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*画像は公式HP(http://samuel-k.jp)より拝借いたしました。

"日本で初めての",そして今のところ唯一の,"行動分析学による共生の幼稚園"--学校法人西軽井沢学園サムエル幼稚園と,併設された児童発達支援事業所ハンナに見学に行ってきました(今朝の軽井沢は-5℃でした)。

 昨年4月に開園し,直後の5月にも一度見学させていただいていたのですが,子どもたち,そして先生たちの成長を楽しみにした再訪問となりました。

 一期生の園児さんのほとんどが年少さんで,この時期の子どもの発達がどれだけめまぐるしいかわかってはいるつもりですが,前回と今回とでは人が違うのでは?と思うほどの大きな変化をたくさん観察した半日でした。

 まず,教室に入って挨拶したとたんに,何人かの子どもが話しかけてきました。「おはようございます」だけではありません。「しんかんせんだよ」と組み立てたブロックを見せてくる子どもさんもいます。サムエル幼稚園ではインクルージョンが実現されています。発達障がいがあるお子さんもいます。そうしたお子さんも,私に指でサインをつくって挨拶してくれました。後で先生に聞いたら,自分の名前のイニシャルをつくって教えてくれていたそうです。

 前回も今回も,登園後,朝の会の前の自由遊びの時間から見学を開始したのですが,5月にはたださわったり,転がしていたりしたブロックを,今回は何かに見立てて組み立てています。ブロックを注射器にみたてて「お尻に注射!」と先生にちょっかいをだしている子どもさんまでいました。

 この時間帯,前回は,叩いたり叩かれたり,押したり押されたり,それで泣きだしたりと,けっこう混沌とした状況だったのですが,今日は子どもたち同士で話をしたり,仲良くじゃれあったり,おままごっこをしたりしていました。組み立てたブロックを取られそうになると,「私がつくったの!」としっかり主張しているお子さんもいました。

 すべて5月には見られなかった社会的行動ですし,発話の頻度,複雑さです。

 朝の会も驚きの連続でした。5月にはずっと泣き叫んでいた子どもさんがずっと静かに座っています。前回は先生方が我慢して大きな声にも動じないようにしていました。懸命に消去しようとしていた姿がそこにはありましたが,そうした指導や席の位置の調整,朝の会が始まるまでのルーチンの工夫(自由遊びの時間に静かな別室で,親御さんによる個別指導を行う時間にするなど),様々な指導がなされた成果のようです。

 他のお子さんたちも同じです。今日は,なんと"天国"のお話まであったのですが(名前から推測されるようにサムエル幼稚園では聖書のお話を聞いたり,賛美歌を歌う機会があります),そして天国や神さまのお話は幼稚園児には,そして私にも,けっこう難解な話だったりもしたのですが,離席も,逸脱も,ほぼ皆無でした(椅子から半分腰をすべらせて座るくらい。← これは私の教授会でのいつもの行動です)。

 これも5月と比べて大きな進歩です。幼稚園の大きな役割の一つは,小学校入学後にいきなり求められることになる集団技能の練習にあると私は思うのですが,それを叱ったり,強制したり,諭したりすることなく実現できていました。

 「天国ってどんなところだと思う?」という先生の問いかけに,「○○ちゃんが死んで天国に行ったの」と発言する子どもたちもいました。話したがりのお子さんには先生から「手をあげてから話そうね」とプロンプトが提示され,そのあとは一生懸命に手を挙げていましたよ(かわいかったです)。子どもさんがどれくらい先生のお話を理解しているかには大きな個人差がありそうでした。それはそれであたりまえだし,みんな違ってみんないいわけです(←わかる人にはわかるフレーズの拝借です ^^)。

 サムエル幼稚園では,児童発達支援事業所ハンナが併設されているメリットを最大限に活かし,個別や小集団での,指導目標をより焦点化し,教材や訓練プログラムを作成した上での指導も受けられます。また,その指導には保護者の方たちも強く関わってきます。先述の例も,個別の指導プログラムはハンナで作成し,親御さんが家庭でも実行できるように練習し,それを登園後に親御さんが園で実施しているというわけで,幼稚園と発達支援事業所が連携してお子さんと親御さんの両方をうまく支援している好例だと思いました。

 奥田先生は出張中でお留守でしたが(そうだ今日は徳島で実践教育報告会だった ^^;;),事前に偏食などの指導にも成果がでてますよとうかがっていたので,お弁当の時間も見学させていただきました。

 前回は昼食前においとましたので比較はできないのですが,その代わり,記録(間食までの経過時間など)を見せて頂き,先生方やハンナの笹田先生にも詳しくお話をお聞きしました。ここでも個別指導が鍵になっています。子どもさんごとにプログラムがつくられていて,一つのケースでは完食目標時間の設定とiPadによるタイマーの提示で見事に成果がでていました。目標時間内に完食でき,このお子さんは「成功!」と喜んでいました。
 もう一つのケースは現在進行形でプログラムを検討中だそうで,どういう状況なら食が進むのか,色々な変数をみつけている最中だそうです。このお子さんの場合,特に新奇な食べ物が苦手なようなのですが,今日は「オクラ」を生まれて初めて食べることに成功していました。こういう挑戦をするときにはお弁当の中に何か新しいおかずをいれてもらう必要があるわけで,それにはご家族のご協力が不可欠になります。このお子さんの場合はなんとお父さんが毎日お弁当をつくられているそうです。これが本当のイクメンですね。

 そうそう。サムエル幼稚園にはロフトのような2階スペースがあり,保護者の方々がそこから子どもたちの活動を観察できるようになっています。前回も,今回もかなりの数の親御さんがいらしゃっていました。

 登園後の個別指導やお弁当の例からもわかるように,保護者の方々の関わりを重視することもサムエル幼稚園の特徴です。奥田先生は「親子ともによい育ち」というスローガンをあげていますが,これはお題目ではなく,奥田先生が担当された何万にもわたる(数は私の根拠のない推測です)ケースから導かれた事実だと私は考えています。子どもさんの発達を促し,成長を伸ばすには,親としての親御さんの成長が不可欠だということです。"不可欠"が言い過ぎだとしたら,親御さんの親としての技術に磨きがかかればかかるほど,子どもさんもぐぐっと成長しますよ,ではどうでしょう。そして,子どもさんへの直接的な指導だけではなく,親御さんへの親技術の指導においても,行動分析学という行動科学を基礎にした奥田先生の臨床の引出は巨大であり,それがサムエル幼稚園では使い放題ということなのです。

 お子さんごとに丁寧に指導プログラムをつくるためには,指導目標に関する行動をしっかり記録し,指導がうまくいっているかどうか,うまくいっていなければどこを改善するべきかを記録を元に判断します。
 サムエル幼稚園では,記録の方法や先生方同士での情報共有の方法について,これも現在進行形で,工夫や改善を重ねているそうです。今日は壁に貼り出された折れ線グラフをみせていただきました。こういうシステムがあるからこそ,先生方も思い込みや個人的なこだわりに固執せず,一人で背負い込むこともなく,奥田先生(は理事長先生です)や笹田先生,親御さんと一緒に,子どもさんの成長を確実に後押しできているのだと思います。

 とはいえ,サムエル幼稚園に現在勤務されている先生方は,大学院で行動分析学を学んだ人たち--ではありません--。臨床の現場で奥田先生の指導を受けてきた人たち--でもありません--。いわば,ふつうの幼稚園の先生たちです。もちろん,奥田先生の教育理念に同意した先生たちです(「記録なんてなんのためにとるんですか!」とか「愛があれば体罰もありだと思います」なんて人はいません)。理念に同意していれば,そして理論は後から学ぶという心意気があれば,そして何より子どもさん,そして親御さんの成長が働き甲斐になる(好子になる)先生であれば,あとは園のシステム(指導行動への随伴性)があれば,望ましい指導は自発され,子どもさんの成長で強化されていく。ここは奥田先生による壮大な実験だと思うのですが,今日見学した限り,この実験は大成功に向かって発展中と言えるでしょう。

 4月には新園児さんたちが入ってきます。人数が増えると子どもたちの随伴性も変わります。また,5月あたりにお邪魔させて頂こうと思います。

追記:見学に対応して下さった笹田先生,園の先生方,保護者の皆さま,本日はありがとうございました。

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 京都ABAIの招待シンポジウム "Improving Education in Every Classroom: Right Here, Right Now"で紹介された資料がwebページにまとめられました。
 Evidence-based Kernelsは、行動分析学の研究や実践で効果が実証されている基本的な要素です。
 他にも、Twyman先生が紹介していた数々のアプリへのリンクや、Heward先生が紹介していたActive Respondingに関する資料などが満載です。
 小中高大の授業で気軽に使えるものばかりですので、ぜひ参考にして下さい。
 京都ABAIでのこのシンポジウムの反響に気をよくされたHeward先生に、来年のChicagoABAIでもやろうよと誘われてしまいました。一度限りの美しさという日本人の価値観を説明したのですが逃れ切れず、もう一度やることになりました。シカゴだとウォシュレットや舞妓さんのジョークが使えないので、また何か考えないと...

 2003年度から毎年行われてきた事例研究を、web上のデータベースとして公開してきた徳島ABA研究会ですが、昨年度に行われた事例研究からは、Googleドライブでその成果報告を公開することになりました。
 これまではデータベースの入力作業が先生方にとっては一仕事だったのですが、ポスター発表で使ったスライドをそのままPDFとして公開することで省力化を進めることにしました。

Googleドライブへは徳島ABA研究会のブログからリンクをたどれます。

 「反転授業」というのがちょっとしたブームになっている(たとえばこの記事)。大雑把にいうと、授業の前に予習をさせ、授業中は予習してきた内容について、講義ではなく様々な演習や実習をする指導法だ。講義をビデオに撮り、ネットで閲覧できるようにして予習させる方法がよく使われるらしい。
 講義よりも演習や実習を優先させ、そのために予習を促進する工夫をするというのは実は新しいアイディアではない。むしろ、インストラクショナルデザインの考え方からすれば常識的な考え方であり、こういう取り組みが広まることはいいことだと思う。
 一方向的な講義というのは学び手から学習内容に関する行動を引き出さない。引き出せたとしても(例:教師が発問するなど)、強化もできないか(タイミングの問題や学び手の正誤反応がわからないことや、学び手にあわせて正答率を高めるプロンプトをだせないことなど)、貧弱になりがちだ。
 話を聞いて何かを学ぶための下位行動レパートリー(重要な点だけノートをとる、考えながらノートをとる、アイディアをメモする、文字だけではなくも文字情報間の関係性を図で描くなど)の取得程度には個人差が大きい。ちょっと注意がそれて大切なことを聞き逃しても、たいていはそのままになってしまう。
 集団講義形式というのは、言ってみれば8インチフロッピーディスクのような古代テクノロジーであり、黒板と共にそろそろなくなってもいい方法だと私は思う。
 だからといって、ネットでビデオというのもずいぶん安直だとも思う。わかりやすい教科書とその授業で対象とする範囲指定、学ぶべき点(学習目標)の明示さえすればいいわけで、何もビデオである必要はない。一般的に、話し言葉で伝えられる量は、書き言葉で伝えられる量よりも少ないし、教科書であればわからないところは何回も繰り返し読み返せるし、それでもわからない場合には資料を補足することも容易である。予習を自習させる限り、できるだけ学び手がとりうる行動の選択肢を広げておいた方がいい。ビデオという時間軸が固定され、提示速度も一定のメディアは、学び手にとってとりうる行動の選択肢が狭い(講義と違うのは巻き戻しができるということだけである)。
 また、むしろ重要なのは、予習行動を確実に自発させるための条件である。反転授業の先駆者であるアーロン・サムズ氏は、上記の記事によれば、予習してこなかった学生には授業中に教室でビデオを見させるそうだ。でも、それではそもそも演習や実習を重視するという話と矛盾してしまう(ただし、サムズ氏によればそうこうしているうちに学生は予習してくるようになるそうだ)。
 自分の場合、予習に課した学習目標について授業開始時に小テストをしたり(小テストの成績は授業の成績にカウントされる)、webクイズを予習にしたり(履歴が残るのでそれを成績にカウントする)など、色々な工夫をしてきたが、受講生の80%くらいはそれで予習をしてくる(ただし、この数値は授業や年度によって±10%くらいで変動する)。
 いずれにしてもビデオをネットで閲覧可能にするだけでは不十分だし、逆にビデオを使わなくても予習は促進できるということである。
 上記の記事では「まず、オンライン学習コンテンツにアクセスするためのデバイスとインターネットアクセスをすべての学習者に確保する必要がある」「(日本では家庭でインターネットを使用した学習環境が未整備で)特に初等中等教育においては大きな課題になるだろう」というコメントが引用されているが、これは本質を見誤ったコメントである。せっかくブームになっているなら、そこ(ネットやビデオ)に注目して、もっと重要な点を見逃してはいけない。
 重要なのは、集団講義形式が捨て去るべき古代テクノロジーであり、教え手が学び手に直接関われる授業では、学び手が学ぶべき行動を引き出し、強化することに時間を割くべきであり、そのための予習行動を促進する様々な工夫を学び手は授業環境にあわせてしていくということなのだから。
 どんなに効果的な教授法も、普及の過程で本質を見誤ると、玉石混淆となり、結局は衰退していく。プログラム学習しかり、ケラー先生のPSIしかりである。
 「反転授業」がそういう顛末を辿らないことを願う。
Keller, F. S. (1968). 'Good-bye, teacher . . .'. Journal of Applied Behavior Analysis, 1(1), 79-89. doi:10.1901/jaba.1968.1-79

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タイトルには"社会的学習理論"とありますが、バンデューラはほんのちょこっとでてくるだけで、あとはほぼ全編行動分析学的手法についての話です(タイムアウト、行動契約、スモースステップなどなど)。特に、行動契約については、親子で契約を結び、守って行くための細かな手続きが書かれています。ここまで細かく書いてある本は他に知りません。

それに本の構成がプログラム学習風になっていて、読んで、考えて、空欄に用語を書込んで、答えをみて....と学べるようになっています(「風」というのは、これだと無誤学習にはなりそうにないし、そのための開発手順もふんでなさそうだからです)。

1987年に翻訳書がでていて、今は絶版ですが、Amazonで古本が入手可能です。原著はロングセラー本で今でも入手可能です(Amazon.co.jpではなぜか一時的に在庫切れのようですね)。"Families: Applications of Social Learning to Family Life"というタイトルからわかるように、"Theory"は入っていませんから、翻訳タイトルを「社会的学習理論」としてしまうのは誤訳だと思います。それに本来は一般向けの本ですから、表紙や文体をもちっと工夫すればもっと売れた(読まれた)のではないかと、残念な気持ちがします。

著者の Gerald R. Patterson 先生は、元々は精神療法とかをやっていた人のようですが、1960年代に非行少年の多動や攻撃行動の対応に遊戯療法がほとんど役に立たなかった経験から行動分析学を学ばれたようです。本書では最後の章に子どもの攻撃行動について書かれています。攻撃、不服従、非行、そして犯罪につながる、望ましくない行動の発達の起源を、家庭における威圧的な行動(coercive behaviors)が負の強化によって学習されていくところに求める理論を築かれた人です(Coercive Family Process)。とはいっても、行動分析家ではなく、業績の多くは、家庭での親子のやりとりを観察し、コーディングし、こうした行動指標と、家庭環境(社会経済的状況、結婚/離婚などなど)や予後(非行による補導など)との相関関係を調べる研究です。オレゴンのソーシャル・ラーニング・センターを立ち上げ、運営してこられた研究者ですが、調べたら今はなかば引退され、カヌーとかを楽しまれているようです

反社会的行動の発達に関するオレゴンモデルを紹介した"Antisocial Behavior in Children and Adolescents" の序章には、40年間にわたる歴史がまとめられています。Skinnerの罰の考え方に対する批評や、強化の理論(随伴性の理論)が彼らの理論にどのように組み込まれているか、臨床的な、シングルケース主体の研究から、理論構築のための大規模で媒介変数(というか集約的変数)を使い、実験をするとしても無作為化した群間比較を用いるようになった経緯も書かれていて、興味深いです。

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日本ではあまり知られていないのではないかと思いますが、行動分析学から家族内の関係性や、攻撃行動・反社会的行動、非行や犯罪を研究してみたいと考えている人には、一連の著書や論文を読むことをお勧めします。

Families: Applications of Social Learning to Family Life Families: Applications of Social Learning to Family Life
Gerald Roy Patterson

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家族変容の技法をまなぶ―入門 親と子どものための社会的学習理論 家族変容の技法をまなぶ―入門 親と子どものための社会的学習理論
G.R. パターソン 大渕 憲一

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総武線で飯田橋に向かう電車に、五人の子どもと三人のお母さんが乗ってきました。

いきなり、そのうち三人の子どもが靴をはいたまま椅子に飛び乗りました。窓にむかって膝を立てて座り、騒ぎだします。座っている私の真横でです。

二人のお母さんがつり革につかまり、瞬間、靴を脱がせようとしますが、子どもたちは無視。お母さんは早々とあきらめ、お母さん同士でおしゃべりを始めます。子どもの靴が度々私の膝にぶつかってきますが、子どももお母さんも気にしません。

残り二人の子どもは入ってきたのと反対側のドアに立ち、やはり何やら窓の外を指差し、大声で騒いでいます。残り一人のお母さんがこの二人の近くで「そうそう、よく知っているね」なんて言ってますが、子どもは知らんぷりです。

車内の視線がこの集団に集まります。私も含め何人かの乗客が明らかに迷惑そうに顔をしかめていますが、お母さんたちはそれに気づく様子もありません。

ここは怒るおじさんに徹して文句を言ってみようか、でもそれも恥ずかしいな、誰か私よも適任者はいないかな、なんて思い戸惑ううちに電車が飯田橋について下車しました。

「褒めて育てる」ことはいいことだと思いますが、それはやってはいけないことを放任することではありません。やってはいけないことをしたら、叱るべきです。叱るといっても、大声で怒鳴ったり、罵ったり、叩いたり、殴ったりするということではありません。それは暴力です。やるべきではないことをしていることを指摘し、なぜやるべきではないかを説明し、やるべきことをできれば複数提示すべきです。そして、やるべきことをせず、やるべきではないことをやりつづけるなら、それなりの結果を伴うことを知らせ、そうするなら結果を伴わせるべきです。

「褒める」と「おだてる」も区別すべきです。望ましい行動に対して、やるべきことをやっていると知らせるなら「褒める」ですが、やるべきことをやっていないときに“褒めて”言うことを聞いてもらおうとするのでは、まるで太鼓持ちですし、それで子どもが言うことを聞くはずもありません。

奥田先生の『叱りゼロで「自分からやる子」に育てる本』が相変わらず売れているそうです。この本には、電車ではしゃぐ子どもに「やっちゃだめよ」を守れるようにする方法も書かれています。でも、同時に、奥田先生が最善とする策は、ほとんどの親御さんが実行しないとも書かれています(具体策を知りたい人は本を買って勉強して下さい)。

親御さんにとっては、子どもが泣いたり、わめいたり、悲しがったり、不機嫌がったりする様子が、とても強い嫌子として機能するようです。だから、子どもをそのようにさせる行動は弱化されますし(「だめ」とは言うけど、ゲームを取り上げることはしなくなる)、こうなる状況を回避できる行動は強化されます(子どもが行きたい場所に親があわせて行くようになる)。「おだてる」ことで回避するのは、体罰などで回避するよりは暴力を使わないぶんマシですが、本来子どもが身につけるべき行動を身につけることができずに育ってしまうという意味では同じです。

実はこの一週間、子育てをしている友達のうちに泊まって四六時中生活を共にしていたのですが、そこであらためて、上述のような家族内のダイナミックな随伴性を目にしました。子どもたちが冬休み入っていることもあり、クリスマスでもあったので、子ども二人に夫婦二人、それに私や友達の親戚を含めて、いつも十人くらいで過ごしていました。子どもは何かを欲しくて(テレビがみたい、ゲームをしたい、アイスが食べたい、などなど)色々な行動を仕掛けてきます。親も、諭したり、別案を提案したりと色々と対抗しますが、やはり最も有効なのは無視のようです(消去)です。とはいっても完全に黙りこむわけではなく、別のことを話したりはします。子ども側は不機嫌な表情をみせ、泣いたりもしますが、そのうち(長いときでは一時間くらいして)収まります。これが一日に何十回もおこります。

かっこよく、ナイスなおじさんでいたい私は、ついつい子どもの不機嫌さに付き合ってしまって、「大丈夫?」とか「何が欲しいの?」とか、まさに「おだて」系の行動にでてしまいました(だから、そうなる気持ちはよくわかります)。でも、友達(心理学者でも教育学者でもない、ただの外資系銀行マンです)はびくともせずにバーストを乗り過ごしていました。偉かったなぁ。

子どもからの愛情を失わず(子どもから嫌われずに)、暴力も使わずに、やってはいけないことをやらないように教えることは可能です。奥田先生のご著書にはそういう考え方や具体策がたくさん書かれています。全国のお母さん、お父さん、ぜひ、購入し、読んで、実行して下さい。

クリスマスの朝は友達の教会のミサについていきました。子どもたちは嫌がっていました。おそらく千人近い人が集まった、ざわつく会場で、一時間くらい、神父さんのお話をきき、賛美歌をうたい、祈り、座り、立ちを繰り返しました。会場のそこら中で子どもたちが泣いたり、わめいたり、ミニカーで遊んだり、どうしようもなくなった大人が子どもを抱きかかえて出て行ったりしていましたが、友達の子どもはずっと静かにしていられました。なぜかとても誇らしい気持ちになりました。

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 久しぶりに大学に行ったら、二瓶社さんから献本が届いておりました(有り難うございます)。

 我が国初のスクールワイドPBSの(翻訳)本です。

 前半が機能分析や指導計画の立案など、後半がスクールワイド体制の築き方についての解説となっています。チェックリストもついているので使いやすそうですよ。

 今年の夏に法政大学で開催された教育心理学会の総会では、スクールワイドPBSの第一人者、G. スガイ先生による講演がありました(関連記事はここここ、講演資料はこちらからダウンロードできます)。そのときには日本語の文献をご紹介できなかったのですが、こういう本がでてくることで、日本でも本格的な導入が始まるかもしれませんね。

 楽しみです。

 Amazonに表紙画像が用意されていないようなのでスキャンして掲載しました。封を開けた瞬間はこの色に驚かされました(ドドメ色?)。増版のさいにはぜひとももう少し薄めで明るい色への変更をご検討下さい(^^)。

スクールワイドPBS―学校全体で取り組むポジティブな行動支援 スクールワイドPBS―学校全体で取り組むポジティブな行動支援
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週末になると近所の公園は野球少年やサッカー少年たちでいっぱいになる。最近は男女が一緒に練習しているから、正確には少年少女たちだ。

地元のチームなのか、その中に大人が交じっていて、ノックしてたりするのだが、これが酷い。

「あきらめんじゃんぇーよ」、「どこみてんだ、このくそぼけ」、「どうしてできねぇんだよ!!」の連続。

それでも子どもたちは「よろしくお願いします!」とか「すみません」とか、とても礼儀がいいし、一生懸命ボールを追いかけている。見ていて、正直、胸が痛くなる。そのうち、きっとどこかで折れるぞ、この子たち。

こういう大人の特徴。

まず、ノックしかしない。自分でキャッチの見本をみせているところを見たことがない。子どもと離れているから、身体的ガイダンス等で、たとえば膝を曲げる角度とか、キャッチする前の事前動作等を誘導することもできないし、しない。

ノックも適当。近距離のキャッチボールから始めて、次第に距離を伸ばすとか、あまり移動しなくて捕れるところから始めて、前後左右へ移動しないと捕れない球をだすとか、そういうプログラムが一切ない。

子どもがすべきことの説明もない。どうすれば捕れるのか、落下地点に移動できるのか、コツの言語化ができないのかしらないのか。キャッチできなかったり、ポロリと落としたときに文句を言うだけ。それも、ちんぴらのような言葉遣い(昨日目撃した奴はサングラスかけていて見かけもなんだか酷かった)。

そして、何しろ褒めない。驚くほど、褒めない。かなり厳しいところに飛んだボールを子どもがキャッチしても無言。

うそでしょ、とあきれるくらいだ。

腹が立つので、公園の脇のベンチに愛犬と腰掛け(自分は犬と散歩中なのです)、「ナイスキャッチ!」とか「惜しい!」とか、赤の他人なのに声をかける。

サッカー教えている大人にはこういう大人はみかけない。パイロンとか小さなゴールとか、いろいろな仕掛けも持参して、ゲームみたいな方法も取り入れて、子どもがいい動きやプレーをするたびにめちゃめちゃ褒めてる。

野球はいくつかのチームをみかけるが、程度の差こそあれ、たいてい酷い。

なんなんだろ、あの差は。たまたま? それとも競技の文化なんだろうか?

