓迎です。

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 2月に授業コンサルテーションに行ってきた福島大学附属中学校が2年間にわたる研究教育活動の報告書をまとめ、webで配信を始めました

 白石豊校長先生のもと、すべての先生方がインストラクショナルデザインの考え方を学び、授業を設計、実践、改善されているという、おそらく全国的に(ひょっとしたら全世界的にも)希有で画期的な取組みです。なにしろ、School-Wide Instructional Designですから。

 教科の枠を超え、先生方が自由に熱烈に意見交換し、(私のような)外部からの厳しい意見にもへこたれずに、PDCAのサイクルを回しながら、「わかって、できて、面白い」授業づくりに取り組む姿には感動を覚えます。

 また、附属校にありがちな超多忙(超残業)を、パフォーマンス・マネジメント的な方法で解消したという成果も見逃せません。このあたりは白石先生の力量におうところが大きいとは思いますが、同じような取組みが全国に広がればなぁと思います。授業改善に継続的に取り組むためには、先生方がそれを楽しめる余裕が必要で、その余裕を生みだすのは管理職の役割だからです。

 福大附属では授業を公開しています。よくある研究授業のように"発表会用に作られた"授業ではなく、日々のそのまんまの授業をです。報告書にもあるように、まだすべての授業が他校のお手本になるような授業とは言えませんが、授業を常時公開し、同僚や保護者、専門家や他校の先生の視線にさらすことで、授業改善を継続させるポジティブな雰囲気がつくりだされています。「授業を見て、どんどん意見や感想を下さい。それを参考に授業を改善します」という宣言です。これは「学び」への素晴らしいコミットメント(覚悟)だと思います。

 ぜひ他校の先生方に参観して欲しいと思う授業もあります。特に英語の授業からは「中学生の英語の授業で皆の前で英会話させると、生徒が萎縮し、恥ずかしくなり、英語が嫌いになるからよくない」という私の思い込みがまったく間違っていたことを教えてもらいました。衝撃でした。「思春期」は言い訳に過ぎなかったようです。デザイン次第では、生徒さんたちが英語で話をするのをこんなにも楽しめるかと、あたらな発見をさせていただきました。

 インストラクショナルデザインの考え方を使った授業改善に興味がある方は、ぜひ報告書をご一読下さい。先生方と私とのやりとりも記録されていて、こういうのはほんとうは恥ずかしくて、あまり広めたくないのですが、それ以外の部分(先生方がどのように学び、授業を改善しているか、校長先生ら管理職の先生方がどのようにしてそのお膳立てをしているか)は一読、二読の価値ありです。

 そして、報告書を読んでみて、こんな実践がほんとうにできるのか?と疑念に思った方は、ぜひ福島へ足をお運び下さい。

 「教師が変われば生徒が変わる、生徒が変われば学校が変わる」を実感するには、子どもたちを見るのが一番ですから。

 頑張れ、福島。

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 実験したのはもう8年くらい前の研究になりますが、投稿して、あちこちでリジェクトされて(^^;)、昨年暮れにようやく受理された論文です。

 内容は、小学生のかけ算において、一桁のかけ算(下位行動)と二桁のかけ算(下位行動を含む上位行動)の正確さ(正答率)と流暢性(正反応速度)の相関関係を検討し、さらに国際比較したもの。論文では「elements → compound」と表現していますが、Precision Teachingの人たちが使う「composite → component」と同じです。

 正答率のデータだけをみると、日本、台湾、米国の子どもたちのパフォーマンスに有意差がみられないのですが、正反応速度は日本、台湾の子どもたちが米国の子どもたちを凌駕します。さらに、下位行動の正反応速度が高いほど、上位行動の正反応速度も高い(あたり前のようですが)。

 "創造性"とか"思考力"の育成と声高に叫ぶ前に、そうした上位行動の下位行動となるスキルをみつけ、その下位行動の流暢性をあげる、そういう地道だけど着実なインストラクショナルデザインの基本を確認した研究です。

 一時は「もう紀要でいいからだしちゃおうと」などと言っていた自分が少し恥ずかしいっす。忍耐強くチャレンジし続けたRick Kubina先生(Pennsylvania State University)を尊敬&感謝。共同研究者のFan-Yu Lin先生もお疲れさまでした。

 ダウンロード可能なジャーナルなので、興味のある方はここからどうぞ

Fan-Yu Lin, Richard M. Kubina Jr. & Satoru Shimamune  (2010).  Examining Application Relationships: Differences in Mathematical Elements and Compound Performance between American, Japanese, and Taiwanese Students.  International Journal of Applied Educational Studies, 9, 19-32.

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Firefox を 4.0 に更新した。高速だし、画面レイアウトがシンプルだし、HTML5 導入の恩恵を実感するのはまだまだこれからだとしても、全般的には秀逸。

ところが.... リンクを右クリックで開くとき、タブで開くか新しいウィンドウで開くか、その選択肢の上下位置が逆転してしまっている。最初はそれがわからずに、いつものように操作すると新しいウィンドウが開いてしまうことにめちゃくちゃ違和感を感じていた。バグかとまで思った。が、よく見るとメニュー内の位置が逆転していた。

一日に何回もやるこういう動作は刺激反応連鎖が随伴性形成されている。つまり、手順を意識することなく、サブメニューを見ることもなく、マウスと指の感覚の刺激性制御下に入っている行動だ。

海外旅行に行って左ハンドルの車を運転したとき、頭ではわかっていてもワイパーとウィンカーの位置関係を何回も間違えてしまうのと同じで、至極不便である。

インターフェイスのインストラクショナルデザインからすると、こういう変更は《禁じ手》である。ちなみにMicrosoftはこういう禁じ手をバージョンアップのたびに常に犯すので困ったものなのだが(世界中で生産性を落とすという悪行をしていると私は思う)、mozilla先生までこんなことしちゃだめっす。

しばらくは消去と弱化の随伴性に耐えながら、新しい刺激性制御が成立するのを待ちますが、こういう随伴性の変化が他ブラウザーへの乗換行動を促進する可能性があることをお忘れなく。

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 安全管理に関するインストラクショナルデザインの鉄則:「インストラクションによる行動管理には限界があるので、リスクが大きな場合には誤反応が出現しても取り返しがきくような安全網を用意する」。

 スーパーモーニング(2010/10/20)で紹介されていた「SDAS-II」は、自動車のブレーキとアクセルの踏み間違えに対応するセーフティネットシステムの好例だ。

 運転者が何らかの理由でパニックになったとき、ブレーキの"つもり"で、アクセルを踏んでしまうときは、踏み込みが早く、ベタ踏みする傾向があることを利用し、そのような反応形を検出したら即座にエンジンを停止する仕組みだそうな。

 詳しくは販売元(㈱アールエフビイ)のwebサイトの解説を参照して下さい。

 スパモニでは九州産業大学の松永勝也先生による「脳が慣れている方を選んでしまう」というコメントを紹介していたけど、もちろん、それでは「なぜ、脳が慣れている方を選ぶのか」という説明にはならないし、脳に"主体性"を求めるのは精神論への先祖帰りのようなもの。

 なので、行動分析学から考えてみた。

 アクセルを踏み込む(離す行動が自発されずに)理由は、ブレーキは強く踏み込むほど止まるという随伴性で強化されてきたからであり、また、"パニック"の種類によっては脚を曲げる筋肉がうまく動作しなくなるということもあるだろう(レスポンデントによる過緊張)。止まらなければ止まらないほど、強く踏み込むようになるのはこれで説明できそうだ。

