日本心理学会第77回大会チュートリアルワークショップのフォローアップ(その3)「内潜的行動/私的出来事」の取扱い

 

前回、万引きの「衝動」を測定することについて書きましたが、今回はその続きです。

  「衝動」と呼ばれる感覚は、それが何に対する「衝動」かによって性質が変わってくることでしょうか、たとえば、“ざわざわ”したり、“いてもたってもいられなく”なったり、“胸のあたりがきゅー”っとするような感覚ではないかと思われます。
 自分は万引きへの「衝動」は感じたことがありませんが、一日中テニスをして温泉に入った後、仲間がお座敷に集まり、乾杯の一声までビールを飲むことに待たされると、腰からお腹のあたり、そして喉のあたりがうずうずするような感覚をおぼえます。

 行動分析学ではこうした刺激を「私的出来事」(private event)と呼び、分析の対象とします。たとえば、Capriottiら (2012)ではチック症を示す子どもに対するDROと反応コストの効果を比較検討し、どちらも同じように効果があることを示していますが、チックだけではなく、その前兆となる「衝動」も測定し、DROと反応コストの影響を検討しています。

  • Capriotti, M. R., Brandt, B. C., Rickftts, E. J., Espii, F. M., & Woods, D. W. (2012). Comparing the effects of differential reinforcement of other behavior and response-cost contingencies on tics in youth with Tourette syndrome. Journal of Applied Behavior Analysis, 45(2), 251-263. doi:10.1901/jaba.2012.45-251

 行動分析学の土台となっている徹底的行動主義では、第三者からは観察できない刺激(例:歯痛など)や行動(例:不安や思考やイメージなど)も研究の対象とします。ただし、こうした刺激や行動が、顕現的な行動よりも時間的に先んじているからというだけで、顕現的な行動の原因となっているとは考えませんし(例:ビールを飲むのはビールへの衝動を感じたからではない)、私的出来事もむしろ従属変数として、何が制御変数となるかを検討します(例:どんな条件でビールへの「衝動」を感じるのか)。また、私的出来事は、本人であれば観察可能な現象であり、本人であっても観察できない、あくまで理論上の存在である媒介変数や仮説的構成体のことではありません。内観法を使うといっても、それは心的世界の構造を知るためではなく、あくまでも自分の行動や体内の刺激の観察と測定が目的です。

 徹底的行動主義が、従来の行動主義(徹底的行動主義と対比させる文脈では「方法論的行動主義」と呼ばれます)が土台としている論理実証主義や操作主義と大きく異なる点は、実用性を客観性に優先させるところにあります。
 私的出来事は本人にしか観察できず、このため客観性を保証できません。このため、ワトソンは心理学が科学たるためには私的出来事を対象から外すべきと論じていたわけです。これに対し、スキナーは、客観性が保証できないという理由で科学の対象から外す必要はないと考えました。

 自分で自分の鼻を触るという行動を考えましょう。この顕現的行動は、自分にも、第三者にも観察できます。一定の条件を整えれば、自己観察と第三者観察の間に高い一致率を保った観察も可能になります。つまり、客観性が保証できることになります。

 次に、自分が自分の鼻をさわっている様子を思い浮かべるという内潜的行動を考えましょう。これは、本人になら観察でき、回数も測定できますが、第三者にはできません。
 論理実証主義を貫くと、客観性を重視するため(「truth by consensus」の要件です)、顕現的行動は科学の対象になるが、内潜的行動は科学の対象からはずれるということになります。
 ところが、突き詰めて考えると、顕現的な行動でも、客観性が確保されない場合があることがわかります。たとえば、鼻を触るという行動について、誰も手伝ってくれる人がいなくて、自分一人で観察する場合はどうなるでしょう。まったく同じ観察対象なのに、誰か他の人が確かめてくれないからという理由で、客観性が保証できなくなってしまいます。
 複数で観察できるからといって信頼できる観察かというと、そういうわけでもありません。たとえば、子ども同士のやりとりの中で「友達を遊びに誘う」行動を直接観察で測定しようとしたら、客観的な測定を保証するためには、行動を具体的にいくつかに分けて定義したり、観察者訓練をしたりと、様々な条件設定が必要になりますそしてそこまでしても観察者全員の基準が変化してしまう、観察者ドリフトという現象も確認されています。つまり、本人以外の第三者から観察可能かどうかという問題と、観察が正確かどうかという問題は別次元の、独立した問題なのです。

 科学にとって何がより重要かという問いに対し、スキナーは、客観性の確保よりも、有効性であるとしています。プラグマティズムです。プラグマティズムは「実用主義」とか「実際主義」とか、文脈によって訳し方が異なるようですが、ここでは科学者が知りたいことを知るのによりうまくいくことを重視するという意味です。上の例で言えば、自分が自分の鼻をさわっている様子を思い浮かべる行動について知りたいのであれば、それを観察できるのが本人しかいなくて、第三者が正確さを確認してくれないからといって、研究対象からはずすのは本末転倒です、ということになります。

 徹底的行動主義は、論理実証主義の立場はとりません。真理の基準は公的一致ではなく、行動をどれだけ予測し、制御できるか、そしてそれがどれだけ再現できるかです(佐藤, 1996)。

  • 佐藤方哉 (1996)認知科学と行動分析学との<対話>は可能か  哲學, 100, 275-299.