お母さんたちの話では、監督やコーチが厳しくても、チームが強ければ子どももそのチームに行きたがるし、親も行かせたがるらしい。

でも、そのチームが強いのは監督やコーチの教え方が上手いからじゃなくて、酷いコーチでも我慢して練習するほど野球が好きな子どもや、そういうのに耐えてでも勝ちたい負けん気の強い子どもが残るからですよ、と言いたくなるが、犬の散歩仲間にそんなことを言っても仕方ない。

だから、自分はできる限り、ベンチから声をかけるのだ。変なおじさんと噂されてもね。

せっかくの休日を子どもの指導に使うというせっかくのボランティア精神も、あんな教え方では台無しです。せめて、この本でも読んで勉強して下さい。


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Aogaku

青山学院大学から感謝状が届きました。昨年度に担当させていただいた応用行動分析学の授業評価アンケートの総合評価が上位30位以内だったそうです。

素直に嬉しいです。

所属大学でFD委員会から諮問されたら「こういう感謝状はもらっても嬉しくないのでは?」と懐疑的に答えていたと思いますが、いざいただいてみるとそれなりに気持ちのいいものですね(こうやって「自慢」もできるし)。

時間差がありますから授業準備や採点や講義中の様々な行動を強化するわけではありませんが、一種の確立操作として、今後の頑張る行動を引き出しそうです(名誉好子消失の阻止)。こういう機能推定は経験してみないとわからないものですね。事前の決めつけは慎まないとならないとあらためて思いました。

後日、「記念品」も届くそうです。ちょっと楽しみ。

青学の非常勤は今年度サバティカルということもあり、昨年度限り。今年度は杉山尚子先生にバトンタッチしています。きっと、さらに高い評価を受けられることでしょう。

感謝状に感謝の倍返しだ!(笑)

追記: 米国では全国を対象にすぐれた教員を選び、奨励するNTOY(National Teacher of the Year)という賞があるそうです。この賞を受賞された Charbonneau 先生らによるシンポジウムンの案内が届いていました。"Educational Leadership" 〜教育の目的とは〜:2013年10月22日(火)18:30〜20:00 東京大学本郷キャンパス 福武ラーニングシアターにて 詳細はこちらから。

 

日本教育心理学会第55回総会のGeorge Sugai 先生による特別講演 『子どもたちが健やかに成長する学校環境』の発表スライドがPBISのwebサイトで公開されました。

オリジナルの英語版に加え、日本語訳版も公開されています。英語版では発表者用のノートも公開されていますので、会場に来られなかった人も、あわせて読むと内容が6割くらいはわかるのではないかと思います(あとの4割は参加者特権ですね  ^^)。

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日本教育心理学会第55回総会準備委員会企画シンポジウム1の発表資料です。

話題提供者の先生方、スライド資料のご提供、ありがとうございました!

『発達・教育支援におけるエビデンスにもとづいた実践』

企画・司会 島宗 理(法政大学) 企画 山本淳一(慶應義塾大学)

11月までには『教育心理学年報』に掲載するまとめを書かないとならないようなので、討論についてはそのときにまたフォローアップします。

日本教育心理学会第55回総会のGeorge Sugai 先生による特別講演の準備がようやく終わりました。PowerPointスライドを日本語にし、渡辺弥生先生と協力して配布資料も別途作成しました。準備しながら、Sugai先生とメールをやりとりして、質疑応答もさせていただきました。役得です。

そのなかで、以前から思っていた、Positive Behavior Intervention and Support (PBIS)の“Positive”って何が“Positive”?っていう疑問をぶつけてみました。

以下がSugai先生の回答です。許可を得て引用します。わかりやすいように意訳しています。

“ポジティブ”という言葉は、(A) 新しい問題行動が生じないように、そして既存の問題行動が再発しないように予防すること、(B) 問題行動の替わりになる、より望ましい社会技能を教えること、(C) 児童生徒の成功と達成を重視すること、(D) 児童生徒がうまくやっているとき、望ましい行動をしているところを日頃からとらえて承認すること、に焦点をあてる取組みに対して使っています(G. Sugai, personal communication, August 7, 2013)。

PBISをどう訳すか決め手がなかったのですが、Sugai先生の回答からは“Positive”が複数の特性に対してつけられた名称の一部であることがわかるので、これは訳さず、固有名詞として扱うべきなんだろうなと思いました。

なお、講演用スライドを事前に読ませていただいた印象は、近年のSWPBISがRTIを統合し、学業支援(学力向上)に力を入れているということです。これは、学校は学校が本来すべきこと(教えること)ができてないときに、その他諸々の問題が生じやすくなるという、私の持論と一致した方向性で、なるほどという感触です。もちろん、スライドだけでは内容はよくわからず、あくまでこの時点での私の推論にすぎないのですがしかありませんが...

あとは講演を楽しみに待つだけです。

(原文)WE USE IT TO REFER TO AN APPROACH THAT FOCUSES ON (A) PREVENTION (PREVENTING THE DEVELOPMENT OF PROBLEM BEHAVIOR OR PREVENTING THE RECURRENCE OF PROBLEM BEHAVIOR), (B) TEACHING SOCIAL SKILLS THAT ARE MORE APPROPRIATE AS REPLACEMENTS FOR PROBLEM BEHAVIOR, (C) THE EMPHASIS ON STUDENT SUCCESS AND ACHIEVEMENT, AND (D) REGULAR ACKNOWLEDGEMENT OF STUDENT SUCCESS AND DISPLAYS OF ACCEPTABLE BEHAVIOR. (G. Sugai, personal communication, August 7, 2013)

なお、日本教育心理学会第55回総会は8月17日-19日に法政大学市ヶ谷キャンパスで開催されます。Sugai先生の講演は、初日の13:00-15:00に予定されています。

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大阪府教育委員会の【体罰防止マニュアル】を読んでいたら、随伴性ダイアグラムを発見。

自傷や他傷をする子どもが、なぜそうするのかを理解するための研修になっているようだ。

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子どもが言うことをきかなかったり、わけがわからないことをやり続けることに"腹を立て"、体罰をする教員がいる限り、子どもの行動の原因を理解する方法を教えるこういう研修は重要だと思う。

ただ、研修で学んだことと、それを実際に現場で使うことには、大きな違いがある。

学校で体罰をなくそうとするなら、現場の随伴性を整えることも同時にやっていくべきだろう。

入試、30年ぶり大改革 学力向上を大学期待(日本経済新聞, 2013/6/7) 文部科学省が導入を検討する新たな全国統一試験「到達度テスト」は高校在校中に複数回チャレンジできることが大きな特徴だ。

個人的には以前から提案してきた方向に一歩前進なので嬉しいニュース。

でも、

  • 文科省が作成するなら、高校ではなく義務教育の「到達度テスト」を作ることが先。
  • それも、PISA型学力ではなく、読み・書き・算術の「基礎学力」とせいぜい一般常識(理科、社会など):9割以上の児童・生徒が「到達」できるテスト。
  • これについては指導要領に即して、各学期、各単元で使えるテストをプールし、教員は無料でダウンロードして使えるようにする(教員がテストを作成しなくてすむようにする/教員の役目は児童生徒がテストを通過できるように教えること)。
  • 同じ問題を繰り返し使わなくてもすむように、ものすごく「多数」作ること(初期投資はかかるが、全国すべての学校で共通に使えて、教員の手間を省け、品質も高く維持できるなら安いもののはず)。

高校については、基礎学力+αの「到達度テスト」でよいと思うが、

  • これについては民間に任せる(諸外国はそうだと思う)。
  • 民間で複数の異なるテストが開発され、大学側がその質を確認しつつ採用することで、競争や品質管理を促す。
  • 特に「+α」の部分は、生徒の得意な分野を延ばす、様々なテストがでてきていいと思う(それこそPISA型学力とか、あるいはコミュニケーションに特化したテストとか)。そうすれば単純な序列化を防ぎ、大学としても多様な学生の受入を積極的に進められる。
  • 基礎学力の問題については、天井効果を避けるために、正答率(正答数)だけではなく、流暢性(正答スピード)も測定すること。

上記の記事には、都立高校の50代の副校長の声としてこんな記事があるが、正直、理解できない。

少しでも良い点数を目指して何度も受ける生徒は多いだろう。生徒も教諭も試験に追われる生活を送ることになりかねない。

少しでも良い点数を目指して「勉強し」何度でも受ける生徒がいるなら、いいことじゃないか。

「生徒も教諭も試験に追われる生活」というが、今はどんな生活なんだろうか。勉強は学生の本業のはずである。もちろん、余暇や部活や友達や家族との時間も重要だが、そのあたりのバランスは学生本人が主体的に決められるはず。そうでないのなら、自立的にバランスの取り方を教えるのも教員の仕事である。

重体の高3男子死亡、サッカーゴール下敷き  千葉県茂原市の県立茂原樟陽高校で、倒れたサッカーゴールの下敷きになり意識不明の重体だった3年の男子生徒が、30日午後2時50分ごろ、搬送先の県内の病院で死亡した(日経産業新聞, 2013/5/31)。

またしても悲惨な事故である。しかし「事故」で片づけてしまってはいけない。サッカーゴールやハンドボールゴールが壊れてたり、落下したり、移動したりして起こる事故はこれまでに何件も発生しているからだ。

文部科学省は2008年に「学校施設における事故防止の留意点について(第一次報告)」の取りまとめを公表している。

国立教育政策研究所のHPからは非常に詳細な報告書がダウンロードできる(「学校施設における事故防止の留意点について(第一次報告)

「課題と対策例」には、サッカーゴール、バスケケットゴール、テントなどの、転倒の危険があるものについては、杭などで固定したり、十分な重さと数の砂袋などで安定させるべしと明記している。

毎日JPの報道によれば「通常は土のうで固定するが、最近は部活動のグラウンド使用のため、移動させることが多く、この日も固定していなかったという。また、校内でもゴールポストの老朽化や腐食を指摘する声が上がっていたという」。

県の教育委員会は高校などに対し、ゴールが倒れないような対策を講じるよう“指導”するというが、これまでと同じように“注意喚起”するだけでは不十分である。

学校は児童生徒や教員にとって「安全」な場所でなければならない。しかし、事故の成り行きがいかに重大、重篤でも、発生確率が低い出来事の対策は、より直近の諸事情(風が強くなるたびに片づけるのはたいへんだし時間がかかる、土のうの移動も労力がいるし、生徒、教員ともにやりたがらない、ゴールポストを固定すると他の活動に使いにくいなどなど)が優先されてしまいがちになる。

天災は忘れた頃にやってくる型の随伴性で行動を制御するのは非常に困難である。そして、“注意喚起”は随伴性を変えない。よって、行動は変わらない。

学校現場の随伴性を、随伴性の真っ只中にいる教員や児童生徒が変えるのも至難の技であり、だからこそ、教育委員会がこの仕事をすべきである。

たとえば、上記の資料にある「課題と対策例」をチェックリスト化し、職員を学校に抜き打ちで派遣し、定期点検を実施し、結果を学校にフィードバックし、不十分なところは対策を求め、対策を約束する行動をそのための予算配置という好子で強化し、あるいは対策が講じられるまではグラウンドを使用禁止にする(好子消失阻止による強化随伴性)。

学校の独立性、裁量性は重視されるべきだが、子どもの命を守るためには、そのためのルールづくりに現場の意見が必ず反映されるという条件つきで、教育委員会がそのくらいの強制力を持ってもいいと思う。

チェックリスト作成(カスタマイズ)には現場の意見を十分に取り入れるべきだし、点検やその後の処置のルールも話し合いで調整すべき。また、こうした仕組みを改善していく手順も内在化しておくべきである。

学校が学校の機能を十分に果たすために、学校現場だけではできないことを補助する仕事こそが教育委員会がすべきことであり、安全確保(これにはいじめや体罰の防止も含めるべき)は最も高い優先順位をつけるべきことだと考える。

“そらパパ”としてネットではよく知られている藤居学氏による療育支援本です。

自閉症児の親御さんが書かれた本にはご家族やご自分のことをリアルに書き綴ったドキュメンタリー風のものが多のですが、本書にはそうしたウェットな話はほとんどでてきません。最後まで読んでも、娘さんの「そらまめちゃん」や奥さまがどのような方なのかはわかりません。

本書の真骨頂は自閉症療育を“新規事業”と見立て、それを運営する“プレイングマネージャー”としての「新しい父親」モデルをわかりやすく、提示しているところです。

発達障害や療育や自閉症やらに戸惑い、お子さんや奥さんやご家族とどのように関わればいいのかわからずにモヤモヤしているお父さんにぴったりの本です。特に会社でバリバリ仕事をされているサラリーマンのお父さんには“プロジェクトのビジョンづくり”とか“チーム編成”とか“リソースの最適化”とか、馴染みのある言葉や考え方がどんどんでてくるので馴染みやすいはず。

お子さんに障がいがあるとわかったときに、

単に「人生のリターン」が減少したというよりは、
むしろ人生という「幸せへの投資」の性格が、
より「ハイリスク・ハイリターン」な方向にシフトした
ととらえるほうが適切です(p. 40)

という助言は“そらパパ”さんならではと感心しました。

具体的な療育法としては、主に、TEACCH、ABA、絵カード療育法(PECS)の3つが紹介されています。現在、ご家庭で療育をされている方には、このパターンをミックスしている人が多いのではないかと思われます。記録をとって、記録をもとに療育を進めるべきとしているところも信頼できます。

一つ心配なところ:本書に限らず、"ABA"(Appied Behavior Analysis:応用行動分析学)が「療法」や「技法」と勘違いされることが増えているような気がします(あるいはロバースらのプログラムやその派生したものを"ABA"と呼んでしまっている人もいます)。

"ABA"は「応用行動分析《学》」。《学》というところが大事で、一つの学問体系です。発達支援は応用行動分析学における大きな一領域ではありますが、すべてではありません。

本書には

「療育法としてのABA」では、いまある姿は「望ましいものに変えていくべき状態」と位置づけられるわけです(p.117)。

とありますが、これは、おそらく、

ABAにもとづいて開発された療育プログラムは、ご本人や保護者、関係者の要望にもとづいて、ご本人の、そして周囲の人たちの行動を変えていくものが多い。

とした方が正確だと思います(ちなみにPECSもそうしたプログラム/システムの一つです)。

ABAを名乗るセラピストすべてが「自閉症」という障がいを「望ましいものに変えていくべき状態」としかみなさず、ご本人や保護者、関係者の要望を無視して、何がなんでも変えようとする人たちであるという誤解がないようにしないとならないですね。そういう人が実在したとしても、それは応用行動分析学とは関係ないということも強調しておきたいです。

『家庭で無理なく楽しくできる生活・学習課題46―自閉症の子どものためのABA基本プログラム』は低学年の指導(就学前から小学校くらい)、『高機能自閉症・アスペルガー症候群への思春期・青年期支援―Q&Aと事例で理解する』は中学、高校、大学での支援に使えそうな本です。

「家庭でできる」とありますが、学校での指導にも十分使えそうです。保護者と教員が連携しながら、学校で教え、家庭で般化させといった展開に使ってみたらどうでしょうか。領域別の課題、指導のコツなどが豊富です。

発達障害をもった学生への支援について、ようやく大学における取り組みも始まりましたが、本書では、中高、大学でありがちな問題やその対応についてわかりやすく解説してあります。「恋愛支援」とか、とても興味深いですね。

高機能自閉症・アスペルガー症候群への思春期・青年期支援―Q&Aと事例で理解する 高機能自閉症・アスペルガー症候群への思春期・青年期支援―Q&Aと事例で理解する
井上 雅彦 井澤 信三

明治図書出版  2012-01
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それにしてもめちゃくちゃ仕事してますよね、井上先生。 ご自愛下さい。

不思議本です。

著者のプロフィールには「ABAセラピー」とあるし、第5章「困りごとへの対応法」には、機能的アセスメントの話とか、代替行動の強化について書いてあるし、トイレットトレーニング(本書では「トイレトレーニング」となっています)や共同注視の指導にもふれているのだけれど、そうかと思えば、以下のような意外な展開もみせてくれます。

「瞳はこころの窓だから、瞳を見ていれば、お子さんが今どんな気持ちなのかが伝わってくるんです」(p. 36)

「まだ一語文の段階のお子さんの場合、単語一語ずつ、ゆっくり丁寧に伝えて、言われたことの意味をはっと気づけるようにします」(p. 46)

「ことばはなんのためにあるのでしょう? (中略) たとえ発音ができて、なにかフレーズを発することができても、そこに伝えたい気持ちがなければ、ことばはことばとしての本当の意味はないのではと思うのです」(p. 117)

行動分析家だったら、まず書かないと思うのですね、こういうことって(苦笑)。

米国では"Let me hear your voice"でロバースのプログラムが世に知られるようになり、一躍"ABA"セラピストがひっぱりだこになりました。ところが大学でいくつか授業をとっただけのような人まで"ABA"の名を語るようになってしまいました。フロリダ州で始まったBACBという資格認定システムが全米に広まって行ったのには、悪貨が良貨を駆逐するような事態にならないようにという配慮もあってのことでした。

とはいえ、BACBも、所詮は実習を含む修士課程修了+筆記試験で取得できる資格です。療法として行動分析学的な手法を学んだだけの人—元々の意味とはちょっと違いますが、いわゆる“方法論的行動主義”の人—でも取得できる資格です。もっといえば、BACB取得者=徹底的行動主義ではありません。

もちろん、徹底的行動主義者のセラピストの方が方法論的行動主義のセラピストよりも、セラピストとしての腕がいいということを示すようなエビデンス(RCT的な)はありませんが、私が知っている凄腕のセラピストは、全員、徹底的行動主義者です。「主義者」というのが語弊があるなら、クライアントの行動すべてを機能的に分析し、環境を変えることで行動を変える方法をみつけることにコミットしている人たちです。つまり、クライアントのためにも、精神主義に陥ることを徹底的に排している人たちです。

教育、療育、臨床サービスの全体的な底上げや、最低限の質の保証には資格システムが役に立つ可能性がありますが、理想解ではない。そのことを認識しておく必要があると思います。

などなど。 色々、考えさせられました。

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応用行動分析学に基づいた療育プログラムに関する訳書を2冊(偶然か?どちらも明石書店から)。

『親と教師が今日からできる 家庭・社会生活のためのABA指導プログラム―特別なニーズをもつ子どもの身辺自立から問題行動への対処まで―』は、題目にもあるように、身辺自立やトイレ、家事手伝い、遊びなど、生活重視の包括的なガイドブックです。わかりやすく、事細かにプログラムが書かれている良書で、訳も読みやすいです。

親と教師が今日からできる 家庭・社会生活のためのABA指導プログラム―特別なニーズをもつ子どもの身辺自立から問題行動への対処まで― 親と教師が今日からできる 家庭・社会生活のためのABA指導プログラム―特別なニーズをもつ子どもの身辺自立から問題行動への対処まで―
ブルース・L ベイカー アラン・J ブライトマン 井上 雅彦監訳

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『ABAプログラムハンドブック―自閉症を抱える子どものための体系的療育法―』は、先日紹介した「スクールシャドー」のようなインクルージョンプログラムについても書かれている本です。そういう意味では貴重な本なのですが、翻訳が弱い。誤訳もあります(致命的な誤訳も)。原著は悪くない本だと思うので残念です。元々の内容をかなり正確に推測しながら読まないと厳しいかも(でもそういう人なら最初から原著を読むよね)。

ABAプログラムハンドブック―自閉症を抱える子どものための体系的療育法― ABAプログラムハンドブック―自閉症を抱える子どものための体系的療育法―
J.タイラー フォーベル 平岩 幹男

明石書店  2012-03-06
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「スクールシャドー」という言葉を、私はこの本で知りました。特別な支援が必要なお子さんに付き添って学校に行き、学習支援や生活支援をするサービス形態です。出口は計画的フェードアウト。

モデルとしては、いわゆる「支援付きインクルージョン関連記事)」と同じようです。

ただ、支援付きインクルージョン("assisted inclusion")をPsycINFO/PsycARTICLESで検索しても、ほとんどヒットする文献がありません。スクールシャドー("school shadow")に至っては探しても文献が見つかりません(もしかして吉野先生の造語なのでしょうか?)