 なぜ、ブレーキではなくアクセルを踏んでしまうのか。これは正直よくわからないが推測してみるに、行動形態が類似していること(どちらも足で踏む行動であり、位置や方向も類似している)が主原因だと思う。最近はオートマ車ばかりだけど、シフト車でブレーキとクラッチを踏み間違えたりするのかどうかを調べればこの仮説の妥当性がある程度検証できそうだ。ただし、クラッチを踏み続けても事故は起こらないから記録に残らない。

 記録に残らないという意味では、実は、ブレーキとアクセルの踏み間違いは、それほど珍しいことではないのでは?という気もする。友達の車やレンタカーを運転するとき、最初は誰でもブレーキとアクセルの位置を確認すると思うが、そのとき、一発めから正しいペダルに足を乗せられるとは限らない。自分の車でも、発進時などにときどき間違えて足を置いたりしていないだろうか。事故になっていないだけで(つまり記録に残らないだけで)、パニック時かどうかに関わらず、踏み間違いそのものはそれほど珍しいものではないのではないだろうか(上述の主原因のためである)。

 話を元に戻す。

 踏み間違いの原因を分析し、踏み間違いを減らすインストラクション(例:ブレーキペダルの位置や大きさ、踏んだときの感触、もしかしたらそもそも足を使わないとか)を開発することは可能かもしれない。それでも踏み間違いが起こる確率をゼロにできない限り、安全網の導入が望ましい。

 事故が起きてからかかるお金を確保するために保険の仕組みを使うというのも一手だが、このSDAS-IIのような装置に投資するというのもまた一手である。お金だけではなく、貴重な人命を救えることからすると、コストにかなりの差があっても、本来は後者が採用されるべきだろう。

 今回の免許証更新は、後でTwitterでつぶやこうとメモしていたので、とても有効に過ごせました。 「ワイドミラー」をつけるのが楽しみです。

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日経新聞Web刊、有料会員は過去記事を検索できるのだが、月25件までが無料で、超過分は1件175円もかかる。

実はこれまでは自分が何件検索したのかが表示されず、怖くて検索できなかった。

それが今日お知らせが届いた。

有料会員のみなさまがその月に検索記事本文をどれだけお読みいただいているか、すぐ分かるようにしました。

操作は簡単。

ログイン後、電子版画面の右上にある「有料会員」ボタンをクリックしてください。小さな画面がポップアップ!これまでご利用いただいた件数がひとめで分かります。

う〜ん。クリックしないとみれないの? 検索窓の左側にデフォルトで表示してくれればいいのに。

ま、スモールステップな改善を評価すべきか。

おそらくサーバーへの負担が障壁なのだろうが(該当月の累積検索数をそのたびに計算するロジックなのでは)、プログラミングの工夫で乗り越えられのではないだろうか?

さらなる改善を望みます。

(1) Twitterやブログとのさらなる連携(web版からツイートできるリンクをはって欲しい)

(2) iPhone版であとでじっくり読みたい記事をマークする機能

などなど。

Alohainstruction

 今は亡きアロハ航空の機内インストラクション。緊急脱出ハッチの前にある席に座ると渡されるやつ。

 ものすごい日本語だし、イラストも奥が深くて笑えます(一部紹介)。

Nonono_2

 命に関わるインストラクションなので無償ボランティアで校正しますよって搭乗員さんに申し出たのですが返事なかったっす。

 「なぜ説明する必要はない」

 倒産してもう2年くらい経ったと思うので、公開。

 (笑)

 ユーザーテストして下さいね。

とある先生から、

"Organism is always right" という有名なスキナーのフレーズの出典をご存じでしょうか?

という質問を受けました。

『インストラクショナルデザイン』に「学び手は常に正しい」というルールが記載されていたので、お尋ねさせていただきました。

とのことでした。

『The Technology of Teaching (Skinner, 1968)』からの引用に違いないと思います。

と即答し、念のため出典のページ数を確認しようとこの本をざっと読みましたが、みつかりません。

あれ?

ネット検索しても見つからない。

"Organism is always right" は、意外にも、ユートピア小説『Walden Two』の主人公Fraizerの台詞に見つかりました(Thanks to J.S.T.)。

Skinner (1948, p. 240)To put it as bluntly as possible--the idea of having my own way. "Control" expresses it, I think. The control of human behaviour, Burris. In my early experimental days it was a frenzied, selfish desire to dominate. I remember the rage I used to feel when predictions went awry. I could have shouted at the subjects of my experiments, "Behave, damn you! Behave as you ought!" Eventually I realized that the subjects were always right. They always behaved as they should have behaved. It was I who was wrong. I had made a bad prediction.

一方、"The student is always right" は、Kellerの著名な論文 "Good-bye, teacher.... "に見つかりました。この論文は個別化教授システム(Personalized Systems of Instruction)について解説したものですが、下にあるように、「随伴性さえ整えれば学び手は学ぶのだ」と結んでいます(すんません。タイプする時間がないので画像添付します)。

Keller (1968, p. 88)

Keller1968

Skinner と Keller はハーバード大学・大学院での同級生で親友だったそうですから、「"ラットはいつも正しい"と自分たちは言ってました」の自分たちには当然スキナーも含まれているものと思われます。

それに(ちょっと言い訳がましいけど)『The Technology of Teaching (Skinner, 1968)』には、どのように随伴性を整備すれば、どのようなことが教えられるのか(もしくは教えられないのは、どのような随伴性が整備されていないからなのか)がとても広く、深く考察されています。

ですから、スキナー先生もケラー先生も、どちらも「学び手はいつも正しい」と考えていたはずですが、直接引用するなら、上述のKeller(1968)が妥当そうですね。

ちなみに、The Technology of Teachingはティーチングマシンについて書かれた本として知られていますが、実際には、思考力とか創造性とか学び方学習(learn-to-learn)とか、とても高次な"認知活動"を教える方法についても論じられていますし、学校における随伴性を逃避・回避(怒られたり、叱られたり、悪い点をとらないようにするためだけに勉強する)から、正の強化(気づきや発見や楽しさなどの好子出現によって勉強行動が強化される)へ改革すべきだと主張されています。

とても今日的なテーマですよね。

日本語で復刻版がでたらいいのに。

Keller, F. S. (1968). Good-bye, teacher....  Journal of Applied Behavior Analysis,  1, 79-89.

 ↑   ↑   ↑

PubMedで読めます

ちょっと恥ずかしいけどカミングアウト。

さっそく申請した定額給付金だが、書類不備で戻ってきてしまった。

通帳と本人確認書類のコピーを添付してなかったとさ。

え〜っ そんなの必要だったのかぁ!! と、中野区の担当部署にコールイン。

そしたら、説明書の裏面に指示が書いてあったんだって(もう捨てちゃったから確認のしようがないのだが)。同じような人が他にもいたらしく、「わかりにくい書類で申し訳ありません」とひたすら平謝りの担当者。ものすごい勢いでクレームする人も多いんだろうな。

そんなこんなしてたら、どうやらこれは全国的な問題らしく、マスコミも取り上げ始めた。中野区も頻発地域の一つらしい。日経新聞の記事(2009/04/26)によれば、高松市では「初日に受け取った申請書120通のうち、七割の80通で不備が見つかった。多くが通帳コピーの入れ忘れだ」ったそうだ。

こんな数字を公表した高松市はある意味でアッパレだけど、正反応率33%はあまりに低い。そのぶん行政のコストもかさむし、支給も遅れる。喜ぶのは切手が売れる日本郵便くらいか。

