2013年10月アーカイブ

「はるちゃん、パパに似てるよねぇ〜」と言われることがあります。端正な顔をした犬なので、A=B、B≒C、関係性枠で A=C となり、「いや、そんなことないですよ(私は端正な顔はしていないから)」と否定したくなりますが、同時に何だか嬉しい気持ちもします。

 以前、ご紹介したように、飼い犬と飼い主の顔の類似性の研究というのがあり、関西学院大学の中島定彦先生が、このテーマでいい仕事をしているのですが、最新の研究では類似性の源が目のあたりにあることがわかってきたそうです(電子版へのリンク)。

  • Nakajima, S. (2013) Dogs and owners resemble each other in the eye region.  Anthrozoös , 26(4), 551-556.

 飼い犬と飼い主の組合わせ20組の写真を掲載したシートと、ペアを入れ違えた20組の写真を掲載したシートを比べさせ、どちらのページがより似ている組合わせのページかを判断させます。すると、顔全体を比べさせる条件では8割の参加者が正しい方のシートを選びます。口の辺りを隠した条件ではあまり正解率が落ちませんが、目の辺りを隠す条件では正解率がチャンスレベルまで落ちてしまいます。

 中島先生は、当初、飼い犬と飼い主の顔が似ていること自体に懐疑的で、この実験も、そんなはずはないだろうなとの思いで行ったそうです。意外な発見ということになります。ですが、この実験により、飼い主が太り気味だと飼い犬も太り気味とか、髪の毛の長い女性は耳がたれた犬を好むとか、女性より男性の方が大きな犬を好むとか、そのような要因の影響を排除するように計画されていて、ものの見事に、そういうことではないことが示されています。

 では、なぜ、目の周辺が類似してくるのでしょうか?

 そういわれてみれば、ですが、散歩中に出会う飼い主さんと愛犬の組合わせを思い出すと、飼い主さんが社交的なほど(挨拶したり、声をかけてきたり、うちの犬をかまってくれたり)、飼い犬も社交的であることが多いような気もします。社交的な犬(積極的に、吠えたり、毛を逆立てたりせず、こちらに近寄ってくる犬)は、これはまったくの主観ですが、目元が穏やかな気もします。

 飼い主さんが社交的であれば、飼い犬も他の人や他の犬と接触する機会が増え、いわゆる「社会化」が進みやすく、対人、対犬状況で落ち着いていられる犬に育ちやすいのかもしれません。

 また、叱って育て、犬に「服従」を求める飼い主さんは、これもまったくの主観ですが、散歩中もニコニコせず、しかめっ面の人が多いのかもしれません。そして、叱って育てられる犬は、不安状態が高く、回避行動が多くなり、目元が厳しく、あるいは不安げになるのかもしれません。

 犬は飼い主の気持ちがよくわかると言います。確かに、うちの犬も、電話越しに文句を言っているときのように(声を荒げているときなどは)不安そうな顔をしています。飼い主が緊張していると、犬も緊張するなんてこともあるのかもしれません。

 実験に使った刺激はドッグフェスティバルに来場していたお客さんに実験者がその場で依頼して撮影した写真ということです。見知らぬ人(実験者)や状況(撮影)という事態ですから、そのような事態にどのように反応する人と犬なのかというところが、目の周辺が効いてくる理由の一つとして考えられるかもしれませんね。

 飼い主にはわざと怒ったり、悲しんだり、喜んだりする表情をしてもらって、しかもそれを犬の撮影とは別の機会に行い、それと犬の写真を組み合わせて使ったりしたらどうなるのかなぁ。

名言〔第13位〕:「自ら変化を作りだす」

解釈:

 もしかするとこれは誤訳かもしれません。引用元はこうなっています。

Experience has shown that grafting innovation on to a traditional enterprise does not work.  The enterprise has to become a change agent (Managing in the next society, p. 295).

 そのまま訳すと、

従来の組織に接ぎ木をつぐように改革を上乗せしていってもうまくいかないことが多い。組織そのものが改革の主体にならなければならない。

 です。

 だから「自ら変化を作りだす」というよりは「自ら変化する」ということではないでしょうか。

 もしそうなら、行動分析学からの解釈は以下のようになると思います。

 組織で変化を作りだすには、組織そのものを変化させることが必要である。組織の中心は人であり、人の行動であることを考えると、行動を変えるために組織を変えるということは、組織における行動随伴性を変えるということになる。組織の中の行動随伴性が変わらなければ、行動は変わらず、行動が変わらなければ「変化」もつくりだせないはずである。

本シリーズの過去記事一覧:

名言〔第14位〕:「自らの貢献を考える」

解釈:

 組織における個人の行動とその随伴性は、組織全体のパフォーマンスとその随伴性に同調するように設計すべきである。つまり、組織全体のパフォーマンス向上につながる個人の行動が強化され、つながらない行動は消去されるように、各部署の強化随伴性を調整すべきということになる。
 特に、経営者や管理職は、こうした視点から、組織や部下だけではなく自らの行動の強化随伴性を常に見直し、自らの行動随伴性を整備すべきである。

