再考シングルケースデザイン:吉田寿夫先生からの問いかけに答える(その7):介入の副作用について

吉田先生からは「多くはシングルケースデザインによる研究のみに該当することではありません」という注釈つきで、数多くの「実際の適用に対する批判的コメント」をいただきました。

ここから先はその中からいくつか選んで回答させていただきます。

○副作用について考慮しているか?(物事は基本的には「両刃の剣」)
・標的行動以外の側面(変数化されていない側面)への影響にも目を向けているか?
・社会的妥当性に関する検討において,当事者からのコメントに対する価値判断が短絡的、一面的では?
例:
・「10 分間に作文を5行以上書く」ということの促し
・促進すべきこと? ・質の良くない作文を書くようにはならないか?
・(他者からの賞賛や叱責のような)強化がないと行動しない人間にしてしまうことはないのか? そうだとしたら,それは望ましくないことではないのか?
・相互依存型集団随伴性 ・正反応を示さなかった子に対する否定的な評価・行動を誘発しないか?

 応用研究では、標的行動以外の行動の共変化についても考慮すべきだと思います。事前に予測可能な変化であれば、何かしらの測定をすべきですし、そうでないものも事後にできるだけ情報収集すべきだと思います。
 実際には「社会的妥当性」の検討のために、対象となった本人や周囲の人たちからアンケートやインタビュー形式で情報収集することが多く、ポジティブな副作用も、ネガティブな副作用もそれである程度把握できると思います。もちろん、そうしたデータの信頼性、妥当性については慎重に検討すべきで、「当事者からのコメントに対する価値判断が短絡的、一面的」にならないように注意すべきです。
 一方で、応用行動分析学の研究のように対象者の行動を継続して長期間にわたって測定し、対象者やその環境にあわせて介入を計画するアプローチにおいては、研究遂行に当事者たちの協力が欠かせません。ある意味、周りの人たちからの積極的な参画行動を引き出し、維持しないと研究そのものができないこともあるわけで、こうした事情が、社会的妥当性アンケートに対する回答にバイアスをかけることは十分予想できます。
 しかしながら、研究でわかったことを実際に使うときには、やはりそうした関係者からの協力の取付が必要になるわけですから、そのこと自体に妥当性がないわけではないと私は考えます。むしろ、その研究がどのような人のどのような協力を得て成立したか、その協力はどのように勝ち得たかを論文に書く方が生産的なのかもしれません。
 なお、「社会的妥当性」の概念は応用行動分析学にのみ適用されるべきものではないと思います。それこそ「教育心理学研究」などに掲載される応用研究でも、こうした概念が適用され、測定、検討がなされるようになるといいと思います。

 作文の例、集団随伴性の例についてのご指摘はその通りで、各々の研究もしくはその追試で検討されるべき課題だと思います。つまり、実証的な問題(実験によって回答すべき問題)ということです。

 「強化がないと行動しない人間にしてしまうことはないのか? 」については、これも論理的には実証的な問題ですが、現実には実験するまでもないことだと思います。
 シングルケースデザインには無関係なコメントですが、行動分析学(というより行動分析学にもとづいた一部の臨床、教育活動)に対する批判としてはよくあるものなので回答しておきます。

 まず、ある人間のすべての行動に、他者からの賞賛や叱責を提示するのは現実的にも、もちろん倫理的にも不可能です。また、生きている限り、行動はありとあらゆる形で強化されます。言い換えれば、研究(や実践)で操作できる随伴性は、生体の行動全体にとってほんの僅かでしかありません。それだけ限られた随伴性の操作が、生体の行動全体に影響を与えることは、まずないと思います(もしあれば、何かしらの報告がなされているでしょうが聞いたことがありません)。さらに、そもそも賞賛や叱責なしに自発される行動が数多くあり、特に生きていくのに最低限必要な行動は賞賛や叱責なしにも自発されるはずです。
 単純な例:水を飲むたびに褒めたり、お金を払い、その後、褒めるのや支払をやめても、水を飲まなくなるわけではない。
 一方で、他者からの賞賛や叱責が人の行動に影響を与えることは、人が社会生活を営む上で、あるいは社会が社会として機能するために、ほぼ必須の条件です。親や教師が褒めることが行動を強化する機能を獲得できないと(発達障がい、知的障がいをもったお子さんにはこういうハンディキャップがありえるわけですが)、どれだけ教えるのがたいへんか、そういう仕事をされたことがある人ならよくわかると思います。
 単純な話:人が人として社会に適応していくためには、賞賛や叱責が行動を増やしたり減らしたりする機能を持つように教えることは、ほぼ欠かせない条件である。
 もちろん、できなかったことをできるように教える段階では賞賛が必要でも、その後は褒められなくてもやれるようにすべきだろうという指摘もあると思います。これはその行動の随伴性によると思います。放っておいたら使い方を学べないスマホでも、使い方を学んだ後は、電話したり、メールしたり、検索したりする行動を強化する内在的随伴性がありますから、賞賛いらずで維持できることでしょう。でも、たとえば歩きながらスマホを使う行動を減らそうとしたら、何かしらの随伴性を付加する必要がでてくる可能性が大きいです(歩きタバコでもいいし、健康のためにジョギングを続けることもでいいし、やりたくもないけどやらなくちゃらならない大学の仕事でもいいです;世の中には何かしらの教育、社会的随伴性なしには、望ましい行動が継続して自発されにくいことがあるのです)。
 現実的な話:人が人として社会に適応していくためには、賞賛にせよ、叱責にせよ、給与にせよ、法律と罰則にせよ、何かしらの随伴性を付加し、維持し続けないと難しい行動もある。

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