これまでこのブログでは何回も提案しているけど、やっぱり行政にはぜひ「ユーザーテスト」の実施を義務づけて欲しい。そして正反応率がせめて90%以上になることを確認した上で、一斉実施すべきだと思う。

そんなに難しいことではないので、お願いしますよ。

Constructionperformance2007

横軸が月次。縦軸が新規住宅着工件数。思わず条件変更線を書き込んじゃいました。

6月に施行された改正建築基準法の影響で、なんと3カ月連続で前年度比40%以上の減少。このままではGNPを確実に押し下げて、景気に悪影響を与えるのは間違いないと言われている。

この法改正は昨年世の中を騒がせたアネハ系耐震偽装事件に対処するために行われたもので、行政が国民生活の安全を脅かす事態に迅速に対処したという点では合格かと思っていたんだが、どうやらかなりめちゃくちゃらしい。

問題点は至るところにあるようだ。気になったのは、法律の中に「些細な設計変更については再審査が必要ない」というような条文があり、しかもその"些細な"の範囲が明確に示されていないってところ。さらに、そういう問題点が現場から次々と指摘されていたにもかかわらず、対応がなされなかったってところ。

法律家じゃないから法としての妥当性は判断できないけど、"些細な"なんてのは、人に何かを伝えるインストラクションとしては悪例だ。

しかも、施行前に現場の人たち(実際にこの法に携わって仕事をする人たち)から意見徴収をしていないのか、あるいは形だけの意見徴収をしてその声は無視したのか、要するにユーザーテストとそれにもとづいた改善をしていないデバッグ前の状態で世の中に出してしまったようで、これもインストラクションとしては悪例。

中央官庁の仕事は国民全体、国全体に影響するんだから、何かを施行する前には、必ずユーザーテストを繰り返し実施して、問題点を潰してからじゃないと世の中にだせないという法律を作って欲しい(もちろん、そういう仕事を怠慢して今回のような問題を引き起こしたら、担当者を処罰できるように。そしてポジティブには、そういう仕事をきちっとやって改善のプロセスを残した担当者は局内で評価されるように)。

うちの大学では、いわゆるLMSというやつが、今年度から本格的に導入されてます。

h'etudesと命名されてます。“エチュード”って読むんですよ、と学生から教えられました(^^;;)。

言い訳のような蛇足情報ですが、テクスチャルが自発されにくい商品のマーケティングはまずうまくいかないと思います。

このシステム、おそらく某.○○○○○○の改造版ですが、どうやらそれは内緒(?)らしく、法政オリジナルということになっているというマコトシヤカナ噂もあります。

私はこれまでmoodleというオープンソースのLMSを使ってきました。数億円するシステムとは違って無料です。それなりに制限もありますが、自分の使いやすいように改造できるというメリットもあります。

大学のシステムだと、学外の共同研究者にとっては使いにくいですが(年間○万円の利用料をとられる)、moodleは自宅サーバーで運用しているので、低コストで運営できています。

ただ、学生さんにとっては複数のLMSを授業によって使い分けるのもたいへんだろうと判断し、今年度からは授業についてはh'etudesへと移行中。でも、研究プロジェクトや一般向けの研修プログラム(サマースクールなど)については今後もmoodleを使っていきます。

ところで、私はプログラムもシステムもよくわかりませんから、メンテナンスや改造にさいしては、moodleの翻訳をされているMitstek.comの吉田さんにお願いしています。

今回、コースの参加者がそれぞれファイルをアップロードし、それを一覧として表示し、他の参加者がアップしたファイルを閲覧できるように、「課題」のモジュールを改造していただきました。これまでだと、掲示板に各自が資料を添付していたのですが、それだとどれが最新版で、どのスレッドにあるのかよくわからなくなり、効率が悪かったのです。

吉田さんのご好意により、改造方法やプログラムは公開し、無料配布することになりました。

興味がある方はこちらを参照して下さい。

Hotmailjunk

徳島では今日からサマースクール初級コースがスタート。徳島ABA研究会の先生たちが中心になって準備を進めてきました。2日間の集中研修で応用行動分析学の基礎を実践的に学びます。

このコースではネットを使って事前学習することが参加条件の一つなんですが、今年は「アカウントが作成できない」「ログインできない」という苦情を何件かいただきました。

調べてみると、どうやらhotmailを使ってアカウント申請した人に登録確認のメールが届かないことがあることがわかりました。

試しに自分でもhotmailのアカウントで申請したら、登録確認メールが自動的に「迷惑メール」に振り分けられました。ネットやPCやメールに詳しくない人は、ここでつまづいてしまいますね。

さらに、場合によっては迷惑メールにさえ届かず、サーバーの時点でブロックされてしまう可能性もみえてきました。これはこの研修で使っているmoodleというフリーのLMSや、私がボランティアで運営しているサーバーの問題ではなく、他のサーバーやプロバイダーでも問題になっているようです。

そこでmoodleのインストールや管理でお世話になっているmitstek.comの吉田さんにお願いして、迷惑メールと判断される確率を下げるプログラム修正をしていただきました。それでも完全ではないということなので、参加者の方にはご不便をおかけしますが、hotmailの利用は避けていただくように、ログイン画面とアカウント作成画面に教示を追加しました。

それにしても、こういうときにいただくメールというのは、メールを打っている様子が思い浮かぶほど感情的なものが多いです。受け取る方も辛いので、できるだけストレスがかからず、フラストレーションがたまらない方向でインストラクションを改善していきたいと思います。

Imaginationatwork

先日の徳島ABA研で、GEが提供している無料のホワイトボード共有サービス Imagination Cubed を試してみました。

これはネット上にホワイトボードを展開し、複数地点から同時に書込み、閲覧ができるサービスです。

面白いけど、マウスではうまく描けないのと(スキルの上達やペン型タブレットを使えばなんとかなるかも)、PDFやPowerPointなどの資料の上に上書きできるわけではないところが欠点。

特に後者はそれができれば遠隔ゼミもずいぶん拡充すると思われます。

どこかにないかな、そんなサービス?

今年こそタッチタイピングをマスターしようと夏休みを使って特訓中。一日の中でパソコンに向かって文字を打っている時間の割合がかなり高い商売をしているものにとっては、入力スピードと効率(入力エラーの少なさ)は、生産性と楽しさに多大な影響を与えるはずだからだ。

“一週間で”という甘いささやきにひかれて下のソフトを購入したのが、改善できそうなところがたくさんありすぎてイライラがつのる。指も思うように動かないし。

たとえば、ひらがな入力する練習:「あいうえお」と母音を一文字ずつ入力し、そのまま「かきくけこ」と子音に進んでしまう。ここはおそらく母音だけをランダムな順序でも打てるように練習した方がいい。

単語を入力する練習では「クッキー」の“kk”を“ki”と間違えても、最初からやり直しにならず、“k”の入力待ちになる。しかもこの時点では通常の日本語入力プログラムのように、間違えたらカーソルを戻して修正するというプロセスがないから、下手すると“kikk”なんていう誤連鎖が強化されてしまう。よく打つ単語は単語単位で手の動きを覚えると思うので、ここは間違えたら最初からやり直しの方がよい。

また、この時点では画面上にキーボードが表示され、どのキーを打てばいいか、キーが光ってわかるようになっているのだが、このプロンプトが強すぎて、だんだんそもそもの刺激(「さ」とか「つくえ」とか)を見ないように、聞かないようになっていく。このスクリーン上のキーボードはフェイドアウトせず、一日の単元の最後の“実力テスト”でいきなりカットされたりする。フェイドアウトの仕組みが欠かせないだろう。