上記の関連記事にあるように、何年か前のABAIでは事例の発表があったので、研究というよりは実践が先に進んでいるのかもしれませんね。

日本でどのように浸透していくか、楽しみです。


自閉症児の親御さんが執筆された本を2冊紹介します。

『「ママ」と呼んでくれてありがとう』はまさに日本版の『Let me hear your voice』(わが子よ、声を聞かせて―自閉症と闘った母と子)です。お子さんが自閉症であるとわかったときから、ABAに出会い、療育を進めていくお母さん(と家族)の姿が描かれています。

診断や療育支援機関の不備や周囲の無理解や誤解、障害を受容することの難しさなど、同じ環境にいるお母さんたちにとって、共感できることがいっぱいあるのではないかと推測します。

あとがき的解説で井上雅彦先生が書かれているように、所々、え、大丈夫かなというところもあり、専門家のスーパーバイズなしに療育が進められていくときの危険信号も感じながら、それでも、お母さんが療育ママとして育っていく様子が目に浮かぶようで、感動しました。

こちらはお父さんが書かれた本です。かなり不思議な本。特に前半と最後はよくわかりませんでした。でも、私が個人的に知っている療育パパに共通する雰囲気は感じます。それは、とにかくよく調べ、勉強し、納得しながらでないと療育も進めないというところです。それが良いか悪いは別にして、療育パパにとっては(あるいは旦那さんが療育にまったく非協力的で日頃から不満がたまっている療育ママにとっても?)一読の価値があると思います。

リカと3つのルール: 自閉症の少女がことばを話すまで リカと3つのルール: 自閉症の少女がことばを話すまで
東条 健一

新潮社  2013-02-18
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読もう読もうと思いながら先延ばししていた本を読むのもこの一年間の目標の一つ。『日本語で読める行動分析学』も更新していきます。

まずは谷晋二先生の『はじめはみんな話せない-行動分析学と障がい児の言語指導』。一般読者にもわかりやすく書かれてはいますが、内容は専門書です。行動分析学における言語指導の研究を振り返ってまとめてあります。具体的な指導プログラムも豊富です。

HIROCo法という、日本で独自に開発された、今から考えるとPRTとも共通する指導法の紹介があると思えば、ACTを家族支援に使うという、新しめのアプローチも提案されています。

応用行動分析学で言語指導をする人たちにとっては必読書の一つになると思います。

はじめはみんな話せない-行動分析学と障がい児の言語指導 はじめはみんな話せない-行動分析学と障がい児の言語指導
谷 晋二

金剛出版  2012-09-28
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体罰の機能的分析について書こうとしたら既視感覚。検索したら「体罰」ではなく「しごき」について昔に書いた記事が見つかった。

それから、しごきや体罰を使わずともチームを勝利に導ける科学的指導法の話も、

「しごき」を「体罰」に置き換えてもほぼ同じことなのでリンク紹介するだけにします。

ただ、今回の話(高校や女子柔道)を読み聞きしていると、体罰を与える一人の指導者と体罰を受ける一人の選手という関係性以外に、たとえば部活の部員間の随伴性(「全員が一緒に「耐える」という形でネガティブなコーピングしていたり、あるいは「あいつ、静かにしてろよ」という形でプレッシャーをかけていたり」)や、代表やレギュラーへの選考がかかる形でパワハラの構造になっていたり(選手は指導方法に疑問を持っても他の指導者を選択できない)、「しごき」や「体罰」のような旧態依然とした指導が継続している背景には、集団随伴性や組織内の行動システム的変数も関与していることがわかる。

それにしても元有力選手がそれだけの理由で指導者や協会の要職について支配を続けるというのは、ほんとうに弊害だ。選手として必要な知識や技術と、指導者に必要な知識や技術はそもそも別なのだから、異なる指標で評価し、採用しないとね。サッカーではコーチや監督が資格制度になっているようだが、うまく機能しているのかな。

子ども向けスポーツは、部活ではなく地域のスポーツクラブに活動拠点が移行していけば、「しごき」を「体罰」するところには人が集まらなくなり衰退していくことも期待できそうだけど、どうなんだろ。たとえば、水泳はほぼそうなっているのではないだろうか?。ただ、これだけだと子どもの家庭の経済状況によって機会均等ではなくなるという批判も生まれそうだ。それなら、いっそ学校でのスポーツ指導は教員ではなく、外部の有資格専門家を雇うことにして、かつ、子どもや保護者からの評価によって雇用を継続するかどうか決めたらどうだろう?

もちろん、評価は無記名で。

今回告発した女子柔道選手たちの名前を公表するように言っている政治家がいるようだが、愚かである。国会議員のリコール制度があるなら1票投じるぞ。

 「発達障害児のためのABA早期療育の現在」でも会場から質問がありましたが、「どんな行動を教えるべきか」は発達臨床や教育において常に問題になるテーマです。徳島ABA研究会のスタッフの間でも、サマースクールの教材開発や事例研究の助言に取り組みながら、「この子に今何を教えるべきか」を考えて決められる力を先生方につけてもらうにはどうしたらいいか、ここ数年ずっと話し合ってきています。実際、教えるべきことさえ具体的な行動として決まれば、そしてそれが現実的な指導目標であれば、どのように教えるか考え、決めて、実行するのは、行動分析学を学んだ先生たちにとってはそれほど難しいことではありません(もちろん、簡単なことではありませんが)。教え方や記録による教え方の改善についてはここ10年の教材開発で「かなり教えられる」という実感が得られるようになりました。しかし、子どもたちに教えるべきことを見つける力の方は、先生たちには遥かに教えにくいというのが私の実感でもあります。

 学校教育の通常教育では国のカリキュラムが決められています。教科書も決まっています。何年生の何学期のどの教科で何を教えるのかはすでに決定済みです。教員が何を教えるべきか考える余地はほとんどなく、だから教員養成課程でも、子どもに教えるべきことの決め方については全くと言っていいほど教えられていません。「考える力」のような曖昧な指導目標を曖昧なままで押し付けられることはあってもです。

 ところが特別支援教育では、基本的に、何を教えるべきかはそのお子さんによって異なります(本来は障がいがないお子さんだってそれぞれ個人差がありますから、正確に言えばお子さんごとに教えるべきことも異なるはずなのですが。これはさておき)。目の前のお子さんの教育的ニーズを直接観察や各種アセスメント(発達検査や知能検査など)、保護者との話し合い、生態学的アセスメントなどから導きだしていくことで、多くの場合、限られた時間と機会で教えられる以上の教えたいことがでてくるとしても、それは一体「どれから」教えるべきかについては、直観や先生や保護者の要望によって決められているのが現実だと思います。なんとなくだけど、こっちを先に教えて欲しい、教えたい、教えた方が楽そうなどなど。

 行動分析学には"behavioral cusps"という概念があります。"cusps"とはものすごく和訳しにくい英語で、もしかしたらそのせいでこの概念が日本ではあまり流通していないのかもしれませんが、ここでは「萌芽的行動」と訳してみます。あまり妥当な訳だとは思っていません。特にTEACCHにおける“芽生え”反応とは意味が違うので注意が必要です。

 「萌芽的行動」とはその行動ができるようになることによって、それまでには経験できなかった新しい環境にふれることができるようになる行動です。新しい環境とは、新しい好子や嫌子、新しい行動随伴性、新しい刺激性制御、新しい強化共同体などですが、要するに、そうした新しい環境と接触することで、その行動の学習がその学習だけでは終わらずに、次の学習へと展開していく行動ということになります。元々は故ドン・ベアー先生によって提唱された概念です(Rosales-Ruiz & Baer, 1997)。たとえば、ハイハイをしていた赤ちゃんが立って歩くようになると(「立って歩く」が萌芽的行動の例です)、おもちゃを自分で探したり、取りに行ったり、お母さんやお父さんの後を追ったり、つまづいて転んだり、それによってより注意深く歩いたり、足下をよく見たりと、様々な学習がほぼ自動的に起こるようになっていきます。つまり、「立って歩く」という行動はそれだけに留まらずに、様々な新しい行動が形成されていくきっかけとなる、これを「萌芽的行動」と呼ぶわけです。

 Rosales-Ruiz & Baer (1997)は発達臨床の実践のためにではなく、子どもの発達を行動分析学からどのように考えるべきかについて書かれた論文です。一般的な発達心理学では、発達の「段階」として、認知的な構造をもった説明概念と共に記述されることが多い行動の時系列的なつながりを、行動随伴性を使った機能的な解釈で置き換えることを念頭においていた伏があります。この方向性はやがてSchlinger(1995)の"A Behavior Analytic View of Child Development"という本で包括的にまとめられることになります。一方で、Bosch & Fuqua (2001)は、Rosales-Ruiz & Baer (1997)のアイディアを採用し、さらに発達臨床にとって重要ないくつか別の視点も追加して、標的行動を選択するさいの基準をまとめています。それらは、1) 萌芽性(上記の萌芽的行動のこと)、2) 生成性(上記の萌芽的行動と類似していますが、新しくできるようになる行動がそれ以降に自動的にできるようになる行動の下位行動となるという制限がついてます:例;文字が読めるようなると、自動的に単語が読めるようになる可能性がある)、3) 望ましくない行動と両立しない行動である(ゆえに、新しい行動がレパートリーとなることで望ましくない行動の頻度が減る可能性がある)、4) その行動を学ぶことでどれだけたくさんの周りの人にどれだけ重要に影響するか、そして、5) 社会的妥当性の5つの視点(あるいは基準)です。

 もちろん、こうした視点や評価基準を用いても、なんたら公式の様に、指導目標の優先順位が客観的に算出されるわけではありません。Rosales-Ruiz & Baer (1997)も、何が「萌芽的行動」となるかは子ども次第、状況次第であり、事前に予測することは困難であると指摘しています。しかしながら、たとえば個別の指導計画を立案するときに、保護者と教員が相談するときに、こうした視点や基準を共有していれば、少なくとも、発達的に、あるいは子どものQOLにとってほとんど意味をもたないような指導目標を設定してしまう危険は避けられることでしょう。

 何が「萌芽的行動」となるかは子どもによって異なる可能性がありますが、Hixson (2004)は比較的共通して「萌芽的行動」となりうる行動クラスを機能的に分類してまとめています。

 このあたりの研究はあまり進んでいません。Baer先生やSchlinger先生が狙っていた「段階」理論の行動分析学的解釈も、随伴性が萌芽的行動やその後の自動的な学習の展開を制御しているかどうかを実験的に解明しないと机上の理論でしかなくなってしまい(その意味では一般的な発達心理学の理論と変わりないことになってしまう)、しかしそうした実験が倫理上、実施できないという縛りがあるというのが現実です。それでも発達臨床において大規模な介入研究が進めば、あるいは世界中の介入データをビッグデータ解析のような手法を使って分析すれば、知的障害や発達障害がある、どのような子どもたちにどのような行動を教えれば、それが萌芽的行動として機能するようになるか予測できるような研究が今後でてくる可能性はあると思います。

引用文献

Bosch, S., & Fuqua, R. W. (2001). Behavioral cusps: A model for selecting target behaviors. Journal of Applied Behavior Analysis, 34, 123-125.

Rosales-Ruiz, J., & Baer, D. M. (1997). Behavioral cusps: A developmental and pragmatic concept for behavior analysis. Journal of Applied Behavior Analysis, 30, 533-544.

Hixson, M. D. (2004). Behavioral cusps, basic behavioral repertoires, and cumulative-hierarchical learning. The Psychological Record, 54(3), 387-403.

Schlinger, H. r. (1995). A behavior analytic view of child development. New York, NY US: Plenum Press.

現在、モーレツに忙しく時間がとれないのですが、いじめ予防プログラムに関する取材の申込みをいくつか受けました。そこで提供した情報をここに書込んでおきます。

まず、米国にはいじめから子どもを守るための法律が州ごとに整備されつつあります。各州の条文へのリンク、並びに第三者機関による評価が開示されているサイトがあります。

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A Watch-dog Organization - Advocating for Bullied Children & Reporting on State Anti Bullying Laws

少し古い(2001)のですが、Surgeon Generalによるレポート(Youth Violence)には、その時点でのいじめ防止プログラムの効果についてエビデンスが検証され、報告されています。ただし、いじめ防止プログラムはこのレポート全体のごく一部でしかなく、また、確実に効果のある「モデル」となるプログラムはまだないというのが結論です。その中ではノルウェーで開発され、世界各地で導入されている「オルヴェウスいじめ防止プログラム」が最も展望がありそうだ("promising")と評価されています。

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「オルヴェウスいじめ防止プログラム」には様々な要素がありますが、いじめられた子どもによる報告行動を増やすこと、そしてその報告を強化、維持するため、教員が必ず(管理職も含めた学校全体で)それに対応する(朝礼での訓示というレベルだけではなく、いじめた子どもに聞取りをしたり、場合によっては校長室へ呼び出すなどの指導をしたり)ことを子どもに対して約束し、実行するところが要ではないかと私は考えています。エビデンスとしては、確かにいじめを報告する%は減るのですが(平均30%減とうたわれています)、ゼロにはならない。でも「誰も助けてくれない」という状況をできるだけ作らないという点では大きな社会的妥当性があるのではないかと思います。いじめはそれを放置する大人の責任という理念には共感し、同意します。

学校全体で行動改善に取り組む、School-Wide Positive Behavioral Supportでも、SWPBSのシステムの上に、いじめの防止や低減のためのプログラムを追加する試みが始まっています。

Pbislogo

いじめをする行動は、いじめられている子どもの反応や周りの傍観者の反応により強化されているのではないかという仮説から、いじめられたら、まず「やめて」と言い(ジェスチャーでも示し)、その場から立ち去り(はむかったり、耐えたりせずに)、教員などの大人に報告するという、「STOP、WALK、TALK」の一連の行動を子どもたちに教え、その実行を強化するプログラムです。傍観者にも適用され、いじめられている子どもをみたら、いじめている子どもに「やめろ」と言い、いじめられている子どもをその場から逃がし、先生に報告させます。

このプログラムは下記の研究でその効果が確認されています(以下のリンクから論文をダウンロードできます)。アンケートではなく子どもの行動の直接観察による研究です。

Scott W. Ross & Robert H. Horner. (2009) Bully prevention in positive behavior support. Journal of Applied Behavior Analysis, 42, 747-759.

さらに、この「STOP、WALK、TALK」の研修資料も公開されていて、無料でダウンロードできます。

Bp

http://www.pbis.org/school/bully_prevention.aspx

このプログラムでは「いじめ(bully)」という言葉がでてきません。SWPBIで設定される「他人を大事にしよう」という大目標の一部に位置づけ、色々な場面での具体例を数多く提示することで「いじめだかどうだかわからない」という解釈の罠にはまらないようにしているようです。

大津での事件発覚から、おそらく日本各地の学校でいじめ問題に関する見直しが進むと思われます。子どもたちにアンケートをとって校長先生や学級担任から訓示する、ただそれだけで終わらないように、より積極的、組織的に、また、いわゆる"専門家"の個人的な見解ではなく、エビデンスにもとづいて、子どもたちを守るプログラムが導入、開発され、学校が少しでも楽しく、学びがいのある場になっていくことを、今回こそ期待します。

Studynote_3

以前にもご紹介した"夢をかなえる学習支援システム:スタログ"が、SNSとして完全リニューアルされました。

これまでスタログを活用して下さったユーザーの皆さまからの声を最大限に活かして、数々のバージョンアップがなされています(「学び手は常に正しい」ですね)。そして、"みんなで勉強する"というソーシャルな随伴性が組み込まれました。もちろん、FacebookやTwitterなどとも連携できます。

ソーシャルな随伴性というのは、同じ目標に向かって勉強している人たちの進み具合をみて奮起したり、「いいね!」をもらって励まされたりすることもあれば(確立操作や好子出現による強化モドキ)、どんな教科書や問題集があるのか、どんな勉強方法がいいのか、心が折れそうになったときどうすればいいのか等々、色々なハウツーが共有されていくということでもあります(オペランダムやルールやモデリングなどなど)。

クラウドスタディの廣瀬社長はこうした情報システムを使えば教育格差の解消につながるという信念をもって起業されました。私もその信念に100%同意し、だから応援しています。

今年度から、うちの博士ゼミは社会人の大学院生が3人になりました。それぞれ忙しく仕事をしながら研究を進め、博士論文を書いています。職場も日本各地(?)に散らばっているので、顔をあわせて話し合う時間をとるのはかなり難しく、ぜひこのStudynoteを使ってみようと考えています。

そのうち研修もこれでやってみようかな(パフォーマンスマネジメントの研修 IN Studynoteとか)。

というわけで、以下、自分なりのキャッチコピーを考えてみました。

勉強ってそもそも楽しいことなの? そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。だけど、勉強を続けられるかどうかは、楽しいかどうかとは関係ないかもね。

夢という目標と、一緒に進む仲間がいれば、きっと続けられる。必要なのは随伴性に飛び込むことだけ。


字余り? (^^)

Photo

 このたび法政大学大学院人文科学研究科心理学専攻では、近隣の学校でご活躍されている教員の方々に向け、標記の公開講座を開催することにいたしました。

 近年、睡眠や食生活の乱れ、学力や運動能力、対人関係能力、危機管理能力の低下など、子どもたちのライフスキルの低下が指摘されています。幸せに生きるための基礎力をつけさせることが、現代の学校教育に期待されていると言っても過言ではないでしょう。本講座では、認知心理学、発達心理学、言語心理学、精神医学、行動分析学、運動生理学などの諸研究をご紹介し、学校や家庭、地域で取り組むことができる教育プログラムをご提案します。最新の研究成果を、授業や生活指導に取り入れていきたいと考えておられる小中高、特別支援学校の先生方の参加をお待ちしております。

 

日 時:2012年4月15日(日)13:30-17:00
会 場:法政大学市ケ谷キャンパス  富士見坂校舎F-309教室
     http://www.hosei.ac.jp/access/ichigaya.html

参加費:無料(定員先着70名)

 *webにて予約状況をご確認の上、メールにてお申し込み下さい。定員に達し次第、申込みを終了します。

*本講座のポスターはここからダウンロードできます。

[WorkItOut!!からの引越し案内]

奥田健次先生もコンサルでいまだに活用してくれているというチェックリストです。



日本語版PIRK: 就学前児向け行動査定リスト

ニューヨークにあるフレッド・ケラースクールという学校で使われている、就学前児童のための行動査定チェックリストの日本語版です。個別指導計画の作成などにご参照下さい。

続きはこちらから。

Edomodo

 米国でも(?)教員がネットワーク経由で学生にハラスメントをする問題が頻発しており、州や学区によってはFacebookやTwitterの登録や利用を禁じたり、教員と児童生徒がメールや携帯のショートメールでやりとりすることを禁止しているところがあるそうな。

 それでも、資料を配布したり、より細かなQ&Aをしたり、もっと勉強したいと思う生徒にさらなる情報を紹介したり、生徒同士での助け合いの場を設定したりするのに、やはりSNSは便利。

 ということで学校での利用を念頭において、無料で提供されているSNSを発見(現地のニュースで紹介されていた)。

 edomodoは教員と生徒が別々にアカウントを登録する。教員と生徒では個別のやりとりができないようになっている。インターフェイスは青基調のデザインも含めてFacebookに似ている。教員からの評判は上々のようだ。