 ただし、これはあくまでも徹底的行動主義、つまり「考え方」の話です(「科学哲学」の話といってもいいでしょう)。実際の学術研究となると、少し話が制限されてきます。科学者の行動は、現実的には、ピアレビューによる審査で学術雑誌への掲載が決まるという随伴性によって決まってくるし、こうした基準はいい意味でどうしても保守的になるからです。
 観察可能性と観察信頼性が独立しているとはいえ、私的出来事の測定では、顕現的行動観察について標準的になっている観察者間の一致率を測定できませんから、それがない研究を、これまではそのようなケースがほぼないのにも関わらず「受理」する査読者や編集委員や編集委員会があるかどうかということになります。
 そして、私の知る限り、行動分析学関係の学術雑誌で、私的出来事のみを、私的出来事として明示して書いた論文を掲載する可能性がある雑誌は、Journal of Precision Teaching and Celeration(以前はJournal of Precision Teaching)くらいです。この雑誌はOgden Lindsley博士らが中心になって開発したPrecision Teachingという枠組みで行われた研究を掲載する雑誌で、内潜的行動(“inner”)を測定したり、変容したりする研究も数多く掲載されています(具体例:Kubinaら, 1994)。

  • Kubina, R. M., Haertel, M. W., & Cooper, J. O. (1994). Reducing negative inner behavior of senior citizens: The one-minute counting procedure. Journal of Precision Teaching, 11(2), 28-35.

 Precision Teachingの方法論は非常に独特で一言では書けないし、Lindsley先生は(すでにお亡くなりになっていますが)、本当にユニークな人で、論文はどれをとっても面白いです。興味がある人がぜひ探して読んでみて下さい。Precision Teachingの方法論で内潜的な行動の変容に取り組んだ研究を展望したCalkin(2002)によれば、内潜的行動も顕現的行動と同様のふるまいをみせるそうです。数多くのそうしたデータから、本人によ内潜的行動の測定の妥当性、信頼性がある程度示されるというのが彼女の見解であり、これは、公的一致より、行動の予測と制御の再現性を重視する徹底的行動主義の考え方とも一致しているところです。

  • Calkin, A. B. (2002). Inner behavior: Empirical investigations of private events. The Behavior Analyst, 25(2), 255-259.

 Precision Teachingをやっている人たちは、ちょっとオタクの集まりっぽいところがあるし、JEABやJABAなどの主流派の雑誌を読むと「“研究の対象とする”と言ってるくせに、ちっとも研究してないじゃん」ということになりそうですが、これも必ずしもそうでもありません。

 我田引水になりますが、たとえば島宗ら(2000)では営業担当者が顧客のニーズをくんだ提案を考えることを標的行動としています。測定しているのはワークシートに記述された提案ですが、文字を書く行動を標的としているわけではありません。書く前の「考える」という内潜行動を訓練しているわけです。ただ、その測定対象が、考えたことを書かせたその所産であるということです。

  • 島宗 理・磯部 康・上住嘉樹・庄司和雄(2000)小規模なソフトウェア開発会社における企画提案思考ツールの開発と遠隔支援  行動分析学研究, 14(2), 46-62.

 前述のLindsley先生は、このような内潜行動や私的出来事や、あるいは“共感性”のような抽象的な概念を、具体的で、測定できる(必要なら客観性も確保できる)顕現的行動を介して測定することを行動の顕現化("externalizing behavior")と呼んでいました。文章理解や文章題、問題解決など、考えることを教えるような介入のほとんどはこのようなことが行われているわけで、研究で測定しているのは顕現化された行動でも、実際に変容しているのは内潜的行動だという研究は数多くあるわけです。研究者がそのように主張していないだけです。主張したら、内潜的行動が顕現的行動と共変している“客観的”な証拠を提出しないとならないわけで、それは技術的には不可能だからです(ただし、自己報告行動の正確さに影響する要因を調べる研究も行われています、例:Finneyら, 1998)。

  • Finney, J. W., Putnam, D. E., & Boyd, C. M. (1998). Improving the accuracy of self-reports of adherence. Journal of Applied Behavior Analysis, 31(3), 485-488. doi:10.1901/jaba.1998.31-48

 今年の日心では「行動主義誕生100周年記念シンポジウム」があり、残念ながら私は見逃してしまったのですが、ツイートを読んだり、その後に登壇者も含めて複数の方からお話を聞いたところ、第三者が観察できない私的出来事の取扱についても議論がなされたそうで、そのときの論調は「研究の対象とするが、なかなかできない」だったようです。これに対し「いやいやそんなこともないですよ」というのが今回の補足でした。

 私的出来事の測定もあわせて測定している研究もあれば、私的出来事の変容に直接焦点をあてた研究もあれば、実際変容の標的は私的出来事でも、測定しているのは顕現化した行動という研究もあり、それらをあわせれば、「研究の対象とし、実はけっこうやっています」というのが私の主張です。

 もちろん、これは私の考えで、同じ行動分析家でも「private」の定義一つとっても多様な見解があります。興味のある方は The Behavior Analyst 第34巻第2号の特集をお読み下さい。

 日心WSのフォローアップシリーズはこれで終了です。ありがとうございました。

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