それから撥音とか拗音には「すぁ」とか「ゔぉ」とか、発音さえ難しいような綴りがでてくる(音声でも指示がでるのだが、まるでどこぞの外国語ふうで笑える)。こんな音は使用頻度が低いのだから、最初は扱わない方がいい。「しゃ、しゅ、しょ」とか「ぴゃ、ぴゅ、ぴょ」とかを優先して覚えさせるべき。

などなど、不満たらたらだが、フラストレーションが一番溜まるのが、こうやって文字を打っているとき。タッチタイピングをしようとすると、スピードが極端に低下し、エラーも増える。かといって、日常生活で使わない限り、おそらく習得しにくいか、般化しないはず。なにしろ間違った方法で打てば打つほど、間違った入力方法が強化されてしまうのだから。


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Moodle

moodle-logo

鳴門教育大学では現職教員を対象とした遠隔大学院開講の可能性を探っている。現場はなかなか離れられないけど、専門性を高めるために大学院レベルの講義を受講したり、指導を受けたいという熱心で優秀な先生は自分の回りにも多い。いつでもどこでも受講できる高品質なコースが提供できるようになれば、うちのような大学の元々の設立目的の達成につながるはずだ。

というわけで、二月中にはこれまでサマースクールの事前学習として受講生のみに提供してきたオンラインコースを一般開放するように、ただいま準備中。MoodleというフリーのLMS(Learning Management System)を使うことになるのでその勉強もしている。

MoodleはオーストラリアのMartin Dougiamas氏が開発を始めたオープンソースのLMSで、BlackboadやWebCTと同等以上の機能を持ちながら、無料!という気前のいいシステムだ。オープンソースなので世界中から開発者・利用者が参加してコミュニティを形成し、バグを修正したり、モジュールを拡張して機能アップが進められている。日本語にも対応している。

Moodleの勉強の一貫として、ここで公開されている、Dougiamas氏へのインタビューを聴いてみた(ダウンロードしたらポッドキャスティング化されたファイルだったので、そのままiPod shuffleに入れて、週末にジムでバイクこぎながら。こういうのって超便利だ)。

仕事上どうしてもWinを使わないといけないときがある。 たいていそんな日はいらいらする。 応答なし@U.K. BLOG

まったく同感。しかもWinだけじゃなくてMicrosoftのアプリ全般。

さっきからメールアドレスを勝手にハイパーリンクしちゃうおせっかい機能をはずそうと探しているけど、見つからない。しかもエクセルで。

旧バージョンだったら、「オートコレクト」の設定に「インターネットとネットワークのアドレスをハイパーリンクに変更する」のようなオプションがあったと思うんだけど、2004バージョンに更新したら見つからない。どこだ!! (なんで変えるの?こういうインターフェイス??)

なにしろ、間違ったメールアドレスを変更しようと、マウスをタッチした瞬間にメーラーが起動しちゃうんだからくせ者。

そもそも誰がこんな機能を望んでいるんだ。

大学のお仕事で『大学教育の多様化とe-Learningの活用』という研究会に行ってきました。

主催は教育システム情報学会(JSiSE)。

発表が始まると同時に会場のあちこちから窓系OSの起動音が.... なんか居心地悪いなぁ。クールビズどころか、Yシャツネクタイの人が多いし... あ、企業の展示もあるんだっけ。

(ちなみに私はジーンズにポロシャツでした.... ^^;;)。

アメリカで起こっていることは10年から30年後に日本でも起こるというテーセツどおり、今や日本の大学は猫も杓子もe-Learningです。

アメリカではe-Learningだけで学位がとれる大学まで乱立し、結局、採算もとれずにつぶれていった... というオチもよくご存知の人たちが、現在、日本で同じことをしているわけです(フシギですね)。

そもそも、何がe-Learningで何がe-Learningでないかもはっきりしないような概念だから「e-Learningで大学教育が改善されるか?」なんて問いはまったく無意味なわけ。

せっかくネットやパソコンがこれだけ普及したんだから、それが大学教育にうまく使えるようなら、使ったるわいくらいの姿勢がちょうどいいのではないかと思うんだけど、なぜか「全学的取組み」、なぜか「何千万円もするシステム」、なぜか「教員の負担は増えるばかり」なのですな。

なぜか?なんて書いてますけど、理由はわかっていて、e-Learningを導入すると、いろんなところからお金がもらえる随伴性があるからなんです。意外に単純。

不条理!とか、それじゃ、いらないダムつくる公共事業と同じじゃん!! と怒り心頭に達する人も多いかもしれません。自分もそう思うし....  だけど、いっかいの大学教員にはどうしようもないわけなのですね。

だから、それなら、せっかく流れて消えていくお金をできるだけ有効利用しましょうね、というのが私のスタンス。

んで、研究会。

面白かったのは次の2つ。

・行動分析家の F. S. ケラーが開発したPSI(Personalized Systems of Instruction)が注目されていること。

・リッチなコンテンツはe-Learningの必要条件でも十分条件でもないという広島大学の安武公一先生の発表(というか主張)。

PSIについては、金沢大学から早稲大学に移られた向後千春先生がご活躍されていている影響みたい。

「行動分析」なんておそらく聞いたこともない人たちから見直されているってところが面白い。

PSIについては、どこかに文献リストを作っておいたような気がするんだけど、見つかりません。そのうち見つけてアップします。

安武先生の主張は半分正しく、半分間違っていると思う。

確かに、パワポの資料と発表者の口パク動画が同期するようなコンテンツや、教科書をそのままwebに載せたようなページはいらないと思う。あってもいいけど、たぶんサバイブしないと思います(←かなり確信ある予測)。

e-Learningで何かを教えるのに必要不可欠なのはコンテンツよりもデザイン。色彩とかレイアウトという意味じゃなくて、学習が生じるためのインストラクショナルデザインだ。

とはいっても、実はこれはe-Learningの話に限らない。対面授業だって同じこと。

つまり、実はe-Learningが成功するかどうかは、e-Learningじゃない授業や指導法でうまく教えているかどうかにかかっている。

ふだんの授業から、デザインなく(膨大な資料とかよもやま話などのコンテンツはあったとしても)教えている人の場合は、それをそのままe-Learningに持っていくと、うまく教えられていないのがバレやすいってことだと思うのだ。

安武先生が紹介されたのは学生にWikiを使ってコンテンツを作らせちゃうという授業なんだけど、確かに教員側が提供するコンテンツは最低限かもしれないけど、学生が学習していくための環境はちゃんとデザインしてありました。

“リッチ・コンテンツ”というのは、そういうデザインがないのをバレないようにするための隠れ蓑と言えないこともない。

こんなことを書いちゃっても大丈夫そうな懐の広く深そうな雰囲気の学会だったので、それにモーレツに忙しかった週の週末なので、少しクダケて書いちゃいました。

あ、じぶん、会員ではありません。 (._.)