こんなのが永続的に無料で提供されるなら自分でmoodleのサイトを維持しなくてもいいかもしれないが、どうなんだろ。いずれ有料化されちゃうのかな。 

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 米国では心理学の本としてかつてないほど話題になった『The Bell Curve』。パンドラの箱を開けるような内容のため批判や非難が殺到し、結局は誤解や無理解に埋没してしまった感がある。
 日本ではまったくと言っていいほど取り上げられなかったようだが、気になって買ってはあった(行動分析学では大御所であるHerrnstein先生がどうしてこのような本を書かれたのかということにも興味があったし)。でも、872ページもある分厚い本で装丁も聖書みたいで、読もうという気持ちにまったくならず、手つかずのまま研究室の本棚に埋もれていた。
 3.11の地震で本棚から大量の本が落下したときにその存在を思い出し、そして教授会で成績の付け方が議論になったことで(ナント絶対評価ではなく相対評価に逆戻りするようなハナシ)、あらためて読んでみた。
 とは言っても、こんな本をすべて読むにはとてつもない時間がかかりそうなので、著者が薦めるように、まずは各章の概要だけ、およそ30頁ぶんくらいを読んでみた。
 その内容はTwitterでつぶやいた(部分的に訳したり、メモしたり)ものを、下記のページにまとめてみたので、興味のある人はどうぞ(推敲もしていないので誤訳や誤字脱字満載のところはかんべん)。英語が読める人は、Wikipediaにこの本の内容とその後の批判・非難・支持など、議論の推移についてもよくまとまっているので参照するとよい(記事)。
 「知能」に関する心理学の専門家からの見解は、この本が世間を大きく騒がせたためにAPA(アメリカ心理学会)が特別委員会を設置してまとめ、公開している("Intelligence: Knowns and Unknowns"←現在APAのサイトからはダウンロードできないようだが、タイトルでググればどこかからPDFをダウンロードできます)。APAの見解はおおよそこの本の内容を支持している。ただし、白人と黒人のIQの差が「人種」によるものなのかどうかはわからない(証拠は少ない)としている。
 自分の興味は「知能」(この本では「認知的能力」としている)のうち、遺伝的に決定される因子が、どれほど学習や学業、仕事上のパフォーマンスに影響するのか、もしくはそのように考えられているかということだった。なぜなら、成績を相対評価すべきと考えている人たちは(そのように意識的に考えているのかどうかは別として)、どのように教えても、どのくらい学ぶかは、結局、学び手が元々持っている能力(「知能」や、もしかしたら「動機づけ」も含めて)によるのだと信じているのではないかと疑われるからだ。
 確かに、もし学業上の成績や仕事上のパフォーマンスが100%、認知的能力によって決まるのであれば、認知的能力が標準分布する限り(ちなみに「Bell Curve」とは釣り鐘をかぶせたような標準分布の形のこと)、成績を相対的につけるのにも一理ある。ただし、その場合、成績とは自分(教師)がどれだけその授業で教えられたかではなく、単純に、学び手が授業とは無関係に持っている能力を測っているだけ、ということになる。
 この本では認知的能力のうちおよそ40-80%が遺伝的に決まっているとしているが、上記のAPAの見解ではIQと成績の間の相関は0.5くらい(IQで成績を説明できるのは25%)である。つまり、確かに、学び手が元々もっている能力は、教え手が教えようとすることをどのくらい学ぶか(学べるか)に影響するが、それがすべてではないということになる。教え手が工夫することで、学びを増やす余地は十分にあることになる(よかった、よかった)。
 もちろん、大学教育に対する批判としてよくあるものに、学生が到底理解できないような難しい内容を、学生のことはおかまいなしで教えている(教えられていないのだが、それは学生のせい)ということもある。持って生まれた(あるいは大学に入学するまでに学習した)認知的能力に個人差があるのはあたりまえのことで、逆に、そのことに見て見ぬ振りをしたり、みな同じはずだと無謀な思い込みをせずに、そうした個人差を考慮した授業づくりや指導の方法を考えて行くべきなのだ。
 そうしたもろもろの工夫の結果、成績がどのように分布するかは、分布がそうあるべきというより、事実としてそうなったと捉えるべきであって、それを無理矢理、大学の方針として、相対評価で成績をつけてしまうことには大反対なのであった。
 ちなみに、今年度前期の「行動分析学」の授業ではほぼ毎回webテストを実施している。これまでの10回ぶん(満点94点)の成績分布は下のようになる。この授業ではプロジェクトを重視しているので、成績に占める割合はプロジェクトのレポートが40%、webテストと授業内課題があわせて60%で、テストが全体に占める割合は30%前後。でも、全部あわせてもだいたい成績の分布はこのようになる。授業を1-2回受けてみて(どれだけテストや課題が多いかわかって)受講しなくなる人たちがまずいて、残った人たちから脱落する人たちが若干いて、あとは教えようとしていることをしっかり学ぶ人たちと、80%くらい学ぶ人たちに分かれる。最後の2グループの差はおそらく動機づけ(授業の内容にどれだけ興味があるか、あるいは部活など他の活動に時間をとられているか)の違いではないかと踏んでいる。
 絶対評価をすると、しっかり学んだ人たちはAもしくはA+、そこそこ学んだ人たちはAもしくはBということになるのだが、相対評価にして決められた割合で成績を振り分けることになると、場合によってはそのようなことが難しくなる(幸い、自分の授業の多くは初期のドロップアウトが多いためみためはそうならないが)。
 要するに、どのような内容をどのように教えていて、どのように評価しているのかを明確に説明する、そのことで説明責任を果たす。それが大事だと考える。

 

Webtestscores

Twitterでつぶやいたぶんは「続き」に

Reparenting

エプシュタイン先生(Dr. Robert Epstein)といえばスキナー先生の直弟子さんで、ハトを被験体にして、自己認識、洞察、コミュニケーション、卓球などを題材に、いわゆる「認知」と言われているものを解き明かそうとしたコロンバン・シュミレーション(Columban Simulation)で知られていますが、最近は恋愛心理や親子関係などの研究も手がけ、メディアにもよく登場するポップな心理学者としての姿の方が有名かもしれません。

そんなエプシュタイン先生の親子関係に関する最近の研究では、子どもの幸せは、親のしつけに関するスキルよりも、親同士がどれだけ仲がいいかによって決まってくるという結果が示されたそうです。

なるほど。これは納得。

Scientific American: MIND (Nov-Dec, 2010)に掲載された記事の紹介と記事そのものはここで閲覧できます。また研究に使われた質問紙の項目(webアンケート)もここで閲覧できます。

上記の記事では親の行動マネジメントのスキルが子どもの発達によい影響を及ぼすとは言えないという結果についても正直に「告白」(?)されています。

webアンケートで親が自己評価したデータですから、親の持つ理想的な子育て観の平均値が反映されているものだとみなすこともできると思われますが、自分の子どもの頃のことや、自分の友人の家庭をみる限り、親同士の関係が子どもの発達に影響することには間違いはないでしょうね。

新指導要領で公立校「授業時間増やす」「標準以上」小学の5割超教員が不足、多忙に(日本経済新聞, 朝刊, 2011/3/10)

 という記事で引用されていた、ベネッセ教育研究開発センターの調査報告書を読んでみた(第5回学習指導基本調査(小学校・中学校版)ダイジェスト)。

平日、学校にいる時間は約 11 時間 30 分、 家での仕事時間は依然長いものの減少傾向。小学校教員が学校にいる時間は 07 年調査に比べ 17 分長くなっている(11 時間 29 分)。その一方、 家での仕事時間は約8分減少している(67.9 分)。土日の平均出勤日数は 1.7 日で、教職経験年数が短いほど出勤日数が多い。

 データを見る限り、新指導要領の導入以前からすでに教員は多忙であり、導入によってさらに悪化しそうな傾向である。

 それでも、教員生活には8割弱の教員が「とても満足している」もしくは「満足している」と回答しており、なんと仕事熱心な人たちなんだろうかと感心してしまう。

 しかし、他の調査などで、うつになる教員やそれが原因となり退職したり、自殺してしまったりする人の数が多いことからすると、まさか「“満足している”と応えるべきである」などと考える真面目すぎる人も多いのではないかと心配してしまう。

 学校での長時間労働について、このところ何人かの先生たちと話をしているけど、どうやら、多くの場合、長い時間働いたぶん、それがそれだけ子どもの学習や成長に結びついているというわけではないようだ。

 理由はわからないけどずっとその学校ではやっているから続けている仕事とか、他のリソース(たとえば子どもと一緒にするなど)を使えば教育効果も期待できて教員の仕事も減りそうなことを教員がやっていたり、単純に他の先生がまだ学校に残っているから自分も帰りにくいなど、学校特有の随伴性が見受けられる。

 先日、授業コンサルに行ってきた、福島大学附属中学校では、白石豊校長先生がリーダーシップを発揮して、それまで朝の3-4時まで残業していた先生たちの仕事の仕方を、夜の7-8時には帰宅できるように変えたそうだから、これは不可能なミッションではない。

 先生たちのメンタルヘルスのためにも、子どもたちのためにも、ぜひとも、学校での働き方を見直すべきときに来ていると思う。

 大学院ゼミで対応法則(Matching Law)関係の論文を発表した研修生が何やら不安そうだったので、ゼミ生全員に聞いてみたら、なんと高校で「対数(log)」を勉強してこなかった人がほとんど(つか、全員)。

 調べてみたら、現在の指導要領では確かに対数は「数II」で教えることになっていました(もしかしたら昔も)。だから文系一路で進学してきた学生さんは、対数をまったく知らなくても仕方がないのですね(そういう意味では微積も)。

 実験実習で精神物理学の話をしていて、人間の感覚の大きさは物理的な大きさのベキ乗に比例するんだよ。だから、実験結果がこういう曲線になっても、片側に対数をとると、ほら、直線になって、刺激の物理的大きさから人の心理的反応が予測できちゃうんだよ、てな話をしても、どうりでピンと来ないわけです。

 学部生のときに、物理学の世界と心理学の世界を数式でつなげられることに感動してしまった自分としては、その感動を分かち合いたいんだけど、こりゃ無理な話だわな。

 さらに、なんと「高次方程式」や「座標や式を用いて直線や円などの基本的な平面図形の性質や関係を数学的に考察し処理する」、「点と直線」、「点の座標」、「直線の方程式」も数IIです。てことは、回帰直線、重回帰分析なんかも、きっとピンときてないんじゃないでしょうか。

 学部生・大学院生ともに、先習スキルを知っておくという意味では、大学における心理学教育に照らして学習指導要領を分析しておくっていう作業が必要そうですね。

 もちろん「指導要領に載っている」=「学んだ」=「維持してる」という夢の等式は成立しないことは重々承知ですが。

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長崎大学で開催された特殊教育学会の年次大会からちょっこり抜け出して、平和公園と原爆記念館に行ってきました。

恥ずかしながら長崎に来たのはこれが初めて。原爆記念館の資料をけっこう丹念に読みました。

驚いた、というより、あぁそうなんだと認識したのは、資料や解説が、事実に基づいて、極めて客観的に作られていたことです。

被爆者の方々の焼けただれた皮膚の写真とか、泣き叫ぶ映像とか、感情的な反応を煽る刺激的な展示がもっとあるものと覚悟を決めていたので、少し拍子抜けした印象さえありました。

でも、そのぶん、原爆の仕組みや種類、被害の大きさや範囲、投下に至るまでの経緯や、戦争が終了してから現在までの核拡散に至るまで、冷静に受け止め、考えることができました。

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そして、たくさんの疑問も持ちました。そもそも原爆投下の最終決定をしたのは誰で、どのような理由や手続きを経て決まったのかということ。

教科書的には「戦争を早く終わらせるため」とか「水素型の原爆の効果を検証しておくため」とか、いくつかの理由や説があるようですが、こればかりは実際に現場で指示をした人やその回りにいた人たちの信用に足る証言がないとわからないように思えました。

いずれにしても、原爆投下の事実と共に、こうした記念館が、決してアメリカやアメリカ人やアメリカ軍を一方的に責めることなく運営されている、つまり、仮想敵国からの恐怖を煽ったり、(洗脳に近い)民族主義的な教育の手段としてではなく、まさに、平和と戦争を考えるきっかけとして存在することは、誇らしいことで、日本人はともかく、世界の人々にもぜひとも知っておいて欲しいと思いました。

中高生の修学旅行は広島、長崎、沖縄(ひめゆり)のいずれかを必須にすべき。ディズニーランドとか海外旅行とか、東京や大阪の観光を教育課程の一貫として認めてはいけないと思いました。

下の写真は自分が生まれた年に行われた原爆の実験回数(ぎょえ〜っつ)。

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少し前になりますが、大分県教育委員会に依頼され、研修会の講師をやってきました(2/13(金)@大分県教育センター)。

こうした研修会のご依頼は9割9分お断りしているのですが、今回は、

  1. 高校の先生たちが県をあげて「授業力」の向上に取り組んでいるということ(生徒の「学力」ではなく、教員の「授業力」であるところがミソ)。
  2. 国の指定研究ではなく、県が独自の予算で、年度をまたいで継続的に推進していること。
  3. 「PDCA」(Plan-Do-Check-Act)のサイクルにコミットしていること。
  4. こうした取り組みに「インストラクショナルデザイン」の考え方を導入したいという担当者の意向が感じられたこと。

などの理由でお引き受けしました。

ただし、「講演」形式ではなく、実際に研究授業を担当された先生方とやりとりをしながらのシンポジウム形式で、事前に「指導事例集」を読ませていただき、先生方への質問をお送りし、それを元にQ&Aをしながらコメントしていきました。

この研修会を通して考えさせられたこと:

(1) これまで、学校教育における、いわゆる"授業改善"は、教科ごとに、教科学習の枠組みから取り組まれることが多かったのではないかと思いますが、学習目標、授業案、評価の記述方法を工夫して標準化すれば、教科を超えた改善が可能であり、そこに教師の"指導力"のコアとなる力が見いだせそうなこと。

(2) 研究授業(にあたってしまったからという)のための単発的な取り組みではなく、日々の授業で継続して改善していける活動に焦点をあてられそうなこと(例:授業をする前に評価テストを作成する、評価テストに関連した活動を授業に取り込む、生徒に学習目標をわかりやすく伝える、などなど)。

(3) (1)(2)を進めて行くことで、第三者(管理職でも指導主事でも同僚の教員でも、あるいは授業をしている本人でも)が授業を観察しながらチェックし、改善のためのフィードバックを簡単に、かつ客観的に提供できる"授業力チェックリスト"みたいなものが作成できそうなこと。

などなど。

懇親会では関サバ・関アジのお造りをごちそうになりました。とても美味しかったです。帰りは大分市内から空港まで、ホバークラフトに乗船(写真)。子どもの頃に佐渡島で乗って以来のホバーに大興奮。残念ながら別府温泉に立ち寄る時間はありませんでしたが、有意義な二日間でした(ごちそうさまでした&お世話になりました)。

法政大学ライフスキル教育研究所では下記の研究会を開催します。

今回は、JKYB(Japan Know Your Body)ライフスキル教育研究会でご活躍されている、西岡伸紀先生をお招きし、青少年の「意志決定」や「自己主張コミュニケーション」についてご講演をいただきます。

興味のある方はぜひご参加下さい。

題 目:青少年のライフスキル育成の方策と実際 −意志決定,自己主張コミュニケーションを中心に−

講 師:西岡伸紀先生(兵庫教育大学)
日 時:2009年3月27日(金)10:00-12:00
場 所:法政大学位市ヶ谷キャンパスボアソナードタワーBT11心理学実験室

参加費無料です。学外から参加を希望される方は、hosei.psy@gmail.comまでご連絡下さい。そのさい、メールの件名に「ライフスキル教育研究所:研究会参加申込」とご記載下さい

「茶髪」「まゆげ剃り」「ピアス」など、服装の乱れを理由に不合格をだした高校の校長先生が更迭された。その後、校長や学校の判断を支持する声が上がっているという。神奈川県の話。

大阪では、橋下知事が小中学校での「ケータイ禁止令」を表明。賛否両論を引き起こしている。

全国から不登校の生徒を受け入れていた愛知県の全寮制高校では、学校に“禁煙指導室”という名称の喫煙ルームを設置していたことが発覚。こちらは警察の捜査が始まり、書類送検されるようである。

どれも根っこには、子どもたちの生活態度の悪化。そして指導の難しさがある。

服装の乱れや、教員への反抗的な態度、喫煙などは、どの時代にもあった問題だし、今だって“茶髪”でもいい子がいることは確かだ。

でも、昔と明らかに違うのは、子どもたちが「恐れ」を知らないということ。

悪いことは悪いんだと、理屈なく叱られ、怒られ、場合によっては殴られる。

それでも反骨の精神、大人への反抗心で、内心怖々とルールをはみだしていた昔の子ども。

今の子どもはルールを破ることに躊躇なし。

これは大問題だと思う。

自分の研究室があるフロアにはコピー機があって、ついこの間まで、下記のような張り紙がしてあった(デジカメで撮影しておけばよかった)。

これは教員専用のコピー機です。
学生が使用する場合は、小さくなって申し訳なさそうに使うこと。

誰が貼ったのかわからなかったけど、内心、拍手していた。

こういう煩い大人がいなくなってきたから、恐れを知らない子どもが増えたに違いないと。

ところが、先日、この張り紙がなくなっていた。

口達者な学生からクレームがついたんだろうか?

なんだかとても寂しくなった。

奥田先生流:不登校問題への挑戦的提案!!「不登校は必ず治せる」「休ませれば休ませるほど、再登校は難しくなる」「待ちましょう、では困るのです」「ジャイアンはいるけど、それを乗り越えて学校へ行けるように支援する方法があるわけです」「学校に行きたくない、と言われたら…」*

講 師:奥田 健次 先生(桜花学園大学人文学部准教授
日 時:2008年11月26日(水)4時限
    15:10〜16:40
場 所:法政大学市ケ谷キャンパス
    ボアソナードタワー11F 心理学実験室

本講義は「学校心理学」「行動分析学特講」の特別講義として開催しますが、受講生以外の学生、学外者の聴講も歓迎します。参加費無料、予約も必要ありません。

*奥田健次(2007)不登校の行動論的予防に向けての挑戦的提案(1) 子どもの健康科学, 7(2), 3-11.より引用。

鳴り物入りで始って、迷走し、安倍内閣の崩壊と共に消えてしまった感のある「教育再生会議」の後継組織ができたそうな。

その名も「教育再生懇談会」。仮称らしいけど、懇談会だって。皆で仲良く会食でもするんだろか。

旧教育再生会議は中教審や文科省との意見が対立したりして実行力もなかったせいか、今度は半数近くのメンバーを中教審とだぶらせるらしい。でも、それならこの会議の独自性は薄れるわなぁ。あ、だから「懇談会」なのか。

このニュースを報道番組か何かで知った翌日の日経新聞に、東京都教育委員会から降格処分を受けていた養護学校の元校長先生が処分取消しを求めた裁判で、東京地裁が取消しを命じた判決が、とても小さく報じられていた。

どうやら情緒障害学級を新設するとして教員を増員したけど、実際は学級数を増やさなかったことがとがめられたらしい。

こういう話はわりとよく聞く話だ。特別支援教育に理解があり、一人ひとりの子どもの教育に熱心な校長なら、とにかくなんとしてでも教員数を確保、増員したいと、あの手この手を尽くしている。

判決では「情緒障害児に対しては個別指導したり、普通学級と合同学習したり、柔軟な学級運営が許される」としており、こうしたあの手この手の一つが校長の裁量権の一つとして認められたという意味で嬉しい判決だ。

それにしても本来なら、あの手この手を尽くさなくても、子どもの教育ニーズに見合った人員確保がなされるべき。現場は人手不足であることは間違いがないのだ。それを無視して、こういう処分を下す教育委員会の人たちは、いったい何を見ているんだろう?と、ほんとに疑問に思う。

先日、共同研究をしている中学校の校長先生が、教員の増員に関して東京では、区でできることは少なくて、都が動かないとまず無理とおっしゃってた。教員一人雇うのに年に1千万かかると。都内の学校数を考えると、そんな余裕はまったくないと。

でも、新銀行東京には400億円の追加出資。400人の教員を10年間雇える金額ですね。

教育再生懇談会の人たちには、ぜひとも学校現場の実情を知ってから“懇談”して欲しいところだ。

ようやくでました。全国学力テストの結果。

報告は文科省のwebページで公開されています。集計結果のPDFだけですけど。

メディアがさっそく取り上げて、「応用力が低い」とか「経済格差が教育格差に」とか論じてます。ホントかな。データをよ〜くみてみないとわからないと思うんだけど。が、時間がない(泣)。

気になったことは山ほどありますが、一つだけ書き留めときます。

小5の算数の問題から。

まずは「基礎」と言われている問題。正答率96%だそうです。

Gakuryoku2007em1

続いてこちらが「応用」と呼ばれている問題。正答率はなんと18.2%。


Gakuryoku2007em2

両方の問題で平行四辺形の面積を求めることが要求されているから、「基礎」と「応用」と言えなくもありません。

ですが、

「基礎」の問題に正答した子どものすべてが平行四辺形の面積を求める力(基礎力)があったと果たして言えるでしょうか? 

問題には数値が2つしかありません。妨害刺激がないということです。しかも2つの数値がつけられている線分は近接しています。平行四辺形を求めることができない子どもでも、ただ、近接した2つの数字をかければ正解になります(もちろんかけ算ができないとならないですが、それを基礎力というならわざわざ平行四辺形の面積問題にする必要はないですね)。

同じ問題でも、妨害刺激があったり、数値が別のところに記入されていたり、あるいは補助図なしで文章で同じ情報が与えられたときでもこの問題が解けることを確認しないと、「基礎」ができていたとは言えないのではないでしょうか?