閑話休題。

ジョンハンコック・センターの1-2階にあるThe North Face にハイキングシューズを買いに行った。

んで地下鉄(Red Line)に乗ったわけだが、プリペイドカードがめちゃくちゃ分かりにくくて、さすがアメリカと再確認。

これがプリペイドカード(表)。この方向で差しても受け付けてくれない。

chicago-subway1

なんと、こちら側(裏、だよね?)を表にして差すのだ。しかも垂直方向に(斜め前方向に差すとはじかれる)。

chicago-subway2

よ〜く見ると、薄い黄色で矢印らしき形がプリントしてあるのがニクたらしい(地下鉄の改札は日本みたいに明るくないから見えないっつ〜の)。

インストラクショナルデザインというコンセプトはこの国で生まれたんだと思うんだが、それは必要に迫られての話だったんだろうね。

柴田さんの分析と同じように、前々から気になっていたMacとWinのコントロールパネルのインターフェイスの違いについて比較してみた。

MacではOSXからコントロールパネルという名前がなくなり、「システム環境設定」というメニューに各種設定項目がまとめられた。

cntlpanel_mac

XPで同じような機能を果たすのは「コントロールパネル」である。Windows98のときにも混乱したのだが、XPになっても改善されていないのは、実は「プロパティ」でも各種のシステム環境設定が変更できたり、中にはプロパティじゃないと/コントロールパネルじゃないと設定できない項目があることなのだが(つまり一貫性がない)、ここではそのことについてはふれないでおこう。

ここで比較したいのはアイコン表示の違いだ。

XPの「カテゴリー表示」は全部で10カテゴリー。この分け方も問題で、何がどこにあるのか直感的に分かりにくい。逆に「サウンド、音声、およびオーディオデバイス」なんて、名称自体がものすごくリダンダント(冗長的)。たぶん、慣れないうちは、探し物が見つかるまであちこち開いてみるユーザーが多いのではないだろうか。

ctlpanelXP-1

自分はそんな宝探しみたいなのが嫌なので「クラシック表示」にすることが多い。これだと標準で(?)アイコン の数は29。ちなみにMacOSXは24だ。

ctlpanel-XP2

ところがこのクラシック表示も使いづらい。長らくその理由が分からなかった(というより考えてみなかった)のだが、柴田さんの分析がヒントになった。

まず、クラシック表示(アイコン表示)の並びは、なんと五十音順。Macのようにカテゴリー毎にまとまっているわけではない。29の設定の名称を覚えてしまわない限り、どのへんに何があるのかわからないことになる。

しかも、このアイコンの位置はウィンドウのサイズによって変わってしまう。「プリンタとFAX」はウィンドウの右の方にあることもあれば、左の方にあることもあるのだ。

ctlpanel-xp3

これに対してMacの「システム環境設定」ではカテゴリー毎にアイコンがまとめられ、位置は固定。これまで気づかなかったが、この画面はリサイズできないようになっている。つまり、強制的に位置が手がかりになるような設計になっているのだ。

毎日のようにパソコンをいじらなくてはならないものにとって、位置の手がかりは重要だし、有効だ。これが使えないと、どこにアイコンがあるのか、毎回、視覚的に探索しないとならなくなる。

たとえば、システム環境を設定するいくつかの課題を与えられたときの遂行スピードなどを比較すれば、ユーザービリティに関するこの側面の評価ができそうだ。

macvswin01

MacPeopleの4月号にMacとWindowsのインターフェイスの違いについて柴田文彦さんによる面白い記事が掲載されていた。

Macではアプリケーションのメインメニューは画面(デスクトップ)の最上段に表示される約束になっている。これに対しWindowsではメインメニューは各アプリケーションのウィンドウの上段に表示される。Windowsではこの仕様によって、メインメニューを操作しようとするとき、理論的にはマウスカーソルの距離が短くてすむ。だから操作が機敏にできるはずという設計だ。

ところが柴田氏は、常に画面の最上段にメインメニューがあるMacのインターフェイスを、(1)いつも同じところにあるから探さなくてすむ、(2)マウスカーソルを移動させたとき、画面の(正確にはデスクトップの)端にメニューがあれば、それ以上カーソルが動かないので、マウスの移動先の実質的な大きさはWindowsのメインメニューより大きくなるとしている。

試しに目をつむってマウスを動かしてみた。Macではかなり正確にメインメニューにアクセスできる。いつも同じところにあるし、マウスカーソルが“通りすぎないから”だ。同じことをXPでやってみたが、まったくヒットしない(当たり前だけど)。

Windowsでもすべてのアプリケーションを全画面表示(最大化)すれば同じことになるかなと思ったけど、実は、各ウィンドウの最上段はアプリケーションの名称が表示される欄になってしまっているから、カーソルは通り過ぎてしまうのだ。

もうちょっと現実的な実験として、たとえば、文章ファイル内のカット&ペーストをメインメニューから行なうスピードやそのときの誤反応率みたいのを計測すれば、実証的なユーザービリティの評価になるかもしれないと思った。

billatkinson

数日前、「マックと行動分析学の親密な関係」という記事で、アップルのユーザーインターフェイスの基礎をつくったLisaというコンピュータの開発過程で、いかに行動分析学の考え方が活用されていたかを紹介した。

実は、グレッグのあのメールを翻訳しようと思い立ったのは、MacFanというパソコン雑誌に掲載された、ビル・アトキンソン氏へのインタビュー記事「MacOSを作った伝説のプログラマーが語るMacOS誕生の秘密と彼が目指したパソコンの未来」に触発されてのことであった(MacFan, 2004, 11月号, Pp.32-33)。

ビル・アトキンソン氏は、アラン・ケイやスティーブ・ジョブズと共にアップルを創出した、知る人ぞ知る天才プログラマーである。

インタビューアーの、最近のPCは昔に比べると飛躍的に性能が向上しているのにもかかわらず、逆に使いにくくなっているのでは? という質問にアトキンソン氏はこう答えている。

(使い勝手をよくするためには)ユーザーテスティングが重要なのだ。インターフェイスをどのようにするか決めるのはデザイナーでもプログラマーでもなく、ユーザーなのだ。3人のユーザーが眉を曇らせたら、そのインターフェイスは誤りだということ。デザイナーよりもユーザーを信用することが大切だ。

まさに「学び手は常に正しい」というインストラクショナルデザインの鉄則である。パソコンのユーザーインターフェイスだけではなく、教育でも福祉でも医療でも、あらゆるヒューマンサービスに関わる仕事のコアになる概念だ。

この記事のことをうっかり失念していたので追記しておく。

アップルのMacintoshの元になったLisaというパソコンとソフトウエアの開発に行動分析家が関わっていたことはあまり知られていません。

今でもスティーブ・ジョブズと交友のあるグレッグ・シュティークリーサーが、インストラクショナルデザイン−特にユーザーテスティングを中心とした開発テスト−の専門家として、システムやアプリケーションソフトの開発に関わっていた様子をうかがい知ることのできるメモを入手しましたので、ご本人の許可をいただき、翻訳しました。

スティーブ・ジョブズの指令は「ユーザーにソフトを使い始めさせて、20分以内に何らかの意味ある仕事ができるくらい操作を簡単にすること」だったそうです。

自分も教員対象の研修プログラム開発に、このへんの精神を活かしてみようと思います。

この資料はこちらからどうぞ。

中島定彦先生がWordで表のセル内を縦位置でセンタリングする方法を教えてくれた。

セルを選んで右クリックして下のメニューから選ぶ。こんな感じ。
  ↓  ↓  ↓

table-centering-word02.jpg

これに対して、EGWordで「一発ポン」というのは、こういう意味。
  ↓  ↓  ↓

table-centering-egword.jpg

Wordの方が同じ課題に必要な行動の数が多いのと、いくらなんでもそのメニューはないでしょってくらい分かりにくい先行刺激を提示している(それにしてもほんとうなら組み合わせの数は12になりそうなもんだが....)。

ゼミ生(現職の先生たち)に最も時間を割いて欲しいのは、データを収集して分析したり、行動随伴性を分析したり、指導方法を考えたりという活動なんだけど、どうしてもパソコンの操作に一番時間がかかってしまう。

ワープロや表計算、プレゼンテーションのソフトは、ほんとうにもっとわかりやすく、簡単に使えるようにデザインして欲しいと切実に思う。

aba2005registration.jpg

ABA(国際行動分析学会)の年次大会がすべてオンラインで申し込めるようになったのはいいんだけど、相変わらず操作性が悪い。

上は学会で配られるネームプレートを設定する画面なんだけど、まず、「なに? Nickって?」って思っちゃう。しばらく眺めて、ようやく、「Nick Name」が途中で改行しちゃっているんだって気づくんだけど、今度は「Full Name」と「Affiliation」がそれぞれを記入すべき欄よりも、記入してはいけない欄の方に近かったりするから、どこに何を書けばよいか躊躇してしまう。記入例でもあればまだ助かるんだけど。

思えば、ABAの申込書ってオンラインになる前から分かりにくかったなぁ。さらに思えば、アメリカの入国申請書も分かりにくいよなぁ。記入欄とその説明が交互に縦に並んでいるから(まさに上の画面のように)、しかもなんとなく直感に逆らって、「Name」の上の名前を書かなくちゃならないから、時差ボケの頭には負担がかかりすぎる作業になってしまう。

日本人なら項目は右、記入欄はそれに対応するように左に並べるところだけどね。単に習慣の違いなんだろうか。

teikyocard01.jpg

読売新聞日本臓器移植ネットワークによれば、1997年10月の臓器移植法施行から今年6月までに、意思表示カードの記載不備で脳死臓器提供ができなかった事例は105件あった。

あわてて自分のカードを確認したら、しっかり○がついていた(画像の青い丸で囲った箇所)。

厚生省は弾力的な解釈をして「1」に○がついていなくても臓器提供が可能になるようにする方針だそうであるが、その間、臓器が提供されなかった人はどうなったんだろう。

インストラクショナルデザインの考え方からすれば、ただちにカードのレイアウトを変更すべきだ。

たぶん、カードの最初は、

 「私は、臓器を 1.提供します 2.提供しません (←1か2のどちらかを○で囲む)」

として、何をどんな条件で提供するかは、その下で意思表示させるべきではないだろうか。

そして、もちろん、記入テストをして、どんな記入ミスがでてくるかを調べてから採用すべきだろう。

eLearningやWBTの開発プロジェクトに関わっていると、「これじゃ学習は進まないだろうに...」という教材によくお目にかかる。

中には自らFlashなどのオーサリングシステムまで勉強して、教材を作ってしまう熱心な先生もいる。

残念ながらあまり理解されていないのは、マルチメディア教材でアニメーションを使うだけでは「学び」は進まないということだ。

今回のタイへの派遣でも何回か出くわしたのは下の図のタイプ。概念の弁別の練習をさせるゲーム(この場合、英語の動詞の現在形と過去形の区別を例にしてみた)。動詞のカードをマウスでつかんで、現在形か過去形の箱に入れていく。正しければ箱に入り、間違っていれば元に戻される。だが、これでは学びは保証できない。

flashexample350.jpg

なぜか?

ユーザーテストをすればすぐにわかると思うのだが、もちろん、動詞カードを読んで、現在形か過去形かの判断をしてからマウスの操作をする子どももいる。ところが、必ず、動詞カードを読まずに適当に箱に入れる子どももあらわれる。2回に1回は正しい箱に入るし、左に入らなければ右に入れればいいのだから、つまり、実は、動詞カードを読んで判断しなくても最後までできる課題なのだ。

A:先行条件 B:行 動 C:結 果
動詞カードを見ないで マウスを操作する 箱に入る(↑)
(1/2は)

A:先行条件 B:行 動 C:結 果
左に入らなければ 右に入れる 箱に入る(↑)

それでは「学び」を保証するにはどうすればいいだろうか?

最も簡単な改善策は各カードにつき、最初のトライで箱に入らなければアウトとして、たとえば8枚中6枚以上入らなければ失格とすることだろう。つまり達成基準をつくってそれを目標にゲームをさせるということだ。

あるいは時間制限をつけてもいいだろう。ユーザーテストをしてマスターした子どものスピードを調べる。そして上記のように適当に操作をしていたら間に合わないくらいのタイムリミットを設定すればよい。

そのような設定によって、「動詞カードを読んで、正しい判断して、正解する」という一連の行動が強化されるようになるのだ。

A:先行条件 B:行 動 C:結 果
動詞カードを読んで 右(または左)に入れる 正解する(↑)

「芸術性は教えられるのか?」とタイの先生に質問された。

「ゴーンペーッ」という詩について教えるプログラムの中で、先生たちが「リズム」と呼ぶ指導目標について、検討していたときのことだ。

インストラクショナルデザインの考え方では、指導目標はできるだけ具体的に定義する。そのためには、まず何を教えようとしているのかを明確にしなくてはならない。

「決まった位置で韻をふむ」「決まった声調を使う」「擬人化、比喩などの技法を使う」などについては、かなり具体的に、明確に定義できたのだが、この項目については曖昧だった。

「リズム」がある詩とない詩では、どこがどのように違うのか? と質問していくと、「テンポ」とか「雰囲気」とか「ことばの選択」とか、さまざまな、しかも先生によって異なる答えが返ってくる。どうやら、人によって「リズム」の解釈が異なるらしい。

他の指導目標は、どちらかというと詩を書くときに守るべき約束事や技法に関するものだったのだが、どうやら「リズム」については、約束事やテクニックをうまく使ったときに詩の読み手に与える印象のことのようでもある。

「他の指導目標がすべて教えられたら、よいリズムの詩が書けるのか?」と聞いてみると、先生方は考え込んでしまった。どうやら、そうでもないらしい。そこで、一人の先生が「芸術性は教えられるのか?」と質問してきたわけだ。

体操などのオリンピックの競技にも技術点と芸術点があるように、おそらく詩にも客観的に評価できる技術点と、主観的にしか評価できない芸術点があるだろう。「ゴーンペーッ」の約束事や技法については、具体的に明確に定義することで、技術点を設定し、教えられるだろう。「リズム」については、先生たちの間で一つの詩についての評価が分かれるようなら、初心者には学びにくいはずだ(先生によって褒められたり、褒められなかったりするから)。

そう説明したのだが、先生たちは不満そうな顔をしている。自分たちは「芸術性」を教える仕事をしているのだという気持ちが強いのかも知れない。

そこで、ハトにピカソとモネの絵画を見分けるように教えられるというをしてみた。ピカソとモネの絵画を見分けられるようになることが「芸術性」を教えたことになるなら、「ゴーンペーッ」の「芸術性」も教えられることになる。「リズム」がある詩とない詩(弱い詩)を対提示して、どちらがリズムがあるかを判断させる練習をたくさんすれば、「リズム」という「芸術性」に関する判断はできるようになるかもしれない、と。

先生たちは、まだ納得がいかないようだったが、時間切れになり、次回までに検討してもらうことになった。

「技術点」を狙うか、「芸術点」に挑戦するか、先生たちがどちらを選ぶか楽しみである。

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タイの詩(ゴーンペェーッ)に引き続き、「消化器官」と「%」のコンテンツについて打ち合わせ。

「%」では、おそらく日本でもよくある問題を発見。

なぜか教材には買い物の例題が多いのだが(「120バーツの30%割引はいくらでしょう?」みたいな)、同時に、こんな問題も数多く含まれていた。

100バーツで仕入れた商品を105バーツで売りました。利益率は何%でしょう?