次に公園の問題ですが、これは問題集(算数-B)でもかなり後ろの方にあります。試験時間は40分です。どれだけの児童が時間的な余裕をもったままこの問題へたどり着いたかどうか知りたいところです(実施方法からすると難しそうだけど)。基礎学力が低ければ(たとえば計算スピードが遅い)、そのぶんそれぞれの問題に取り組める時間も少なくなるわけです。つまり、この問題が解けないのは「応用力」が低いのではなく(あるいは低いだけではなく)、基礎力も十分ではない可能性もあるわけです。

いずれにせよ、こうした出題形式で「基礎」と「応用」を独立して測定、評価できるものなのかは、はなはだ疑問。

面白いから、問題や結果をもっともっと吟味したいところだけど、時間がないす。しかもデータは集計済みのものしか手に入らないし。

個人情報を伏せた二次データでもいいので、研究目的ならば、かなり詳細なデータを入手可能にして欲しいです。そしたら、全国の研究者が喜んでいろいろな分析を(無料で)すると思います。

77億円(とも言われる)経費を投じているのだから、そのくらいしないともったいなさすぎ。

日経新聞で掲載されていたベネッセ教育研究開発センターの調査報告からヒストグラムを描いてみた。

データは中学2年生における家庭学習の頻度。これまでに報告されてきた各種学力テストの結果と同様に、ふたこぶラクダ型に近い分布になっている。

Benesse2007middle

確かに“格差”が生じていそうだ。

ふむふむ、なるほど。

でも、いったい、いつ頃からこんな差が生まれるんだろう。そして、どうして(why)、どのように(how)。

同社のwebページには小学5年生のデータも公開されている(第4回学習基本調査報告書)。中学生と小学生とでは、なぜか質問項目が少々異なるのだが(小学生は「平日の家庭における勉強時間」)、度数分布のデータ区間を整理してグラフを作成してみた。

Benesse2007elementary

こうやってみると、小学5年の時点では、まだ家庭学習の程度にそれほどの格差が生じていない可能性もある。

もう少し調べてみよっと。

Precision Teaching は、基礎学力の向上に有効であることが実証されている、行動分析学をベースにした教授法です。Ogden Lindsley博士らが中心になって開発しました。読み書き計算の基礎スキルの流暢性を向上させることで、注意や記憶の保持や応用力(文章題など)へもポジティブな成果を及ぼす指導法と言われています。

日本では100マス計算がブームになり、導入している学校も多いようです。基礎スキルの正答スピードを上げることを尊重し、繰り返しの練習をに注力するところは、Precision Teaching と共通です。

国際行動分析学会の分科会としてStandard Celeration Societyというコミュニティがあり、Journal of Precision Teaching and Celeration という機関誌も発行しています(1981-)。購入できる教材もそろっています(たとえば、ここ)。

しかしながら、初学者向けの教科書というかマニュアル本がなく、ゼロから学ぼうとすると、正直言って、何がなんだかわかりません。私も大学院生のときに授業で紹介され、国際行動分析学会のワークショップ(有料の研修会)にも何回か参加しましたが、いまだに謎の部分も多いのです。

このたび、Rick Kubina先生(Pennsylvania State University)が、Precision Teachingに関わるいくつかのビデオや音声をPodcastの形式で公開されました。教室で子どもたちが学習に取り組む様子もこれでわかります。

あ〜、こういうことなんだ。と、勘をつかむのにちょうどいいと思いますので紹介しますね。

動画の閲覧にはAppleのQuickTime(もしくはiTunes)が必要です。

Precision Teaching: Party Movies(←これをクリック)

Notesfromnaruto

前任校である鳴門教育大学のゼミ生4名が無事に大学院を修了しました。おめでとうございます。

修論はどれも面白く、貴重な研究になりました。そのうち学会発表するかこのブログで紹介します。

○知的障害養護学校における効果的なソーシャルスキルトレーニングを行うための授業支援ツールの開発
○発達障害児における私的出来事報告行動の形成:刺激等価性の枠組みを用いた学習方法の検討
○就学前の自閉症児に自己始発質問を指導する:自然言語パラダイム(NLP)を用いた家庭療育の可能性
○ダウン症児における発話不明瞭の要因の検討と改善のための指導

修論だけではありません。みなさん、この2年間で、サマースクールなどのスタッフを経験することで、応用行動分析を教えるスキルに磨きをかけました。

いよいよ来週からは学校や地域に戻って、大学院で学んだことを現場に活かすことになります。頑張って下さいね、と書こうとしていたら、さっそく修了生+新M2の猪子さんとで、さぬき方面で研修会を引き受け、短期間で教材を作り上げ、実施してきたようです。すばらしい!

夏にサマースクールでお会いするまでには、きっとたくさんの成果があがっていることでしょう。

無理せず、ゆっくり。一歩一歩、進みましょうね。

心暖まる寄書きとスタバのカードもありがとうございました。

卒業式

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土曜日は卒業式。法政大学文学部心理学科第一期生たちが元気よく卒業していきました。

ゼミ生の8人も無事に卒業。ほんとうに、おめでとう。

手作りのアルバムと焼酎セットもありがとう。

アルバムは辛いことがあったときに見て元気をもらうことにする(すでに2回見ました)。焼酎セットは研究室においておくから、辛いことや嬉しいことがあったときに、飲みにきなさい(瑞泉はキープということで)。

開花宣言もでたみたいだし、お互い、気持ちを新しくして元気にいこうな!

ここ数ヶ月間の「いじめ」問題に関して、気になった新聞記事があったので紹介したい。

 映画に関する伝説の授業があるという。東大総長も務めた蓮實重彦氏が東大と立教大で担当した授業で、「Shall We Dance?」の周防正行、「CURE」の黒沢清、「黄泉がえり」の塩田明彦、「リング」の中田秀夫ら、日本映画界で現在活躍中の多くの監督に影響を与えたらしい。

 蓮實氏は、毎週、課題として上映中の映画を1つピックアップし、受講生に観てくるように指示する。そして、翌週の授業で「何が見えましたか?」と問いかける。少し長くなるが、この授業での典型的なやりとりを引用しよう(日経新聞, 2006.10.23)。

「勇気」「友情」などと答えると、「勇気はどこに見えたんですか」「友情は画面のどこにありましたか」と突っ込まれる。教室に困惑が広がる。春に百人を超えていた受講者はみるみる減り、二十人ほどになった。
 黒沢が「扉が5回見えました」などと答えると、「はい、そうでしたね」と蓮實は受け、語り始める。扉、カーテン、階段といった具体的事物を巡り、膨大な映画史の知識を総動員して論じる。学生は圧倒され、「いかに見ていなかったか」を悟る。

 人は映画を観て「勇気」や「友情」に感動する。しかし、「勇気」や「友情」はあくまで解釈であり、実際には観客がそのような解釈や感情を持つように、ひとつ一つのシーンやストーリー展開、演技や大道具・小道具を組み立てなくてはならない。

 プロの仕事は、感動や解釈を生みだす、事実や具体物の仕込みにあるのだ。

 「いじめ」があったかとかなかったとか解釈する前に、何があったのか事実を洗いだすのがプロの仕事だと思う。そして、それは子どもたちにアンケートを配って記入させるなんていう、アマチュア的、形式的なお仕事で済まされてはならない。

いよいよ卒論もラストスパート。ゼミの皆さん、執筆にあたっては、わかりやすい文章を書くことを最優先して下さい。文章一つひとつをできるだけ短く書くのがコツです。

皆さんにとって、卒論は、作文技術を系統的に学べる最後のチャンスかもしれません。わかりやすい文章を書く力は就職後に必ずや役に立つ武器になります。ここでひと頑張りして作文力をつけて下さい。

ゼミ生からの質問に答え、これまで読んで、使ってみて、役に立ったという実感のある本を列挙しておきます。自分が卒論を書いた数十年前から較べると、いまや本屋には「作文技術」のトレーニング本が山と積まれています。ですから、ここに挙げた本以外にも、本屋で立ち読みしてみて「これなら」という本があれば使ってみて下さい。使えそうな本を選ぶ基準としては、(1) わかりやすく正しい文章を書くルールが明確に記述されているかどうか、(2) それぞれのルールに適合した例文と適合していない例文が豊富に掲載されているかどうか、(3) 例文の内容が自分の興味にあっているかどうかなどが考えられるでしょう。

最近では心理学のレポートや論文作成に特化した本もでているようですので、この機会に私も少し取り寄せて調べてみますね。

これは自分が卒論を書くときに読んだ本です。もはや古典です。

理科系の作文技術理科系の作文技術
木下 是雄

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これは自分が修論を書くときに参考にした本です。これも古典です(^^;;)。

短文・小論文の書き方短文・小論文の書き方
宇野 義方

有斐閣 1978-08
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これは自分が社会人になってから読んだ本です。ルールが豊富で、例文も多く、私のイチオシ本なのですが、残念ながら入手困難のようです。興味があれば研究室内で閲覧して下さい。


これは学生や院生に紹介することが多い本です。新書なので価格が手頃であること、例文が比較的簡単で練習課題が多いからですが、勧められて本を購入しただけだと練習問題をやらずに読むだけで終わる人が多く、それだとあまり効果はないようです。

日本語練習帳日本語練習帳
大野 晋

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以下の2冊は作文技術に関するものではありませんが、「分かりやすさ」ということと、自分の考えを人に「伝える」ことの本質をついたガイドブックとしておすすめです。卒論も結局はコニュニケーションです。だから、常に読み手のことを念頭に置いて、配慮、工夫することが重要です。

これもかなり古い本となってしまいました。でもそのスピリットはまだ健在(使えます)。

発表の技法―計画の立て方からパソコン利用法まで発表の技法―計画の立て方からパソコン利用法まで
諏訪 邦夫

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人に何かを伝える仕事に就くなら必読書です。そして、人に何かを伝えることが全くない仕事というのは極めて少ないですよね。

「分かりやすい表現」の技術―意図を正しく伝えるための16のルール「分かりやすい表現」の技術―意図を正しく伝えるための16のルール
藤沢 晃治

講談社 1999-03
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忙しいときに限ってブログに書くべき and/or 書きたいネタが噴出するもんだ。

いじめによる自殺、教育委員会への批判、教育再生会議などなど。書くべきこと、書きたいこと、書きたくても書けないこと、いろいろありすぎ。

「履修漏れ」問題に関しては一言だけ。いや、二言だけ。

どこも報じてないんだけど、この問題はいったいどうやって発覚したんだろ? 内部告発? だとしたら、告発した人の勇気と良識を讃えたい。こういう問題はこれだけじゃないはず。どんどん告発して、膿をだしていきましょ。

そしてもう一つ。今回の騒動で明らかになったこと。文科省も政府も、学校の仕事は「授業をすること」と規定してしまっていること。本来は「教えること(学びをうむこと)」のはずなのに。

算数の授業を規定時間していても分数を理解できていない子どもが1/3いるとすれば、それは「指導漏れ」のはず。国語の授業を規定時間こなしていても、新聞を読む読解力もない高校生が1/5もいるとすればそれも「指導漏れ」のはず。

今回の問題の顛末が、授業の規定時間を満たすことで解決なんてことにならないようにして欲しい。だって教育を「再生」させるんでしょ。

徳島県内の保育所の所長さんや主任さん、保育士さんを対象にした丸一日の研修会をやってきました。内容はパフォーマンスマネジメントの概論ですが、いつも通り、演習ばっかです。

今回はいくつか本邦初公開の演習を組み込みました。一つは遠藤清香先生(山梨学院大学附属小学校)からヒントをもらったもので、シェイピングゲームのバリエーションです。

いつものシェイピングゲームでは好子として、タンバリンやカスタネットなどの鳴りものを用意するのですが、今回はその代わりに「そう!」という言語賞賛を好子として使いました。そして、通常の手続きで3試行して、シェイピングのコツも解説し、8割以上のチームが2分以内に標的行動を導けるようになった後で、こんどは「ちがう!」という否定的な言葉でシェイピングできるかどうか試してもらいました。

もちろんこちらの意図は、好子出現による強化だと、言語指示やプロンプトやモデリングなしでも行動を教えられるけど、嫌子出現による弱化だと難しい、ということを体験して理解してもらうことです。

ユーザーテストなしでいきなり本番だったのでドキドキもんでしたが、結果は19チーム中、「ちがう!」でシェイピングできたのはわずか1チームだけ。予想どおりに終わり、ほっとしました。参加者の皆さんも両者の違いがはっきりわかり、納得されていたようです。

演習ライブラリに一つ追加です。

研修終了後、運営担当の先生から、最近の保育所民営化や幼保一体化について、現場の現状をいろいろお聞きしました。勉強になりました。やはり報道だけだとわからないことがたくさんあります。

サマースクール初級コースが無事終了。参加者の皆さん、スタッフの皆さん、お疲れさまでした。

今年度は計画から準備、運営、講師まで、すべて現職教員によって行いました(私は助言だけ)。

その中で見えてきた新しい展開:サマースクールにスタッフとして参加することで、授業開発や教室マネジメントなど、いわゆる「授業力」を大幅にアップできるように仕組めるのではないか?という可能性です。

教員研修とはいえ、サマースクールも学校の授業と同じインストラクション。学習目標があり、それを達成するための教材や演習や動機づけシステムがあります。今年度は多くのスタッフにとって初めての経験だったこともあり、パワポの教材を引継ぐことにせいいっぱいで、各ユニットの学習目標(参加者の標的行動)やユニット中にそれを引き出す発問や強化するフィードバックの工夫が足りなかったように見えました。つまり、ここに大きな改善の余地があるわけです。

サマースクールにスタッフとして参加すると、『インストラクショナルデザイン』の理論を実習し、マスターして、教師としての底力を向上できるーーそんなふうに展開できたらいいなと思いました。

「知能」とか「創造性」とか「リーダーシップ」いうものは実体としては存在しないんだよ。そういうものを研究するのに便利だから仮定しているだけの虚構(fiction)なんだよ。

と学部生に話すとキョトンとしている。

ほら、知能検査で高いIQが測定されたとするでしょ。160とか。でも、その人が、たとえばやたら歴代総理大臣の名前を覚えたりしている理由は、IQが160だからではないでしょ。知能検査というのは、そういうパフォーマンスを測定して、いくつかのカテゴリー(種目みたいなもんだ)ごとに得点をつけているだけだから、その得点で、なぜ得点が高いかを説明しようとしたら、どうどう巡り(循環論っていうのさ)になるよね。

と話をすると、半分くらいの学生がなんとなくうなずく。

法政大学大学院で心理学・行動分析学を学びたいかも?という人へ

学外からの受験者のための入試説明会が開催されます。

日時:2006年7月29日(土)13時-
場所:市ヶ谷キャンパスの高層ビル
   (ボアソナードタワー キャンパスマップ
 *会場(教室)は、当日、1F入口に掲示されます。

ちなみに秋入試は8月31日(木)、春入試は2月3日(土)です。

詳しくは大学院のwebページをご覧下さい。

山梨学院大学附属小学校に見学に行ってきました。以前にご紹介したように、ここは最近新設された小学校で、子供たちの個性や創造性を伸ばそうと、若い先生たちがこれまでの教育方法にとらわれることなく、常に新しい授業をつくっているところです。

今回はちょうど「アントレプレナー」(←発音が難しくて日本語表記がばらばらの用語の一つですね。「起業家」のことです)プロジェクトの日にあたり、2年生はリサイクル、3年生はピザ屋を出店することを念頭においた活動を一日かけて進めていました。

リサイクルのプロジェクトでは、持ち寄られた中古品に子供たちが値段をつけ(「これはレアものだから3000円とか」)、リサイクル業者の方(ホンモノ)に提示します。そして子供たちの予想価格に対し、次々と現実の引き取り価格が、テレビの「なんでも鑑定団」ふうにつけられていきます。一万円と予想したビデオデッキが100円と鑑定され、ものすごくがっかりするところはいかにも子供らしいですが、その後に、業者さんの説明として、コードやリモートの付属品がないとか、「Made In China」なので作りが雑とか、いろいろな解説がなされ、それに聞き入っている子供も多かったです。

ピザ屋出店のプロジェクトでは、導入部で「マック vs モス」とか「回転寿し vs 高級寿司」の比較などをした上で、自分たち(10人前後ずつ6チーム)の出店計画をつくり、じっさいにピザを作って宣伝し、売り上げを伸ばすというのがテーマでした。ピザの名前とか、看板の絵とかに子供らしいアイディアがたくさん見られた一方で、全体的にピザが不足している状況(生産が供給に追いつかない)にもかかわらず「タイムサービス」(←たぶん導入部で先生がヒントをだした)を続ける店が続出。このへんが子供らしくて面白かったです。

リサイクルもピザ屋出店も、これ1回だけなら、単にお遊びの時間になってしまうと思いますが、この学校では同じテーマを繰り返し行うそうです。だから、リサイクルなら、次回は「どんな物ならどういう理由で高値がつくか」考える子供が増えるだろうし、ピザ屋でも、売り上げを伸ばす方法(需要が供給を上回っているなら値上げするとか)を考える子供がでてくるでしょう。

指導要領の内容を教科書の順番通りに教えるのではなく、指導する順序や方法を教師が自分たちで工夫するということは、自由度が増える一方で、はたしてこれで子供が学んでいるのか?を常に意識せざるをえなくなります(本当は教科書通り進めていても意識しなくてはならないのですが...)。そうすると、今回やこうやって教えてみたけど、まだここが弱いから、次はこれを試してみようよ、というように、子供の学習状況を記録し、それを元にしながら仮説をたて、繰り返し指導をすることで仮説を検証していくという循環ができます。

これはまさに「実験マインド」で、現在の多くの学校の先生たちに欠けている考え方だと思います。

理系離れが指摘されて久しいですけど、理系の本質は数字とか計算にはないと私は思います。世の中のいろいろな出来事を論理的に考えること。仮説を立てて、試してみて、自分の考え方があっていたかどうか、もっと別の考え方がないかどうか探して行くこと、つまり「実験マインド」が本質だと思うのです。

そしてこの考え方は本来は理系(教科としての理科とか算数や数学)に限定されるわけではないのです。

子供たちが物事の基本的な考え方を学ぶ小中学校時代に、「教科書にそう書いてあるからそう覚えなさい」という指導をして、先生たちが「実験マインド」の見本をモデルとして子供たちに見せなければ、“理系離れ”が生じてあたりまえだと思うわけです。

起業家プロジェクトを、その言葉通りに低年齢からの早期起業家育成ととらえると、あまり面白くありませんが、子供たちの「実験マインド」を育てる機会として使えばとても有効な方法になるかもしれないなぁと思いました。

久しぶりにいい脚本に出会ったのでここで引用します。

山崎努演じる父親が一人息子にボクシングを教えるシーン。

GO左腕まっすぐ伸ばしてみな、boy。
そのままぐ〜と一回転しろ。
よし。いま、オマエの拳がひいた円の大きさが、だいたいオマエという人間の大きさだ。
言ってることがわかるか、boy。
その円の真ん中に居座って、手の届く範囲のものだけに手をだしてりゃ、オマエは傷つかずに生きていける。そういう生き方をどう思う。
(だせぇ)
はは。
ボクシングとはなんぞや。その円を、己の拳で突き破って、外から何かを、奪い取ってくる行為だ。
外には手ごわい奴がいっぱいいるぞ。
そいつがオマエの円の中に入り込んでくる。
殴られるのもいてえし、殴るのもいてえってこった。
それでもやんのか? 円の中にいる方が安全だぞ。
(やる)
はじめるぞ。

どんな生き方をしようと、すべてうまくいき、楽しいことばかりなんてことはない。生きていれば、苦しいときは苦しい。そして、どう生きるかは自分次第だ。

あるがままのことを正直に伝え、選択肢を提示し、その選択を尊重する。

こういう骨太の教育者を目指すべし。

GO
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児童虐待を発見したら、疑いの段階であっても、児童相談所などに通告しなくてはならないことが児童虐待防止法で定められている。ところが、小中学校の教職員の3割以上がこのことを知らなかったことが、文部科学省の調査でわかった(日経新聞, 2006.5.30)。

通達義務を知っていても半数の事例で通告がされていなかった。通告をしなかった理由としては「校内で対応可能と判断した」「虐待の程度が軽いと考えた」「虐待という自信がなかった」「家庭のプライバシーを侵害する」など。

教職員だけを責めるのは問題解決につながらない。通告をすれば速やかに必ず虐待がなくなる(児童が救済される)保証がなければ、学校側も動きにくいだろう。逆に、虐待がエスカレートしたり、保護者と学校との関係が悪化する危険もある。

札幌市のこのケースのように関係機関の連携が欠かせないだろう。

幼児に手話を教える「ベビーサイン」というのがあるらしい。

アメリカの発達心理学者による研究がベースになって開発された幼児教育のメソッドらしい。

元論文は読んでいないので評価はできないのだが、ベビーサインを教えることで長期的にIQに差がでるというのは少し怪しい気がする。言語が健常に発達すれば、IQの差は多少あっても長期的には縮まるか無くなるのではないだろうか。

むしろ、主に要求の手話(マンド)を教えることで、赤ちゃんが何を欲しがっているか、何を嫌がっているかを、母親やケアテイカーがわかりやすくなって、育児不安を減らす効果の方なら意義がありそうだ。

それにもし自閉症などの発達障害を持った幼児であれば、発達のごくごく初期段階で他者との円滑なコミュニケーションを築くことで、言葉かけが嫌子化したり、拒否の要求をかんしゃくで表現することを誤学習してしまうのを防げるかもしれない。

今後の研究動向に注目したい。

文科省は「学びの居場所(仮)」という名称で、塾に通えない子どもが放課後に学校で無料の補習が受けられるような予算配分を検討中らしい(日経新聞, 2006.4.18)。スタッフには教員OBを活用するということだが、正規の教員以外が、子どもの教育ニーズにマッチした指導を行なうことに予算がつくという点は画期的で評価できる。

都内の区立中学校には、土曜に補習を開講し、大手の進学塾から講師を派遣してもらうところもあるという。

文部科学省によると放課後や休日の補習についての規制はなく、教える人に教員免許も必要ない。「正規の授業も、外部講師が学校の教員と一緒に行なえば問題ありません」と初等中等教育局の鈴木文孝さん(日経新聞,2006.4.16)

正規の教員ではなくても子どもの教育ニーズを満たせる人材なら有効に活用できる柔軟な予算配分が増えることには大賛成。

こうした予算が充実すれば、たとえば通常学級に在籍する軽度発達障害児のための支援(支援付きインクルージョンとか)や、一般の教員には難しい高密度の集中指導(発話指導やトイレットトレーニングなど)を学校以外の人材を活用することで進められるはず。そういう専門家と一緒に仕事をすることで教師の専門性も高まる可能性まである。

ポイントは児童生徒の教育ニーズがちゃんとアセスメントされていること。そして予算がそのニーズを満たせるサービスに配分されること(もちろんそのためには効果のアセスメントが必要になる)、だ。

バラマキ型で効果のアセスメントなんて聞いたこともないスクールカウンセラー制度なんて止めちゃって、こういう予算に回して下さいよ。

日本の高校生は“享楽的で、「人並み」意識が強く、意欲が少ない----。こんな日本の高校生像が、日本、米国、中国、韓国の4カ国の高校生の生活意識に関する調査結果から浮かび上がった”(asahi.com)。

少し前に新聞や雑誌を騒がせたこの調査の集計結果を読んでみた。『高校生の友人関係と生活意識−日本・アメリカ・中国・韓国の4ヶ国比較ー』(財団法人・日本青少年研究所)から単純集計結果がダウンロードできる。