先生たちによれば正解は5%。

大学院生の頃に勉強した会計(組織行動マネジメント専攻コースでは授業の中にこうした単位が必修で含まれているのです)では、確か、

利益率=粗利益/売り上げ (売り上げ=仕入れ+粗利益)

だったはず。

ところが、タイの先生たちの公式は、

利益率=粗利益/仕入れ

である。

まず、これを確認したのだが、ミーティングに出席していたタイの先生全員(8人くらい)が後者の式が正しいと主張。

もしやタイの会計の特異性か?と思いながら、他の例題もみていくと、こんなものもあった。

おむつ50個入りで100バーツと70個入りで120バーツではどちらがお得でしょうか?

わかるひとにはわかると思うが、これは比率の問題であって、%(割合)の問題ではない。

おむつ1個あたりの価格=価格/個数

で計算するからだ。

これでわかった。%の教材に、割合を求める問題と比を求める問題が混在しているのだ。

上述のタイ式利益率も、

仕入れ1バーツあたりの利益=祖利益/仕入れ

とみれば比の問題としてとらえられる。

割合と比の区別を、タイの先生たちに説明して(かなり、たいへんだったけど ^^)、最後には自分たちが作った練習問題も「これは比の問題だわ」「これは割合ね」と区別できるようになった。

先生たちによれば、教科書では%の課題の直後に「利益率」がでてくるらしく、生徒たちはそこでつまづくらしい。「どおりで」と、先生たちも納得顔だった。

ちなみに、ミーティング後に、長期専門家の河原さんに調べてもらったところ、タイでも会社では日本や米国と同じように、割合として利益率を計算していることがわかった。

教科書の計算式がズレてしまっているようで...... う〜ん、この問題は私の手にはおえません。

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JICAのタイ教育用情報技術開発能力向上プロジェクト(通称ITEd)でバンコクに出張中。

教育省のスタッフ(カウンターパートと呼ばれる)と、学校の先生たちが開発しているWBT(Web-Based Training Program)について、インストラクショナルデザインの立場から助言する仕事である。

昨日はタイ語の授業で取り上げられる「ゴーンペーッ」という詩について教えるコンテンツについてミーティング。
「ゴーンペーッ」は俳句のように音数が決まっている詩で8・8・8・8で詠む。決まった位置の音、決まった声調で音韻を踏んだり、比喩・暗喩・直喩、擬人化、あるいは枕詞のように、詩の世界でのみ特殊な意味を使うなど、たくさんのルールがある。

喧々諤々の討論だったが、タイの先生たちの文化を知るにはいい機会だった。

どんな文化か..... 時間があればゆっくり報告したい。

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シアトルの教材開発会社HeadSproutが行動分析学に基づいて開発した Early Reading Program は、週に1回、 20分のレッスンを40ユニットこなすだけで、小学校高学年レベルの物語を読みこなせるようになるというweb教材だ(アメリカは今でも識字率が低い国の一つで、この会社は識字率を上げることにコミットしている)。

 緻密なインストラクショナルデザインとデータによる改善を繰り返して開発されたこのプログラムは、教育省が実施する大規模な評価プロジェクトにも選ばれて、今、まさにフィールドテストの真っ最中である。

 今回は、ニューヨークのPS106という公立小学校でのレッスンを見学することができた。HeadSproutの教材をテストするということで、なんとAppleから64台のeMacとXServerが寄付された。幼稚園(K)と小学校1年生のクラスをそれぞれ実験群(Early Reading Programを使う児童)と統制群(これまで通りの指導をする児童)にランダムに分け、事前・事後に標準化されたテスト(Iowa Standard Testなど3種類+NY市が使っているテスト)を実施して、プログラムの効果を検証しようとしている。

 子どもたちがeMacの前に座ってヘッドセットをつけ、それぞれのペースでweb教材に取り組む姿は圧巻だった(残念ながら、写真撮影は許可をとるのがめんどうなのでナシ)。

 HeadSproutのこの評価プロジェクトに関しては、後でもっと詳細なレポートを書くつもりだ。

菅平・峰の原スキー場でテレマークのコーチングを受けた。講師は「T.M.N.スキースクール」主宰の望月氏。かつて北欧で修行し、テレマーク競技の選手として活躍され、テレマークの教本やビデオにも登場する第一人者だ。幸運にも受講生が私一人だったので、個人レッスンの形をとり、細かなアドバイスやフィードバックをいただけた。

中でも面白かったのがビデオコーチング。望月先生がビデオ撮影しながら、同時にコメントを録音してくれる。レッスンが終わってから宿に持ち帰ってこれを見る。自分の滑りを友達に撮影してもらったことはあったけど、コーチからのコメントつきは初めての経験である。

ビデオコーチングを観る

スポーツのインストラクションで難しいのは、自分の体勢やフォームがどうなっているか、自分では分かりにくいところだ。今回のレッスンでは「両脚同時操作」がキーポイントだった。ターンで右足と左足のエッジと前後の位置を同時に変えることなのだが、滑っている真っ最中には、これができているのかできていないのか、自分でもよく分からない。それがビデオを見ながら、「惜しい」「はい。そうです!その調子」「後ろ足で踏ん張って」などのコメントを聞くことで、自分の体勢や動作がどのようになっていれば「○」で、どのようになっていると「×」なのか、実によく分かった。おそらく、ビデオを見ながら動作の視覚的な弁別学習が進み、その「イメージ」が次に滑ったときの行動制御に役立つのではないだろうか?

[ビデオコーチングを受ける前]

A:先行条件 B:行 動 C:結 果

「両脚を同時に操作して下さい」
(→どうすればよいか分からず、刺激性制御が不十分) 

両脚同時操作に必要な一連の行動

両脚同時操作でターンできる
(→うまくできているかどうか分からず、強化しない)

[ビデオコーチングを受けた後]

A:先行条件 B:行 動 C:結 果

「両脚を同時に操作して下さい」
+ うまくできているときのイメージ

両脚同時操作に必要な一連の行動

両脚同時操作でターンできる
(↑イメージと動作がマッチすることによって強化される)