報道されたように「あなたは(ママ)現在、大事にしていることは何ですか?」という質問項目では、「(1) 希望の大学に入学すること」 に○をつけた高校生が日本、米国、中国、韓国では、それぞれ、29.3%、53.8%、76.4%、78.0%、「(2) 成績がよくなること」に○をつけたのが、33.2%、74.3%、75.8%、73.8%と、日本とそれ以外の3つの国では大きな差が見られている。

別の質問項目でも、たとえば、「あなたは次のことにどのくらい関心がありますか?」という質問で「勉強や成績 」に「関心がない」か「あまり関心がない」とした生徒の割合が、日本の26%に対し、米・中・韓ではそれぞれ、12.1%、6.5%、11.8%だったり、「宿題が出されたら必ず完成すべきだと思うか?」という問いに「全くそう思わない」か「あまりそう思わない」との回答が日本の19.8%に対して、米・中・韓ではそれぞれ、4.8%%、12.8%、22.2%だったり(韓国は意外にも日本と同じくらい高い)、総じて、学校における勉強行動への低い強化率、あるいは強化の機会さえも設定されていない様子がうかがわれる。

今の高校生って、いわゆる「新しい学力観」で育った世代だと思うのだが、テストの得点などで成績をつけなくなったせいで、頑張って勉強すれば成績も上がって誉められるし、自分も嬉しいという“体験”が減ってしまっていないだろうか? スポーツの世界も同じで、運動会のかけっこで順位をつけなくなったという話を聞くたびに、この国の教育はどこへ向かって行くんだろう?と暗澹な気持ちになってしまう。

日本の高校生に“意欲”がないように見えるなら、それは環境が彼ら・彼女らの意欲を促進していないからだ。個人攻撃の罠に陥ることなく、どこに問題点や改善点があるのか、見つけていなくちゃね。

山梨学院大学附属小学校トワイライトスクールの渡辺平太先生から、同学校の取り組みを伝えるDVDを送っていただいて鑑賞した(地元のテレビ局が取材し放映した番組集)。

「トワイライトスクール」とは山梨学院大学附属小学校の放課後解放事業だが、基礎学力の復習や補習だけでなく、虫取り教室や将棋道場、音楽、美術、スポーツなど、さまざまな活動を通して、一人ひとりの子どもの『夢』を見つけるサポートを提供しているという。とにかく選択肢が多く、その道の専門家の指導も受けられるとあって、TVゲームで遊ぶくらいしかないような近ごろの子どもたちの遊び環境からすると、ほんとうに贅沢な学習環境である。どんな子にも何か打ち込める特技がある。それを見つけて伸ばすのが教師の仕事だ!という正道をそのまま実践されているところが素晴らしい。

小学校のカリキュラムも同じである。TT(チームティーチング)やオープンルームなどは、先進校にはありがちな取り組みだし、よく指摘されるように、附属小学校というものは選抜の時点ですでに能力が高く家庭環境が豊かな子どもがスクリーニングされて入学してくるので、子どもたちが高いパフォーマンスを示すことには驚かない。

それよりなにより感動したのは、先生たちがほとんどゼロから授業を作っていること。これはとてつもなくたいへんな仕事である。それにも関わらず、先生方がそれを十分に楽しんで取り組んでいるところだ。

一人ひとりの子どもたちにどんな力をつけるべきか、どんなところを伸ばそうか、そのためにはどんな指導をすればよいだろうか、うまく指導できているかどうかはどうやって確かめられるだろう??

これが学校の先生の本来の仕事だ(と私は思う)。そして、これが教師という仕事の一番面白いところだ(と私は思う)。ところが公立学校の多くでは、決められた教科書を決められたペースで、だいたい同じように進めることがフツーになってしまっている。教師の仕事の醍醐味を味わえないでいる先生たちがいるのはとても残念な話だ。

この小学校にはオハイオ州立大学で学位を取られた遠藤清香先生も所属されていて、今後、特別支援教育のモデル事業も進めていくという話である。附属学校は地域の進学校の一つになってしまって、障害を持った子どもたちには縁遠い存在になってしまっていることがある。しかしこれは逆に言えば、子どもたちから障害を持った子どもたちと一緒に学び、遊ぶ機会を奪ってしまっていることになる。

山梨学院大学附属小学校の今後の展開に期待したい。

yahoomessenger

来年度、遠隔からM2の修論を指導し、徳島ABA研究会へ参加するために、PCで使えるTV会議システムを模索中。

今日はYahoo! メッセンジャーを試してみた。

Windows版なら複数地点での映像&音声チャットが可能であり、かつ無料であるということで第一候補に上がったのだが、大学内の3地点で試したところ、音声の状態が悪く、使えそうにない。

iVisitというソフトならMacOSX版もあるし、音質もいいのだが、残念ながら有料。無料の評価版では多地点接続ができないし、連続では1時間しかつながらないし、テスト中に評価期間が過ぎて使えなくなってしまった。

次回はビデオをサポートしたSkypeの新バージョンを試してみよう。

広島県で臨時免許を持たない臨時教員が教壇に立っていたことが発覚して問題になっている(日経新聞, 2006.1.22)。

臨時教員とは、教員免許は取得しているが教員として正規に採用されていない人が、産休や病欠などの教員の代わりに一時的に採用される制度。の、はずなのだが、実際には正規教員の人件費を削減するために、恒久的に大量に臨時教員を採用している自治体も多く、批判されることも多いのだ。

臨時免許とは、所有している免許(たとえば「高校地理歴史」)以外の教科(たとえば「公民」)を担当するのに取得しなくてはならない免許。「免許」といっても試験があるわけではなくて、書類申請だけで済ませる自治体がほとんどだと思う(だから、今回の記事でも“校長らの事務的な手続きミス”とされている)。

でも、免許持ってなくても、書類申請だけで臨時免許とれて“合法”になるくらいなら、そもそも教員免許ってなんなん?ってことになる。

自分が関わっている学校にもたくさん臨時教員の先生方がいる。教員採用試験の勉強をしながら正規の教員と同じ仕事をしなくてはならず、とてもたいへんなわけだけど、熱心に取り組んでいる。

養護教員の免許を持っていないのに養護学校で働いている人も多い。特に中学部や高等部では中学校、高校から転任してくる教員が多く、発達障害や自閉症などについて知らない人が(おそらく書類上の臨時免許で)子どもたちに教えることになる。これも合法なのだが、専門外の仕事いきなりしなくてはならない先生にとっても、マネジメントしなくてはならない学校にとっても、そしてなによりも子どもたちにとって、とても混乱する原因の一つである。

米国カリフォルニア州では、何年か前に、こういう状況(養護教員の免許を持っていない教員が教えること)は子どもが最適な教育サービスを受ける権利を侵害しているという判断がなされて、養護教員免許の取得が義務づけられたと記憶している。

広島県での事件を単なる“手続きミス”で済ませずに、ぜひここまで掘り下げて欲しい。

厚生労働省の第4回21世紀出生児縦断調査によれば、三歳半の子どもの3人に1人が毎日3時間以上テレビを見ているという(概況)。習い事(水泳、英語、幼児教室など)に通う子どもも増えているようだ。

テレビを見ること自体にはそれほど問題はないかもしれない。でも、テレビに時間を取られるぶん、他の活動をする時間が減ってしまうことは見逃せない問題だ。

他の友達と遊んで泣いたり泣かせられたり、土や虫をいじったり、大人に褒められたり叱られたり... その時間(週21時間、年1000時間以上)があればできたであろう、そういう自然にある随伴性や社会にある随伴性にもまれる機会が少なくなってしまうことこそが問題だろう。

習い事にも危機感がある。たいていは、大人が調整して“構造化された”場面で、他の子どもとのトラブルができるだけ起きないように過ごしているだろうから、子ども同士のケンカとか、その後の仲直りとか、そういう“構造化されていない”場面では自然に形成されていく行動レパートリーの獲得が阻害されてもおかしくない。

さらに同報告書は、子どもが悪いことをしたときの“しつけ”に関して、以下のように報告している。

早稲田アカデミー、2007年春にも教員養成大学院を設立 学習塾大手の早稲田アカデミーは主に中学・高校の教員を養成する大学院大学を2007年春にも設立する方向で準備に入った。学生や現役教員を対象に受験対策など学習指導方法を教える。中学・高校への講師派遣などの引き合いも増えており、学習塾以外の教育事業を広げる(日本経済新聞 2005.12.13)。

他にも学習塾の栄光が都内に「日本教育大学院大学」を開設するという。

教師という職業には確かに高い専門性が必要だ。もしかしたら医者よりも高度な専門性が必要なのかもしれないと最近は考えている。なぜなら教師の力量が伸びることで、子どもがぐんと変わってくるから。

ただ、それじゃぁ大学院を作って修士をだせば専門性が高まるのか?と言えば、話はそんなに簡単ではない。鳴門教育大学・兵庫教育大学・上越教育大学という、いわゆる新構想大学院では、現職教員を対象に修士レベルの教育をしてきたが、果たしてどれだけ効果があったのか? あるいはどういうプログラムに効果があって、どういうプログラムに効果がなかったのか? そういう詳細な検討がなされずに、ただただ大学院の新設ラッシュが進むことには懸念を覚える。

もちろん、いろんな機関が参入することで競争的市場が形成されれば、いつかは大学院教育の質も上がるのかもしれないが....  そのためには、各地自体から現職教員を派遣するさいに、派遣される本人に大学院選択の幅が与えられるようにすべきだろう。

アメリカ合衆国政府(教育省)と民間の企業団体が協働で進める「Data Quality Campaign」という巨大プロジェクトが立ち上がった。

民間側の資金は主にマイクロソフトのビル・ゲイツ(夫妻)からの個人的な基金によるものらしい。

上記のHPにあるプロジェクトの概要書を読むと、

・教育を改善していくためにはデータを元にした政策決定が欠かせない。
・現在は政策決定に使える有効なデータが収集されていない。
・行政はこの問題に気づいてはいるが、単独で解決するだけのリソースを持っていない。
・そこで、教育システムの改善に役立つデータを各州で収集し、かつ全国的に相互に利用できるような情報システムを民間が開発して提供する。

とある。

目標は2009年までに50州でこのシステムが運用されることだそうだ。

子どもの学力向上に役立つのは塾や予備校と回答したのは70.1%。学校の方が優れているとしたのは、わずか4.3%。

現在の学校教育について満足しているのは13.0%。不満であるという回答は43.2%。

という新聞報道を読んで、文部科学省もようやくまともな調査と公表をするようになったなぁと思ったら、なんとこれは文科省ではなく、内閣府の規制改革・民間開放推進会議による調査報告だった。

同会議のHPを見てみたら、他にも「文部科学省への質問状」として、

大学における単位取得等を基本とした現在の教員免許制度は効果的に機能していると判断しているか。その場合、その判断の根拠を、実証データがあればそれも含めご教示いただきたい。

など、とても鋭い質問を投げかけている(現時点では未回答)。

過去には教員養成分野における専門職大学院について質問と回答のやりとりが掲載されているが(6月)、文科省からの回答は会議資料の開示に終始していて、内閣府からの質問(現在の教員養成課程の上に専門職大学院を作ることで、他領域から多様な専門性を持った人が教師になる可能性を狭めてはしまわないか)には答えていないように思われる。

こんなところでこんなバトルが繰り広げられているとは.... 注目です。

このところ、教員研修の講師をするたびに、過去1ヶ月で仕事のための本を何冊読んだか、参加者の先生たちに尋ねることにしている。

特別支援教育コーディネーター研修とか自閉症など軽度発達障害に関する研修が多いので、そういう関係の本なら何でもいいという条件で質問するのだが、5冊以上読んでいる人は数パーセントしかいない(150人くらいの会場で2-3人)。

1-2冊という人が半分くらい。残りの先生は本を読んでいないことになる。

最初は驚いて何かの間違いだと思っていたけど(遠慮して手を挙げないとか)、親しい先生たちに聞き取り調査をしてみると、あながち不正確な統計でもないようだ。

聞き取り調査から類推される要因は以下の通り。

文献データベースというものは、とても便利な反面、一つの仕事に集中することを妨害する力もある。

Geniiで文献検索していて、たまたま、恩師である佐藤方哉先生(帝京大学)のこんな論文を発見した。

佐藤方哉(1984)「ドリル学習」再考--そのプラスとマイナス 児童心理, 38(6), 931-937.

ドリルと練習の区別、ドリルに適した課題と適さない課題、スキナーのプログラム学習の考え方とそれを問題解決学習に結びつけることの提案、“レディネス”を下位行動の分析として捉え直すアイディアなど、インストラクショナルデザインに関する話。

紹介されている書字のプログラム学習の仕組みは、今なら軽度発達障害で字を書くのが苦手な子どもなどに、パソコンを使って実現できそうだ。

もしかして井上先生が指定討論したというタブレットPCのプログラムってこういうのかな?

多くの学校が2学期制に移行する中、3学期制へ戻すことを検討している学校もあるらしい。

3学期制復活?!@徒然なる随伴性日記高校ではいったん導入した2学期制を3学期制に戻す動きが出始めているという内容でした。理由は「テスト間隔が長くなり、出題範囲が広すぎる」、「学期途中で夏・冬休みが入り、学習意欲が続かない」など(田中 清章)。

養護学校での2学期制について、田中さんはこうも書いている。

私が、2学期制移行で特に気になったことは個別の指導計画です。3学期制では指導計画と評価の期間が短かすぎたように思います。しかし、2学期制になると少し期間が長くなります。

でも、これらはほんとに2学期制の問題なのだろうか?

井上先生(兵庫教育大学)が専門家の雇用について指摘している。

結局は専門家の雇用の問題非常勤の専門家の雇用環境は不安定で、一つの仕事はほとんどが月2−3回の単発で年間契約のものだ。他の非常勤との組み合わせないと食っていけない状況は以前からかわっていない。収入確保のためにはやたらと単発の仕事を増やさざるを得ないが、心ある人は一つ一つの仕事の質の低下を危惧している。

まさしく同感。

それに、専門家の雇用を確保するという意味では、自分たちの活動がネガティブに働かないように注意しなくてはいけないと思う。

本来、大学教員の仕事は、自らが巡回指導や教育相談をするのではなく、巡回指導や教育相談ができる人材を育て、また、そうした専門家が利用できる指導法や教材を開発することだと思う。少ない雇用の機会を奪わないようにしなくてはならない。

私の場合、コラボレーションプロジェクトという研究の名目の元、地域の学校に無料で出かけて行っている。しかし、これは永遠に継続するモデルというよりは、どんな専門性をもった人材がどのくらい関わることで、どのくらいの教育・研修効果を生み出せるのかを試算するための期限付きの処置と考えるべきだろう。そして、そこから、こうこうこれだけの成果を生み出すには、これだけの予算をつけて下さいと、しかるべきところへ提案して行くべきなのだ。

学校教育における貧弱な専門家雇用の実態からすると、ますます、臨床心理士などの資格取得者増産体制には疑問を感じる。資格を取った後にその資格を活かして専門家として仕事をしてける保証がないのなら、何のための資格だろうか?

まずは心理教育専門家が専門家として仕事をしていけるビジネスモデルの確立が先決だと考える。

科学技術で世界のトップを走ると思われているアメリカ合衆国。

ところが進化論さえ教えていない学校がたくさんあることはあまり知られていない。

カリフォルニア州立大学の Lerner博士の報告書によれば、約1/3の州の指導要領で、進化論が正しく取り扱われていないか、まったく否定されているそうだ(図はこの報告書から)。

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日経新聞(2005.8.9)によれば、米国の世論調査では64%の人が「人間は神の手で作られたと信じる」と回答しており、こうした熱心なキリスト教信者のグループが学校で進化論を教えることに強く反対しているという。

また、最近では、“知的設計論”と呼ばれる新しい反進化論が台頭し、論争が繰り広げられているようだ。

国際行動分析学会でも、宗教に関するシンポジウムがときどき開かれている。私の知人にも、熱心なキリスト教信者でありながら、行動分析家である人もいる。彼女に言わせると、行動分析家の仕事は神様が設計した行動の原理をひもとくこと−らしい(知的設計論的解釈)。

宗教的価値観と自然科学的な思考法は共存不可能ではない。自然科学では「信じる/信じない」という発想より、「考える/調べる」という行動が重視されるが、こういう行動レパートリーは熱心な宗教家にとっても、豊かな生活を送っていくために役に立つはず。

宗教観を守るためにエセ科学を生み出すような行動を強化しないためにも、科学と宗教を対立軸としてではなく、共存できるように柔軟に考えることを教えるのが大切なのではないだろうか。

学校の目標って、何?!@徒然なる随伴性日記運動会や文化祭もそうかな…と感じちゃいます。目標行動がとても曖昧なため、どこまでもやっちゃいます。運動会の応援合戦や表現会など、力が入りすぎ、もう私・田中の運動会、文化祭状態です。今、思うと子ども達にも、一緒にがんばった先生方にも迷惑をかけたかな…(ごめんなさい)。子ども達の標的行動など、考えもせず、見栄えを優先していたように思います。(田中清章)

学校の先生、特に、ここ数年間一緒に仕事をしてきた養護学校の先生たちは、ほんとうによく働く。

以前、某養護学校で先生たちが夜なべして“クリスマスツリー”の手芸品みたいのを作っているのを目撃したときには、ついつい、「え? そんなことまでするんですか?」なんて言ってしまった(失言です  ^^;;)。

個別の指導計画が作成されるようになれば、授業内容も精選されて、そういう仕事も減るのかなと思っていたら、逆にそのぶん仕事が増えただけのようでもある。

実は先日、ある養護学校の先生から相談を受けた。学部全体で指導目標をできるだけ具体的に書こうと取り組んでいる学校の先生からの相談だ。

その先生は他の先生が書いた個別の指導計画書をチェックする係なのだが、サマースクールで使っている「個別の指導計画チェックリスト 」を使うと、“具体的ではない”と×がつく記述がとても多くなってしまうというのだ。

国府養護学校の学校評議員会議に出席してきた。

学校の現状や課題が報告され、学校評価(保護者によるアンケート)と教師の専門性向上(教師の自己評価システム)について、参加者全員(特に、我々、学校外部からの評議員)から、忌憚のない意見、提案、質問などがなされた。

加納校長先生を始め、教頭先生や各学部の指導主事の先生方が、それらを真摯にとらえ、和やかなムードながら、おざなりにするのではなく、次にどんなアクションをとるのか、一つひとつ、とても具体的に、議題が展開した。

大学も含め、公教育業界の正式な会議は、慣例にもとづいて、どうでもいいような議事がただただ進行して行く会議も多い。

そんな中、近年稀にみる(?)、素晴らしい会議であった。

お子息がこの学校の卒業生でもある、評議員のお一人の、「学校ってここまで変わるですね」という一言が印象的だった。

教員の専門職大学院設置について@U.K.BLOG教員免許更新制の徹底、教員免許の1種・2種を準免許として補助教員資格とし、教員専門職大学院を修了することで正教員資格とするのはどうだろう。看護士と准看護士の看護行為のできる範囲を限定するような感じ(あと賃金も)。またあるいは、学校組織には規模に応じて最低?人の教職修士を配置しなければならないという制度的枠組を設定する。それぐらいしなければ、教職修士の必要性がはっきりしないし、教職修士をとる側の現実的なメリットもない。

資格制度って難しい。

本来は、最初に専門的な知識や技能に対するはっきりとしたニーズがあって、それを習得して実行できる専門家集団がある程度存在して活躍しているが人手が足りない状況で、この専門家集団を安定して供給する(育成し、雇用する)ための手段のはずである。

ある資格を持っていれば、その資格で保証される仕事ができなくてはいけない。これが資格の信頼性だ。

そしてその「できること」は職場で(そして社会で)望まれていることでなくてはならない。これが資格の妥当性だ。

現在の「教員免許」は、免許を持っていればこれは必ずできる(少なくても持っていない人に比べて確実にうまくできる)と保証できることがあまりに少ないのではないだろうか?

教員養成系大学や学部で、それぞれ教員養成に携わっている先生方の努力にもかかわらず、果たして、大学で教えていることのどれほどが、ほんとうに学校現場で望まれていることなのだろうか?

教員の専門性を高めて、教育の質を向上させるのは国をあげて挑むべき最優先事業だ。だが、現状の「教員免許」のように、信頼性・妥当性ともに疑問符がつくシステムを大学院まで単純に拡大するような「専門性大学院」では、資格制度の本来の目的を達成するのは困難だと思う。


対案:
 文科省主導のこうした改革とは独立に、各学校や教育委員会(雇用側)と各大学(養成側)で、学校に必要とされている技能・知識などの専門性を書き出して、それをベースとした養成システムをローカルにつくっていく。
 採用側は、卒業生や修了生についてこの独自の評価システムを使った評定をして、その結果を大学へフィードバックする。大学はそれを活かしてプログラムを改善していく。

 雇用側と育成側のこうしたフィードバックループができれば、専門家養成のシステムもでき上がっていくはずだ。

定点観測

仙田満こども環境学会会長都市の子どもたちの遊び場は路地遊びが中心だったが、自家用車の普及によって子どもたちが道端から追いやられた。道のスペースは様々な遊び場をつなぐ役割も果たしており、これが失われたことで遊び環境が大きく変化してしまった(日経新聞2005.5.5, p.26)。

この記事で興味深かったのが下の図。遊び空間の大きさに関する調査を横浜市で実施してきたという。「遊び空間」の定点観測データだ。横軸のスパンは30年。これだけの期間、同じ調査を継続するのはたいへんだと思うし、貴重なデータである。

asobiba

学力低下が騒がれ、大臣が中学生に謝罪したかと思うと、最近の文科省の発表では、基礎学力が復活した兆しもあるという。

学力低下については、何を学力と定義し、どうやって測るかが重要だと思う。一度、時間をかけて調べてみようと思っている(上述の文科省の調査は国立教育政策研究所という機関が実施したようなのだが、HPにはテスト問題のサンプルが公開されていないのでメールで問合せ中である)。

横浜市の「遊び空間」のように、長い年月にわたって定点観測できるようなテストができればいいのだろうが、なかなか難しいのかもしれない。

一つのアイディアとして、応用問題(文章問題や理科の知識など)ではなく、読み書き算術の基礎力を正答スピードで測るというのはどうだろう?

最近では、昔のように九九の暗算を徹底的に教える小学校が少ないというが、九九の正答スピードは大正、昭和、平成と変化してきているのだろうか?

実は、大学1年生の講義をするたびに、Precision Teaching の演習として、こうした測定を授業中にやっている。まだ3年分のデータしかないが、継続して測定してみるつもりである。

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ちなみに、上の「遊び空間」のデータにとても興味があったので、日経新聞に問い合わせたところ、こども環境学会に問い合わせて下さいと言われた。学会事務局にメールを送って元論文を照会中なので、分かり次第、引用したい。

「教育改革を進めるためには現場の自主性を尊重すべき」日本IBM会長の北城恪太郎氏の主張である(日経新聞, 2005.4.11, p.25)。

北城氏は米国のNo Child Left Behind 法(落ちこぼれの子どもをつくらないという精神の法律)にもとづく取組みを紹介し、教育改革に必要な条件として、

1.教育目標の具体化(数値化)と測定
2.データにもとづく分析と改善(Plan-Do-Check-Action)
3.現場の重視(現場の生の情報こそが人を動かし、改善活動や課題の解決につながる)

をあげている。そして、そのためには、現在の中央集権的な教育行政をやめて、地方や学校に権限を移して行くべきであるとしている。

ここ何年か地域の学校と共同で仕事をしてきた私にとっては誠に納得がいくご意見である。中央集権型でも、現場からどんどん情報を吸い上げて、現場が動きやすいような環境を整えることにコミットする「中央」ならいいのだが、どちらかといえば机上の空論で、現場無視に近い形のトップダウン運営をいまだに続けている日本の教育行政には大きな変革の余地があるだろう。

ただ、一つだけ疑問に思うこともある。

これは公務員全体に言えることだと思うのだが、教師も含めて、公務員志望の学生は、どちらかと言えば、保守的・安定志向の人が多い。「自分の力が社会でどこまで通用するか試したい」とか「一山あてたい」というよりも、「できるだけ安定した暮らしをしたい」とか「のんびりしたい」という人が多いのではないだろうか?

公務員という立場の経済的安定性や職業上の安定性(常に新しいことに挑戦するというより、やるべきことをしていれば文句を言われないという仕事の一般的な性質)が職業選択の理由に含まれている限り、ある意味で仕方がないことかもしれない。

学校の先生たちと話をしていて、ときどき大きなため息をつかざるを得ないのは、いろいろな問題点や改善点は十分承知でありながら、それを自分たちが実行して行こうとはなかなか思い立たないところだ。仕組上できないこともあれば、できないと思い込んでいる場合もある。ため息をつくのは、そういうことに興味がない先生に出会ったときだ。

新しい取組みをして目立つことや挑戦することが好子になっていて、失敗し、批判されることがそれほど嫌子になっていない人は、学校現場では希少である(自分はこういう先生たちに恵まれて仕事をさせてもらっているところがある)。

こういう価値観を、後から(たとえば30歳過ぎてから)変容させるのは、不可能とは言わないまでもかなり難しいかもしれない。

となると、教員養成大学にどれだけそのような資質を持った学生が入学してくるかが、実はかなり重要だったりするわけだ。

今年はどんな新入生が入ったのだろう。今から楽しみである。

学力テスト

小中生、こんな問題が苦手」という記事に藤原先生がコメントしている。

fujihara@鳩尾のクスリ 「気温が低くなった(寒くなった)」が答えらしいのですが,7月7日にカマキリに食べられちゃったかもしれませんし….7月6日と1月17日の間に,10年ぐらい開いてるかもしれませんし….とにかく,状況に関する説明が不足しているので,答えづらいです.

確かに。

社会の問題では40%の子どもが1を選んだという。でも、作付面積と生産量がおおよそ比例関係にある限り、あながち間違った回答だとは言えないと思う。

こうした学力テストを実施し、そのデータにもとづいて、既存の教育プログラムの改善点を見つけ、教材や指導方法などを向上していくことには大賛成だ。テストに参加した岩手、宮城、和歌山、福岡の4県には大喝采を送りたい。

一方、出題された問題を一つ一つ見ていくと、そのための方法論は、もっとよく吟味する必要があると思う。

社会のこの設問は、「作付面積」という用語と図表中の数値の単位(ha)との関係を理解しているかどうかの確認が目的だと思われる。しかし、それを理解していなくても正解の2を選ぶことは十分可能だ。なぜなら「品種別」というキーワードがこの選択肢にしか入っていないからだ。選択肢1にも「品種別」というキーワードが入っていたら、設問の目的はもっと正確に測れたはずだ。

そもそも、図から事実を読み取る力を測ることが目的なら、図のタイトルを1つ選ばせるよりも、その図からわかることを「できるだけたくさん」書き出させる方が、子どもたちの力を評価するのには適していると思う。何がわかっていないか、何と何を勘違いしているかなどの誤反応分析もしやすい。

学力テストの実施方法にも改善点があるかもしれない。記事では「無回答」の多さが取り上げられていた。中2英語の問題では、なんと41%が無回答だったそうだ。

これに関して、地方分権研究会は「最初からあきらめてしまう生徒や、表現力が不十分な生徒が多いと考えられる」と説明しているそうだが、果たしてそうだろうか?

同じ問題を、成績に直結する学期末テストや、ましてや高校受験で出題されたら、そのような高い無回答率が得られるだろうか? 高い無回答率から疑うべきなのは、テストに取り組む行動をどのように動機づけていたかということである。

たとえば、成績にも関係なく、あとから自分の得点も知らされず、ところか担任は誰がどんな間違えをしたかわかるかもしれないといった状況でテストが実施されたとしたら、「あきらめずに頑張る」ための動機づけ要因がないばかりか、余計なミスをして恥をかきたくないといったネガティブな状況さえ生まれるかもしれない。

学力テストの出題項目や実施方法についても、テストの結果を分析することで改善点を見つけて工夫していけるはず。こうした取り組みは、地域主体でどんどん行われるべきだと思う。

東京理科大学の澤田利夫先生が日本の小学校で使われている算数の教科書を分析したところ、1970年代と2000年代を比較すると、総ページ数で26%、復習・演習で63%も少なくなっていることがわかったそうだ(日経新聞, 2005.3.12)。

澤田先生はこれが「学力低下」の一因であるとして、1970年代のカリキュラムに戻すことを提言している。

算数に関わらず、読み・書き・計算の基礎スキルの流暢性は、これらの基礎スキルを駆使しなくてはならない、思考や問題解決など、私たち人間の知的活動に重要であることは多くの研究からわかっていることだ。

復習や演習などの「練習」の時間や機会を減らせば、基礎スキルが習熟しないままになってしまう危険も自明の理だと思う。

日本の場合、義務教育のカリキュラムは法律で定められている。それを変更するのはどうやら大事(オオゴト)で、お偉い先生たちが喧々諤々することになるそうである。時間がかかるし、変更されたカリキュラムが最適であるという保証もない。

だから、教育現場では、むしろ、カリキュラムがどうであれ、子どもたちの学習を保障するにはどうすればいいのかを工夫していくことが必要だと思う。

ちなみに、現在、米国と台湾の研究者と共同で、小学校5年生のかけ算に関する国際比較的な研究をしている。サンプル数が少ないので一般論を導くつもりはないのだが、現在までに集められたデータからは、日本と台湾の小学生は九九(一桁のかけ算)の流暢性で米国の小学生を上回っている。日本と台湾では差がないか台湾の方が若干上のレベルだ。そして、この基礎スキルが駆使される2桁のかけ算でも、その差が残っている。というか、差は拡大する傾向にある。

教材さえ工夫すれば、流暢性を向上させる練習にかかる時間は、実はそれほどかからないというデータもある。一日1分間の練習を数回続ければ基礎スキルは向上するからだ。おそらく、何が何の基礎スキルであるかを見定めて、基礎スキルの数を集約することにあると思う。(このあたりについてはここの学校が情報の宝庫)

そうすることで、残りの時間を、体験学習でも、問題解決的学習でも、総合的学習でも、基礎スキルをふんだんに駆使する課題に充てられるはずだからだ。

学校経営品質

schoolmanagement

三重県では社会経済生産性本部の経営品質向上プログラムを応用した学校経営改革に取り組んでいるという(日経新聞, 2005.3.26, p.29)。

記事を読む限り、学校の理念や方針をまず決めて、そこからトップダウン式に、数値化して評価できる目標を作って、その達成を確認していくという、マネジメント手法としてはごくごく一般的な方法だ。公立学校ではほとんど行われていないと思うので画期的であることは間違いない。

記事には、

学校では「頑張った」という言葉をよく聞くが、これでは客観性に欠けている。他人の評価を率直に受け、評価を「あくなき向上心」に活用するためにも成果主義は重要である。

とある。

客観的な目標を共通理解の上で設定することで、その達成のための建設的なアイディアが、教員や、保護者や、理想的には生徒からもドンドンでてくるようになると望ましいのだろうが、そのためには一般企業にはあまり見られないたくさんの障壁がありそうだ。

具体的な事例を知りたかったのでweb検索したところ、事例発表会が予定されていたのに、3月23日にすでに終了していた。

とても残念。

ゼミ日記で竹田先生がこんなことを書いている。

「変数の混交」 ふと、自分がケース研究をしていた時のことを思い出しました。
 掲示板がなかったその当時は、先生と定期的にミーティングをして、指導手続きの修正をしていきます。
 ついついやってしまったのが、現在の指導手続きに効果がないと分かると別の方法を思いつき、すぐ実践してしまうのです。
 結果的には効果があったものの、二つ以上の新しい介入を同時にしてしまい、ミーティングの時「何が有効だったの?」と質問されて初めて気が付くという、情けない状態でした。

決して情けない状態ではない。指導に効果があったのだから、むしろ誇らしい状態だ。今では「何が有効だったのだろうか?」と考えられることからすれば、望月先生の言う「○→×」型に近い学習だったとも言えるのではないだろうか?

研究では、どんな環境設定が子どもの学習に効果があったのかを調べるために、変数をできるだけ統制して、変数の混交がなくなるように工夫する。

しかし、学校で子どもを指導しながら同じように変数を明らかにして行くことは、不可能ではないにしてもかなり難しい作業だと思う。変数の統制をする時間的、機会的な余裕がないのが現実だ。

学校で大切なのは「変数の混交をしないようにする」ことではなく、「変数が混交しているときにはそれに気づくこと」ではないだろうか? いくつもある変数の候補から、ほんとうは指導に効果がない変数を効果がある変数であると思い込んでしまうと、「これがうまくいくはず。前にもうまくいったから」という思い込みで、効果のない指導を続けてしまったり、他の先生に「こうすればうまくいきますよ」と、根拠の薄いhow-toを伝授してしまうかもしれない。

指導がうまくいった理由はこれかもしれない、これかもしれない、あるいはこれかもしれない...と、指導場面に多数存在する剰余変数をできるだけたくさん考えられるようになることが重要だと思う。そうすれば、同じ方法や教材を使って次にうまくいかなかったときには、他の可能性を試してみれるから。

日本の大学生の43.5%、高校生の45.9%がイラクの地理的な位置がわからないらしい。米国についても大学生の3.1%、高校生の7.2%が誤答し、中には「中国」と間違えた回答もあったという(日経新聞, 2005.2.23)。

残念ながら、この調査を行なった日本地理学会のHPには関連する情報が公開されていなかった。よって、誰にどんな調査を行なったのかは不明であるが、10年以上前に米国の大学に留学していたときに、ルームメイトのタイ人留学生が「信じられない!」と言って見せてくれた、大学の地理の教科書を思い出した。

そこには(たしか) "Africa is not a country". と書いてあったのだ。日本もいよいよアメリカ並みだ。

ところで、上記の学会の専門委は「高校の地理歴史では世界史だけが必修で、高校生の半分が地理を学んでいない。このため歴史と地理とをバランスよく学ばせることが大事だ」と訴えているそうである。イラクやアメリカの位置なんて中学までに学ぶのかと思っていたので違和感を覚えた。

どうも教科教育関係のこうした報告や提言は、少なくとも外野からみているかぎり、授業時間数やそれによる教員数の確保のような「縄張り争い」に見えてしまう。現行の時間割で教材や指導方法を工夫すると「これだけ教えられます」といった報告には興味が持てるのだが....

「問屋」を「豚屋」、「田園地帯」を「電園地帯」と答えた小学生が多かったという財団法人総合初等教育研究所(岐阜県羽島市)がまとめた結果を各種メディアが面白おかしく報じている。

確かに他にも「赤十字」を「あか十字」と読んだり、「三日月」が読めなかったりして、大丈夫かなと思うところもあるのだが、反対に、「高そう(層)ビルが建つ」や「大とう(統)領の演説」などは80年に行われた同じテストのときよりも多くの子どもが正答している。

どうやら単純な漢字のテストらしく、言葉の意味がわかるかどうかについては検討していないらしい。だから、子どもたちが「問屋」を知っていて「豚屋」と書き間違えたのか、それとも「きっと豚肉を配送する店のことを豚屋というのだろう」と推定して書いたのかは謎である。

さらに、「読本」(「とくほん」と読んで教科書のこと)や、「畑に肥(こえ)をやる」など、子どもたちの日常生活ではほとんど使われないような言葉も出題されている。前者は「教科書」、後者は「肥料」なら、どのくらいの正答率になるか興味があるところだ。

かつて、知能テストが文化的・人種的背景や経済的な状況のバイアスを受けることを批判されたのと同じで、このテストの得点も子どもたちが現在生活している言語共同体のボキャブラリーに大きく依存していそうだ。

このテストの結果のみから、むやみに日本語力や漢字力が低下したと嘆いたり批判したりするのは妥当ではないだろう。

ところで、財団法人総合初等教育研究所という組織、googleで検索しても、タウンページで探しても見つからない。この時代にホームページがないとも思えないのだが.....

OECD(経済協力開発機構)が昨年実施した、国際的な学習到達度調査(PISA)の結果が公表され、日本の児童生徒の学力低下があらためて浮き彫りにされたと伝えられた。

このことに関して、100%同感という新聞記事を見つけたので、そのまま引用します。

子どもたちに罪はない。「学習者はいつも正しい」--インストラクショナルデザインの鉄則です。

耳塚寛明先生(お茶の水大学)PISAが改めて浮き彫りにしいたのは、大人たちの問題である。丁寧な分析なしに短絡的な政策を通してしまう、日本の教育政策と教育研究者の水準である。根拠を明示し、誰もが納得できる論理で立論する−PISAが求めたこの意味での「読解力」を私たち自身が欠く。子ども以前に、大人たちの学力低下が問われている(日経新聞 2005.1.22, p.29)。

桜美林大学の潮木守一先生によると、少子化にもかかわらず、2021年度には首都圏で教員不足の事態に陥る危険性があるらしい。今後数年間で大量の定年退職者がでるからだ。ただ、これも一過性で、これにそのまま対応して大量に採用すれば、そのあと需要が少なくなって、再び就職難が来るのは間違いない。

潮木先生は中長期の正確な教員需要を予測するために、統計の取り方など、かなり基本的なところから見直しをするべきだと主張しておられる。

上記HPには、都道府県別の分析結果も掲載されている。下の図はそこから引用したもの。徳島県は「安定」。常勤採用を抑えて非常勤を多く雇っている成果だろうか....

うちの大学を卒業・修了して、教員採用試験を受験する学生さんにはとりあえず、赤い地域を狙うよう勧めるということかな。

kyoinjuyou
tokusimakyoikucenter

新設された徳島県立総合教育センターを見学に行ってきました。昨年末のことです。

特別支援教育課の飯田先生にお会いしにうかがったのですが、国府養護学校の教材データベースをリンクしていただくため、情報教育課にも立ち寄りました。

それにしても立派な建物。敷地も広いし、部屋や臨床のための設備も立派です。プレイルームの遊具はオランダから取り寄せたそうです。

会議室や研修室も整っています。サマースクールなどの教員研修は将来的にはこちらで開催するほうがいいのかもしれません。

また、すでに近隣の保護者から教育相談の要望がたくさん来ているようですが、スタッフが足りないので、ウェイティングリストができてしまっているそうです。

部屋は十分にあるそうですから、大学に臨床の部屋を増やすより、提携して、こちらの施設で大学が臨床サービスを提供してもいいのでは?とも感じました。

所在地が板野なので、県南の人たちからは「遠すぎる」と批判されているそうですが、これだけの施設を市内中央部に作るわけにもいかないでしょうから、これは仕方がないと思います。

情報教育課の話では県内の学校(高校と盲聾養護学校)にはパソコンを使ったTV会議システムが設置されたそうですから、そのへんをうまく利用していく方法を見つけるというのも一案でしょう。さっそく来年度のケース研究では活用してみたいと思っています。

先日、某大手企業のマネジメント研修をやってきた。

その業界では、上司から誉められることはほとんどなく怒られることが多いそうだ。部下を誉めることも少なく、怒ったり叱ったりの方が多いという。

学校でも同じ。先生たちにとっても、子どもたちを誉めることはかなり難しい。注意したり、叱ったりというのはごくごく自然にできるそうだが....

米国の学校に見学に行くと、"Good boy!", "Nice job!", "Well done"などと、おだてているかのように誉めまくっている風景を目にする。

日本では企業でも学校でも《できてあたりまえ》という風土がある。《できてあたりまえ》の世界では、怒られないように、叱られないように、行動が動機づけられる。

行動分析学的に言えば、好子出現による強化よりも、嫌子回避による強化の随伴性が効いていることになる。喜びや楽しさよりも、不安や、よく言ってスリルを味わう文化である。社会的・経済的に比較的横並びで、みんなそろって進めたときはまだよかった。でも、現在のように多様性やバラツキが大きくなると、これではついていけない子どもも増えるだろう。

今年のサマースクールでは、演習の一つとして、参加者の先生方に、「教室で使える誉め言葉」をできるだけたくさん考えていただいた。まとめて徳島ABA研究会のHPにアップしてあるので、ぜひご利用いただきたい。

2000年度からコラボレーションプロジェクトを継続している徳島県立国府養護学校が博報賞を受賞しました。

教師の専門性を向上させる「専門性マトリクス」の取組みや、自閉症児への指導や教材が評価されたようです。詳しくは、こちらから。

先生たちの日々の努力が第三者から認められたということです。おめでとうございます。

昨日は附属養護学校で事例研究会をやっていたんですが、研究主任の猪子先生と、附属でコラボレーションプロジェクトが立ち上がった年のことを想いだして感慨にふけってました。

当時、事例として取り上げられた子どもさんも小学部から中学部に上がり、偶然、本日開催されている研究授業でお目にかかりました。自立課題の途中で助けが必要になったとき、先生のところまで歩いていき、仕事をしている先生の肩をたたいて注意をひいて、「助けて下さい」のカードを見せる、いうのが指導目標の1つです。ちょうど「肩をたたく」というところを学習中なのですが、何回か自分から肩をたたくことができていました。そして先生が「何ですか?」って振り向くと、ニコって笑うんですね。大きな進歩です。子どもさんも先生たちも。

学校って企業のようには急激には変わりませんが、継続して地道に取り組んでいれば、これだけ変わるんだ、って、またまた実感しています。

sesameworkshop.gif

最近、日本でもようやく「根拠に基づく教育(Evidence-Based Education)」というキーワードが聞かれるようになってきたようだ。しかも行動分析学以外で(行動分析学では太古の昔から常識だったわけだけど)。

どうも、医療現場で「根拠に基づく医療(Evidence-Based Medicine)」という概念が浸透しつつあり(webでサーチするとこればかりヒットする)、発達障害や精神障害のケアに取り組んでいる専門家(医療・心理を含めて)の間に、この概念が普及しつつあるようだ。

根拠をどのようにとり、その根拠がどこまで通用するのかについては慎重に考えないとならないけど、責任をもった教育を行うためのひとつの要件として取り入れられるようになればと思う。

ちなみに、テレビの教育番組であるセサミストリートが数多くの実証的な研究によって開発されていて、その意味では根拠に基づいていることはあまり知られていないだろう。

詳しくはこちらから。
「Learn More」をクリックして、「▼」の上にカーソルをおくと画面がスクロールしていく。「Next Topic」をクリックして同様に次のページに進んでいくと、文献リストも表示される。

ナビゲーションはいいとはいえません(ここには「根拠」はないかも ^^)。

スキー実習で知りあってからデータ入力などのアルバイトをお願いしていた院生のMくんが見事に教員採用試験に合格した。

実はMくん、合格はこれで2回目。しかも今回はほとんど受験勉強をしなかったという。

どんなコツがあるのか聞いてみた。

コツ1:まず、教職科目をおさえること。

教職科目は全国共通。大学で教えている内容が多く、専門的な内容も多いので、教採にでる問題は典型的でパターン化されたものが多い。だから勉強すれば得点は上がる。関連する授業もあるので、すべての授業で内職してまで受験勉強するより、しっかり聴いた方がいい講義もある。

コツ2:受験する地域の出題傾向をつかむ。

専科に関しては過去問題を徹底的に調査して、出題傾向をつかむ。頻度の高い問題や出題形式に備えておく。

コツ3:面接や小論文では出題者の意図をよむ。

質問によって何を評価し、判断しようとしているのかを考えてから答える。教育時事に関することは、大学の授業でで現職の先生や教官と討論し、深く考える機会があったのが役に立った。