臨床スキルのトレーニングにも応用可能かもしれない? 来年度ぜひ試行してみようと思う。

池田清彦氏の『やぶにらみ科学論』(ちくま新書)が面白い。
 「クローン人間作ってなぜ悪い?」とか「地球温暖化なんてホントにあるのか?」など、社会で常識として疑われないことに敢えて挑んでみせる。《科学》も扱い方次第では《オカルト》と変わらない。我々の日常生活に一見科学的なエセ科学が蔓延していることは、昨年度「論理的思考講座」で講演をお願いした岡山大学の長谷川先生のお話にもあった通りだ。
 池田氏は「先進国の中で最低」とされる日本人の科学リテラシーについて、子どもの経験や生活体験を重視し、原理的なことを教え込もうとしない文科省の方針を批判して、「国民の科学リテラシーの向上を阻んでいるのは、やっぱり文科省みたいだね」(p.69)と切り捨てている。
 文科省以外にも原因はあると思うけど、文科省の中央集権的、官僚的な側面が、確かに阻害要因の一つになっていると、私も思う。少なくとも、問題を解決しているようには見えない。
 たとえば、マスコミでも話題になった円周率の問題。池田氏は「3」とか「3.14」とかの具体的な数字の問題ではなく、『無理数』という、小数点以下どこまでも数字が確定しない数があるということの理解の方はよっぽど重要だと指摘している。まったく同感だ。行動分析学的に考えれば、標的行動(指導目標)は、「円周率は?」という問いに「3」とか「3.14」と答えられることではなく、「無理数」という概念を自分の言葉で説明できるとか、無理数と円周率の関係を図示できるとか、じっさいに小数点数桁まで円周率を計算できるとか、そういう行動群になるはずだ(もちろん、そういう標的行動を小学校で教えることにどれだけ意義や価値があるのかは別の問題であるが)。
 そんなことを考えているときに、スタジオジブリ、高畑勲監督脚本の『おもひでぽろぽろ』を観た。 この映画では田舎好きな主人公の独身OLたえ子に、彼女が小学校5年生だった頃の思い出が繰り返しフラッシュバックされる。その中に、分数のわり算に関するシーンがある。
 たえ子は言う。「分数を分数でわるってどういうこと?」「3分の1個のリンゴを4分の1で割るってことは、3分の1個のリンゴを4人でわったら一人何個になるかってことでしょう?」「分数のわり算がすんなりできた人は、その後の人生もすんなりいくらしいのよ..... 」
「分子と分母をひっくり返してかける」--この計算のルールをそのまま何の疑いもなく覚えてしまって使えば、確かにテストではいい点がとれる。どうしてそうなるのかを全く理解していなくても。そういう人は、確かに人生も「すんなり」過ごせるのかもしれない。ルールに従う行動は、ルールと実際の随伴性が一致している場合には強化されるからだ。でも、ルールと実際の随伴性が食い違ってくると、たちまち弱みをみせるというのも事実である。これは行動分析学の基礎的な実験でも分かっていることだし、日常的な観察からも納得がいくことではなかろうか。
 ものすごく大雑把は話になるが、日本の社会は加速度的に既存のルールが適用できない状況になってきていると思う。変化の加速度はこれからさらに増すだろう。年功序列、終身雇用、右肩上がりの経済成長、日米安保条約..... 近代日本がより所にしていた前提が、今やどんどん崩れてしまっているのは承知の通りである。
 そうなると、ルールに従っているだけの行動は機能しないし、非効率である。よって、いずれ淘汰される。このような変化の多い環境で機能するのは、自ら随伴性を探索し、弁別刺激を探していく問題解決的行動だと思う。そして問題解決的行動をうまく誘導してくれる仕組みが科学や倫理にはある。
 池田氏は言う。「生きる力」も「自ら学ぶ力」も「総合学習」も原理的なことがわからなければ、すべて絵に描いた餅であると。『おもひでぼろぼろ』の主人公はあいにく、なぜ分子と分母をひっくり返すのか、その原理や考え方を教わらなかった。家庭教師役の姉のヤエ子には「とにかく、リンゴにこだわるからわからないのよ。かけ算はそのまま、わり算はひっくり返すって覚えればいいの」と言われてしまった。
 日本の学校に必要なのは、ヤエ子姉さんのルール支配的な思考からの脱却である。
 ちなみに、たえ子が落ちこぼれたわり算の問題は、比率としての分数(例:ある量の3分の1)と絶対量としての分数(例:1/2=0.5)が混同しているところに原因の一つがあるように見えるのだが、指導要領はどうなってるんだろう。
 もう一つちなみに、『おもひでぽろぽろ』は最後まで見るには忍耐のいる映画であった。

池田清彦氏の『やぶにらみ科学論』(ちくま新書)が面白い。
 「クローン人間作ってなぜ悪い?」とか「地球温暖化なんてホントにあるのか?」など、社会で常識として疑われないことに敢えて挑んでみせる。《科学》も扱い方次第では《オカルト》と変わらない。我々の日常生活に一見科学的なエセ科学が蔓延していることは、昨年度「論理的思考講座」で講演をお願いした岡山大学の長谷川先生のお話にもあった通りだ。
 池田氏は「先進国の中で最低」とされる日本人の科学リテラシーについて、子どもの経験や生活体験を重視し、原理的なことを教え込もうとしない文科省の方針を批判して、「国民の科学リテラシーの向上を阻んでいるのは、やっぱり文科省みたいだね」(p.69)と切り捨てている。
 文科省以外にも原因はあると思うけど、文科省の中央集権的、官僚的な側面が、確かに阻害要因の一つになっていると、私も思う。少なくとも、問題を解決しているようには見えない。
 たとえば、マスコミでも話題になった円周率の問題。池田氏は「3」とか「3.14」とかの具体的な数字の問題ではなく、『無理数』という、小数点以下どこまでも数字が確定しない数があるということの理解の方はよっぽど重要だと指摘している。まったく同感だ。行動分析学的に考えれば、標的行動(指導目標)は、「円周率は?」という問いに「3」とか「3.14」と答えられることではなく、「無理数」という概念を自分の言葉で説明できるとか、無理数と円周率の関係を図示できるとか、じっさいに小数点数桁まで円周率を計算できるとか、そういう行動群になるはずだ(もちろん、そういう標的行動を小学校で教えることにどれだけ意義や価値があるのかは別の問題であるが)。
 そんなことを考えているときに、スタジオジブリ、高畑勲監督脚本の『おもひでぽろぽろ』を観た。 この映画では田舎好きな主人公の独身OLたえ子に、彼女が小学校5年生だった頃の思い出が繰り返しフラッシュバックされる。その中に、分数のわり算に関するシーンがある。
 たえ子は言う。「分数を分数でわるってどういうこと?」「3分の1個のリンゴを4分の1で割るってことは、3分の1個のリンゴを4人でわったら一人何個になるかってことでしょう?」「分数のわり算がすんなりできた人は、その後の人生もすんなりいくらしいのよ..... 」
「分子と分母をひっくり返してかける」--この計算のルールをそのまま何の疑いもなく覚えてしまって使えば、確かにテストではいい点がとれる。どうしてそうなるのかを全く理解していなくても。そういう人は、確かに人生も「すんなり」過ごせるのかもしれない。ルールに従う行動は、ルールと実際の随伴性が一致している場合には強化されるからだ。でも、ルールと実際の随伴性が食い違ってくると、たちまち弱みをみせるというのも事実である。これは行動分析学の基礎的な実験でも分かっていることだし、日常的な観察からも納得がいくことではなかろうか。
 ものすごく大雑把は話になるが、日本の社会は加速度的に既存のルールが適用できない状況になってきていると思う。変化の加速度はこれからさらに増すだろう。年功序列、終身雇用、右肩上がりの経済成長、日米安保条約..... 近代日本がより所にしていた前提が、今やどんどん崩れてしまっているのは承知の通りである。
 そうなると、ルールに従っているだけの行動は機能しないし、非効率である。よって、いずれ淘汰される。このような変化の多い環境で機能するのは、自ら随伴性を探索し、弁別刺激を探していく問題解決的行動だと思う。そして問題解決的行動をうまく誘導してくれる仕組みが科学や倫理にはある。
 池田氏は言う。「生きる力」も「自ら学ぶ力」も「総合学習」も原理的なことがわからなければ、すべて絵に描いた餅であると。『おもひでぼろぼろ』の主人公はあいにく、なぜ分子と分母をひっくり返すのか、その原理や考え方を教わらなかった。家庭教師役の姉のヤエ子には「とにかく、リンゴにこだわるからわからないのよ。かけ算はそのまま、わり算はひっくり返すって覚えればいいの」と言われてしまった。
 日本の学校に必要なのは、ヤエ子姉さんのルール支配的な思考からの脱却である。
 ちなみに、たえ子が落ちこぼれたわり算の問題は、比率としての分数(例:ある量の3分の1)と絶対量としての分数(例:1/2=0.5)が混同しているところに原因の一つがあるように見えるのだが、指導要領はどうなってるんだろう。
 もう一つちなみに、『おもひでぽろぽろ』は最後まで見るには忍耐のいる映画であった。

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