自分は、常々、教員採用試験ではまず全科の得点(特に小学校)を上げるように、高校受験までの内容を完全マスターすべしと考えている。また、これらは大学に入ってからは勉強する機会が少なくなるので、むしろ、大学受験のとき<まで>に勉強し、あとはそれを維持するために、定期的に問題集などを続けるのがいいのでないかと思っていた。それについて尋ねると確かにそうですとのこと。したがって、最後のコツは、

コツ4:大学受験までに勉強したことを保持するように問題集を続ける。

となるだろう。

とりあえず、Mくん、おめでとう。

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今年は福岡教育センターでサマースクールの出張版を実施した。

最初は通常の研修依頼をいただいたのが、担当の中野康子先生(福岡県教育センター特別支援教育部)がとても理解のある方だったので、

(1)講義形式の研修はやりません。
(2)研修後に事例研究や実践研究につながらない研修はやりません。
(3)全二日で実施するプログラムになっているので、一日でやるなら相当駆け足になります。
(4)参加者には事前課題をたっぷりやっていただきます。

という、こちらからの数々の提案(というか条件)をすべてのんで下さった。

参加者のほとんどは小学校・中学校の教員で(中には校長先生もいた!)、応用行動分析学も初めてという人が多かった。にもかかわらず、たいへん熱心に事前課題に取り組んでいただき、集合研修(8/9)も無事終了した。

先日、中野先生が終了後のアンケートとスナップ写真を送って下さった。

案の定、参加者の感想には「事前課題がたいへんだった」「進行がとても早かった」という声が多かったが、「新学期から活かしていこうと思った」という宣言もあり、ほっとした。

事例研究をどのように支援できるかという大問題は残されたままだが、出張版サマースクールも、地域の研修担当者のコミットメントと協力体制があれば実行可能であることが分かったのは収穫だった。

見えるものと見えざるもの無論、結果が最優先される勝負の世界だから、こうした「勘」などには頼れないという現実もうなずけるのだが、こうした「勘」がぴったりあてはまったり、外れたりすることが、運動の世界を限りなく深遠かつ開示している理由でもある。こうした「勘」を働かせることで、子どもたちの運動が一気に血の気を持ったもの、「いきいき」とした子供特有の「とんぼとり、今日はどこまでいったやら」のような終わりのないものとして、運動が拡大しだす・・・。

『勘』というと非科学的にも聞こえるが、もちろん、他の行動と同じように科学の対象になる。
行動分析学では intuitive control と言ったりするが、要は、どうしてそれが分かるのか分からないのに分かってしまうということだ。

少し前の日経新聞に、スポーツの練習には同じ動きを反復するより不規則な動きをした方が効果的なことが明らかにされたというような記事がのっていた。元論文はたぶんこれ。 たとえば「サッカーのゴールキーパーが球を補足する練習を右方向、左方向と分けて練習するより、不規則に練習したほうがよいことになる」そうである。

あたりまえのことのようだが、おそらく、これまで、統制された実験の結果として明らかにされたことがなかったということだろう。

ゴールキーパーが「球を補足する」という行動がうまく遂行されるためには、飛んできたボールをキャッチするという運動の前に、シュートを蹴る選手の体の動き、脚の角度、視線、ボールとの位置関係など、さまざまな刺激を観察する行動が自発されなくてはならない。

いつも同じ方向から同じ方向に跳んでくるボールをキャッチする練習では、補足行動は身に付いても、その前の段階の観察行動は身に付きにくい。観察行動と結果に随伴関係がないからだ。

シュートをランダムに蹴ることによって、ゴールキーパーの観察行動は意味を持つことになる(しっかり観察すれば、より高い確率でキャッチできるようになる)。したがってトレーニングも進むはずである。

上田先生がvon Dionysos bis Physis, und...で指摘していることで面白いのは、こうした、観察行動(予測行動)が強化されるような環境で、子どもたちが(たぶん、大人でも)「いきいき」としてくるところだと思う。

同じことはスポーツ以外でも言えるのではないだろうか? 結果が同じような問いかけや問題は「いきいき」させるような緊張感を生まない。「次はなんだろう?」「あれかな」「これかな」みたいな問いかけで、予測行動を引き出し、強化するような学習環境が、子どもに学ぶことの楽しさを教えるのかもしれない。

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国際行動分析学会の最終日に、ボストン郊外にある自閉症児のための学校 The New England Center for Childrenの見学ツアーに参加した。

 この学校は設立してから30年近い“老舗”の学校。設立以来、シドマン博士など、行動分析学の研究者との連携で、科学的な研究成果に基づいたカリキュラムを提供して、高い教育サービスを提供してきている(米国だけでなく、世界中から入学希望者が訪れるそうだ)。

 見学ツアーは1時間半くらいで、少しだけど授業も観察できた。教室内はフツーに構造化されているし(パーティションはもちろん段ボールじゃなくてきれいな既製品)、児童・生徒と教師の比率は1:1以上。IEPから指導目標とする標的行動を決めて、そのほとんどが日々、記録されている。教師は行動分析学関係の修士課程を修了しているか、あるいは近隣の大学で取得中だそうだ。教師の専門性育成、研修システムに対し、国から表彰を受けたこともあるそうだ(私立の学校でそのような表彰を受けたのはこの学校が初めてらしい)。

 とにかく、カリキュラムや指導方法が素晴らしいということよりも、あまりに潤沢な財政的環境に圧倒された。詳しくは徳島ABA研究会で報告しようと思うので、そのときの資料をいずれコラボネットにアップしよう。

学校への侵入事件が続発している。先日のニュースでは、学校の門は開かれたままで、監視カメラはあっても監視している人がおらず、警報システムはオフになっていた、という事実が伝えられていた。

 大阪教育大学附属池田小学校での悲惨な事件の後に、監視カメラなどを設置する学校が増えたということだが、モノをそろえるだけで「対策」がなされたとみなしてしまう、この国の(文科省の)思考の弊害があらわになっている一例だ。

 そもそも日本の公立学校には一日監視モニターの前に座って、侵入者をチェックするような人は配置されていない。監視者がほとんどいないのに監視カメラだけが設置されているという実態は、全国を見渡しても、たぶんそれほど珍しいことではないはずだ。

 校門を閉めておくという方針も形だけの対策である。学校の門なんて乗り越えようと思えばいくらでも乗り越えられるし、そもそも犯罪を意図した侵入者にとって、わざわざ門を通る理由はない。子どもや業者が通るたびにブザーがなってうるさいので警報システムは切ってあったというのは、問題こそあれ正直な話である。

 ほとんどの校長、ほとんどの教員には、監視カメラや警報システムというモノだけを導入するという
お役所先導の対策の無意味さは十分わかっているはずだ。ところが、かといってそれを表だって表明することはほとんどない。「お上のすることに文句を言うなら、それなりの罰がある」という《ルール》が、それが《本当の随伴性》かどうかは別にして、この業界を強力に支配している。

 それゆえに、お役所としては、お金をかけて設置したシステムがほんとうに機能しているのかどうか、評価する必要があったはずだ。全国の小中学校に×××台の監視カメラが設置されたことで安全対策の仕事が終わってしまっていたところに問題があると思う。

自閉症を持った子どもたちへの教育支援方法として「ソーシャルスト−リーズ」なるものが注目されている。

 音声言語の理解は苦手でも文章やイラストを読むと理解しやすい子どもたちに、活動の内容や作業の手順、学校や家庭で守らなくてはならないルールなどを説明するのに有効であるという評判だ。

 しっかりした実験や研究はまだそれほど行われていないようである。というか、もしかしたら単純に視覚支援の一つにすぎないのかもしれない。我々健常な大人でも、専門用語が飛びかう難しい話は、聞くより読む方が理解しやすい。それと同じことなら、格別に新しい考え方ではない。

 とはいえ、対応が難しい子どもたちを毎日相手にしている先生方や保護者の方に、少しでも役に立つ情報はないかとネットを検索していたら、こんなサイトを見つけた。

Polyxo.comでは、自閉症の子どもたちへの指導方法がわかりやすく整理され、紹介されている。ソーシャルストーリーズの作成方法や具体例もアップされている。応用行動分析学についての解説もある。特に「データ」についての説明は的を射ていて、このサイトの情報を信用するに値するものにしている。

 こういうサイトが日本にも増えるといいのだが.....

藤原さんの『「考えることは楽しい」ことを教える』を読んで考えたこと。

とりあえず「考えること(とその前提となる「気づく」「見る」いうこと)」を体験させるような仕組みを考えたい,というのが私の発想です.

《「考えることは楽しい」ことを教える」》という指導目標には2つの問題がひそんでいる。

1つは「考える」という行動がとても広範囲な行動群(クラス)を含んでいること。「彼女とのデートのことを考える」、「バイト先のうるさい先輩のことを考える」、「TSUTAYAにいつCD返し行くか考える」... これらはすべて「考える」という行動だが、「考える」ことを教えようとしている人たちは、もっと限定した「考える」を考えているはずである。

 文科省の「考える力」を育てるという教育目標が、目標自体は立派なのに、とかくスローガンで終わりがちなのは、「なにを、どんなふうに考えるのか」という目標の具体化がほとんどなされていないからだと思う。伝統的な心理学の知能に関する研究を引用するまでもなく、汎用的な知能というのは存在しない。数学や物理学の専門家が彼らの専門領域では「論理的思考」を発揮しても、専門領域以外の、たとえば対人スキルになると、必ずしも「論理的思考」のエキスパートではないことからも分かるように。

 たとえば、私のパフォーマンスマネージメントに関する講義では、学生に自分たちが取り組んでいる問題を論理的、行動的に分析して解決策を導くためのトレーニングをしている。学生たちはダイエットや友達関係や節約など、自分たちの生活に密着した問題を論理的に分析することで、行動に関する論理的思考をマスターしていく。授業中に行う様々なエクササイズを通して気づくのは、考える解の数に大きな個人差があることである。たとえば、タバコのポイ捨ての原因をできるだけたくさんあげるように指示すると、1、2つの答えを書いて終わりにする学生と、5つ6つ書いて制限時間になってもまだ考えている学生もいる。そこで《問題行動の原因を網羅的にできるだけたくさん考える》が指導目標になる。そして、この指導目標を教えることは《問題解決の方法を網羅的にできるだけたくさん考える》には般化するかもしれないが、他の領域(たとえば、《徳島から青森まで旅行する路線をできるだけたくさん考える》)に般化しなくても驚きはしない。
 
 広範囲な行動群(クラス)を含んでいる指導目標は、まずは具体化していくつかのサブクラスに分けるべきだ。そして、一つのサブクラスを教えることが他のサブクラスに般化するかどうかについては、般化の確証が得られるまでは謙虚な姿勢を貫くべきだと思う(○○の体験授業をすることで、クラスのみんなの「学ぶ力」が向上しました...なんて報告はほとんど「ジャロにいっちゃろ」もんだと思う)。
 
《「考えることは楽しい」ことを教える」》という指導目標にひそむもう一つの問題は、「〜は楽しいことを教える」というところだ。「興味・関心」を指導目標とするのが不適切であるのと同じで、「〜は楽しい」「〜に興味がある」「〜に関心を示す」といった変化は、教えるべきコトを教えた後で、学習者の選択に任せられるべき、個人の価値観に関わることだからだ。

 学校教育をはじめ、公的な教育システムが一人の人間の価値観に及ぼせる影響は重要で重大ではあるが、絶対でもないし、すべてでもない。家庭環境、友達関係、テレビなどのメディアなど、他にも影響を与えることは山のようにあるからだ。理科の実験に確かに楽しんで参加していたのに、休み時間は友達とキャッチボールに熱中している子どもに「もっと理科に興味を持ちなさい」というのはナンセンスである。

 もちろん価値観を広げる機会は常に提供されるべきである。喰わず嫌いで納豆を食べない子どもには一度でいいから納豆を食べさせてあげたい。でも、食べてもやっぱり口に合わないようなら「このネバネバを楽しみなさい!」と口に納豆を押し込み続けるのは止めてほしい。むしろ、トムヤンクンでもボルシチでもいいから、食人生を豊かにするための他の食べ物を体験させてあげよう。

「興味・関心」が指導目標になってしまうのは、子どもが勉強しなかったり、できなかったりする原因を「興味・関心」の欠如に誤って帰属してしまっているからだと思うが、この話はまたいつか。

我々は、考えると考えないと分からなかったことが分かるから考える。だから、考えることを増やすためには、考えたら分からなかったことが分かるように教えなくてはならない。考えたら分からなかったことが分かるようになると楽しい。でも、楽しいから考えるわけではないのだ。

藤原さんの『デジカメとPCを使う』を読んで考えたこと。

お話作りを通じて,彼らに“表現の自由さの享受”や“世界に対する自分の視点の再構築”をして欲しいと思う我々にとっては,何らかの手立てを考えてクリアすべき課題である.  

教育実習の指導教官と実習生が評価授業について打ち合わせをしているところを、附属養護学校でたまたま見学させてもらった。評価授業とは教育実習の最後をかざる授業で、大学の教官も観察して成績をつける。打ち合わせを、少し脚色すると、こんなかんじであった(ちなみに、附属養護学校には知的障害や自閉症をもったお子さんが多く入学されている。彼らひとり一人の教育ニーズにあわせた指導を目指している。そして、こうした特別支援教育に関して文科省のしばりはとても緩い。某調査官の言葉を借りれば「何やってもいい」ことになっている)。

指導教官:「どんな授業をしたいですか?」
実習生A:「エアロビクスとか面白いと思うんですけど。私、最近、習ってるんですよ」
指導教官:「そう。発想は面白いね。でも、うちのクラス子どもたちは、おおまかな動作をゆっくり模倣できるくらいだから、難しいかもね。あなたは、どうですか?」
実習生B:「パッチワーク作りとか考えたんですけど、ちょっと難しいかもしれません。クッションのカバーとかならできるでしょうか?」
指導教官:「そうだね。授業をいくつかに分けて、部分部分をあらかじめ作っておいて、評価授業で完成させるようにすればできるかもね」

 指導教官の先生はこれまで一緒にプロジェクトをやったこともある方で、親しくさせていただいている。しっかりした教育観をもたれている先生だ。しかし、私にはこのやりとりがとてもショックだった。授業で「何を教えるのか」という指導目標に関する話し合いがなかったからだ。

 「どんな授業をするかをまず考えて、何を教えるのかはその次」という発想が学校教育に蔓延していて、これが教えるべきことを教えきれない理由の一つになっていることは前々からぼんやり認識していた。それなのに、ここ数年、学校と協力していろいろプロジェクトを進めるうちに、そのことをすっかり忘れていた自分に気がついた。ダブルショックであった。

 すぐにこのクラスを担任しているもう一人の先生に事情をきいた。すると面白いことが分かった。もちろん附属養護でも個別指導計画が導入されていて、ひとり一人の子どもごとの年間目標と学期目標が決められている。ところが、プライバシー保護の観点から、個別指導計画は実習生に見せていないというのだ。それなら指導目標を先に考えるという発想が抜けてしまうのも納得がいく。

 指導目標をまず設定して、それを教えるために最適な指導方法や教材はその次に考えるという発想は、特別支援教育だけじゃなく、教育のすべての分野での基本だと思う。それを教育実習で教えられないというのはたいへん残念だ。というか、めでたく教員に採用されてから、OJTや研修で教えなくてはならないのは効率が悪すぎる。
 
 総合的な学習の時間でも同じことが言えると思う。「インターネット」とか「交流学習」とか「郷土の名産品」など、どんな授業をするかが先に来るのではなく、何を教えたいかを最初に決めるべきだと思う。

『せんせい、ニュアンスじゃだめですか?』

先日、授業中に学生のレポートを添削しているときに受けた質問だ。

回答の意味が分からなかったので提出者の学生に聞いたら、正解と同じ意味だという。
「ニュアンス」で感じ取って欲しいとのこと。

学生や院生の指導をするたびに痛感するのが、彼らの日本語技術の未熟さだ。

話をするだけならまともに会話もできるのだが、文章にすると何を言っているのか分からなくなる。レポートや論文を書かせたり、webの掲示板で討論させたりすると、とたんに露呈する問題だ。

自分もそれほど上手な文章が書けるわけではない。でも、分かりやすく、正確な文章を書こうとは常に気をつけている。

論文の書き方や文章作成法に関する本を読みあさったこともある。分かりやすく、正確な文章を書くためのルールが簡単にまとめられているものも多い。そうしたルールを読んで少しばかり練習すれば、作文の力は確実に向上する。

作文の力をつけるインストラクション、誰か作ってくれないかなぁと待ち望んで10年以上。
自分で作らないとならないかな。

ちなみに私の推薦図書は以下の2冊。

『日本語練習帳』 大野 晋(著) 岩波書店
『日本語の文章術-文章の書き方百科-』 奥秋義信 創拓社

『せんせい、ニュアンスじゃだめですか?』

先日、授業中に学生のレポートを添削しているときに受けた質問だ。

回答の意味が分からなかったので提出者の学生に聞いたら、正解と同じ意味だという。
「ニュアンス」で感じ取って欲しいとのこと。

学生や院生の指導をするたびに痛感するのが、彼らの日本語技術の未熟さだ。

話をするだけならまともに会話もできるのだが、文章にすると何を言っているのか分からなくなる。レポートや論文を書かせたり、webの掲示板で討論させたりすると、とたんに露呈する問題だ。

自分もそれほど上手な文章が書けるわけではない。でも、分かりやすく、正確な文章を書こうとは常に気をつけている。

論文の書き方や文章作成法に関する本を読みあさったこともある。分かりやすく、正確な文章を書くためのルールが簡単にまとめられているものも多い。そうしたルールを読んで少しばかり練習すれば、作文の力は確実に向上する。

作文の力をつけるインストラクション、誰か作ってくれないかなぁと待ち望んで10年以上。
自分で作らないとならないかな。

ちなみに私の推薦図書は以下の2冊。

『日本語練習帳』 大野 晋(著) 岩波書店
『日本語の文章術-文章の書き方百科-』 奥秋義信 創拓社

日経産業新聞が遠山前文科大臣にインタビュー。『学びのすすめ』など、自ら「大臣数人分の仕事をさせてもらった」と豪語するいくつかの文教政策について述べている(日経産業新聞,2003/10/11)。

・ゆとりから「確かな」学力へ
・指導力不足の教員は転職
・指導要領は必要に応じて常に見直していく
・大学活性化のための競争原理の導入
など、それぞれの政策、論点は納得がいくものばかりだが、どうも説得力に欠ける。

なぜだろう?

たとえば、遠山氏は「確かな学力とは....二十世紀型受験技術ではない....業者テストのテストに戻ることとは全然違う」と指摘している。しかし、「思考力」「判断力」「課題探求力」という耳あたりのよいキーワードをだすだけで、それがどんな力でどのように養うべきかは、総合的学習の時間の導入に明らかなように現場任せである。

現場任せが悪いというのではないが、現場に任せる以上は、結果がうまくでないことには責任をとらなくてはならない。決して現場のせいにはすべきではない。

それに、業者が介入できるくらい具体的に指導目標が決まっていれば、「思考力」「判断力」「課題探求力」のトレーニングに業者が参入することは、《競争原理が働く》という点からも、受験という巨大な動機づけマシーンを使えるということからも、マイナス面ばかりではなく、むしろプラス面が多いはずだ。

大学改革についても「国の関与は最小限にし、後は大学の独自性を発揮してもらう仕組みだ」とあるが、果たしてそうだろうか? 大学は中長期計画を作成し、文部科学省に提出することになっている。本省あるいは、その配下の評価機関の認可が必要なのだ。独立法人化後には、本省から大学経営に直接関わる役人が配置されるというウワサもある。

仕組みとはその仕組みが設計通りに機能して初めて評価されるものだ。
「そうなるような仕組みだ」と、仕組みだけつくってバイバイではあまりに無責任。

もちろん、退任は遠山氏の責ではない。一国の教育行政が担当者が変わるたびに変わってしまうことが問題なのだ。

「大臣数人分の仕事をさせてもらった」からには大臣数人分のアフターケアをお願いしたいものだ。

日経産業新聞が遠山前文科大臣にインタビュー。『学びのすすめ』など、自ら「大臣数人分の仕事をさせてもらった」と豪語するいくつかの文教政策について述べている(日経産業新聞,2003/10/11)。

・ゆとりから「確かな」学力へ
・指導力不足の教員は転職
・指導要領は必要に応じて常に見直していく
・大学活性化のための競争原理の導入
など、それぞれの政策、論点は納得がいくものばかりだが、どうも説得力に欠ける。

なぜだろう?

たとえば、遠山氏は「確かな学力とは....二十世紀型受験技術ではない....業者テストのテストに戻ることとは全然違う」と指摘している。しかし、「思考力」「判断力」「課題探求力」という耳あたりのよいキーワードをだすだけで、それがどんな力でどのように養うべきかは、総合的学習の時間の導入に明らかなように現場任せである。

現場任せが悪いというのではないが、現場に任せる以上は、結果がうまくでないことには責任をとらなくてはならない。決して現場のせいにはすべきではない。

それに、業者が介入できるくらい具体的に指導目標が決まっていれば、「思考力」「判断力」「課題探求力」のトレーニングに業者が参入することは、《競争原理が働く》という点からも、受験という巨大な動機づけマシーンを使えるということからも、マイナス面ばかりではなく、むしろプラス面が多いはずだ。

大学改革についても「国の関与は最小限にし、後は大学の独自性を発揮してもらう仕組みだ」とあるが、果たしてそうだろうか? 大学は中長期計画を作成し、文部科学省に提出することになっている。本省あるいは、その配下の評価機関の認可が必要なのだ。独立法人化後には、本省から大学経営に直接関わる役人が配置されるというウワサもある。

仕組みとはその仕組みが設計通りに機能して初めて評価されるものだ。
「そうなるような仕組みだ」と、仕組みだけつくってバイバイではあまりに無責任。

もちろん、退任は遠山氏の責ではない。一国の教育行政が担当者が変わるたびに変わってしまうことが問題なのだ。

「大臣数人分の仕事をさせてもらった」からには大臣数人分のアフターケアをお願いしたいものだ。

法政心理ネット