(追加の解釈)
 経営者や管理職のそうした行動はどのように強化し、維持できるのだろうか。大企業で、雇われ経営者であれば株主総会などが機能するかもしれないが、では、株主の行動はどのように強化、維持できるかということになり、強化随伴性を設定する行動の強化随伴性は何重にも入れ子になり、誰が強化の源泉になるかについての議論はきりがないようにも見える。
 おそらく、実際にはある行動から入れ子が遠ざかるほど、その影響力は薄れ、また、一貫性、同調性も薄まり、どこかの時点で、いわゆる「equilibrium」な状態になるのだろうが、社会、経済、経営環境が目まぐるしく変動する現在、均衡状態が安定して続くことは稀であり、それゆえに、自然に放置したままで均衡状態に落ち着くのを待つよりも、積極的に介入して、安定し、かつ、強力な均衡状態をつくることが求められているのだろう。
 その一方で、そうしたルール支配的な制御による行動も、いずれは随伴性制御に押し流されるという、いわゆる「まにまに」的な真理もあるのだろうなと思う。

本シリーズの過去記事一覧:

このシリーズの最後に、吉田先生からいただいた問いかけの中で後回しにしたものに、まとめて回答します。おかげさまであらためてシングルケースデザインについて考えることができ、よい勉強になりました。三十周年記念のシンポジウムへのご協力と、このブログで記事を書くことをお許しいただいたことに感謝致します。吉田先生、ありがとうございました。

吉田先生からの問いかけ:

○効果の規定因分析に関するメタ分析は有用だと考えられるが,この領域では公表バイアスが顕著に生じているのでは?

  「この領域」というのがシングルケースデザインを用いた研究という意味なのか、応用行動分析学の研究という意味なのか、もっと別のことを参照されているのか不明ですが、一般的に、応用行動分析学の研究では、行動変容が確認できるまであの手この手で介入を変え、探索的に実験を続けますから、最終的には行動が変わることが多いのです。仮説検証を一発ですますことが多い群間比較法を用いた研究との違いがでるところかもしれません。ですから、研究の数を分母に、行動の変化が確認できた研究の数を分子にとれば、その割合が高くなったとしてもさほど不思議ではありません。
 ただし、行動が変容しただけでは論文は受理されないことが多いです。つまり、行動が変わっても、なぜ変わったのかが実験計画により明らかになっていなければ出版されないことになります。
 公表バイアスが実験計画種別によってどれだけ変わるかはわかりませんが(ちょっと調べたところではそのような研究は見当たりませんでした)、論文を投稿しない(もしくは投稿しても採用されない)理由は、介入に効果がなかったからではなく、因果関係を示せなかったという場合が多いのではないかと、個人的には思います(例:応用行動分析学の博論で、結論が「効果がありませんでした」というのは聞いたことがありませんが、博論を学術誌に投稿しても実験統制が不十分だったりして不採用になったというのはよく聞く話です)。

○統計的分析の基本的な考え方に習熟することは,視覚的判断を精緻なものにすることにつながるのでは?

 はい。少なくとも、平均、傾向、分散、差のような基礎概念は必要だと思います。ただ、それだけでは不足するようです。一応、基礎統計は学んでいるはずの大学生、大学院生、あまつさえ大学教員でさえも誤反応しますから。おそらく、確実な習得には、それなりのツールを用意し、使用を練習する訓練が必要なのだと思います。以下にそのような文献を一例としてご紹介します。

  • Fisher, W. W., Kelley, M. E., & Lomas, J. E. (2003). Visual aids and structured criteria for improving inspection and interpretation of single-case designs. Journal of Applied Behavior Analysis, 36(3), 387-406. doi:10.1901/jaba.2003.36-387
  • Stewart, K. K., Carr, J. E., Brandt, C. W., & McHenry, M. M. (2007). An evaluation of the conservative dual-criterion method for teaching university students to visually inspect AB-design graphs. Journal of Applied Behavior Analysis, 40(4), 713-718.


○ short reports というものについて
・「これだけのデータで論文にしてしまうの」と思ったものがたくさんありました。
*個々の介入に時間がかなりかかるので致し方ないのかもしれませんが(特に,大学院生の人たち などの場合は)。

 これはシングルケースデザインについてではなく機関誌の編集方針についてのコメントだと思います。また、投稿論文の数と質の確保はどこの学会の編集委員会でも課題に取り組まれている課題ではないかと推察します(「これは!」という研究は海外の雑誌に投稿する傾向がある我が国においては特に)。
 機関誌の編集方針や査読の基準という随伴性は、もちろん個々の投稿者の行動に影響する要因でありますが、その成果はより長い時間の広がりの中で評価すべきことと考えます。
 創立三十周年を迎えたとはいえ、日本行動分析学会はまだまだ若く、これからの学会です。現在は、まだ、できるだけたくさんの研究をできるだけ早く掲載し、研究や執筆の回転を早める段階だと私は思います。つまり、シェイピングの初期段階だと個人的にはみなしています(編集委員会には質を重視すべきであるというもっともな意見もあります)。そして、シェイピングの初期段階では、今できていることよりほんの少しだけ上を狙って強化するのが常です。
 現在の状況が四十周年でも変わっていなければ、この方針を修正すべきでしょうが、今のところはこれでいいのではないかと思います。
 こう書いてしまうと、なんだかとても質の低い仕事をしているように読めてもしまいますが、それは、たとえば JEABやJABAなどとは要求水準が違いますという意味であり、具体的な名前は差し控えますが、国内の心理学関係諸学会のジャーナルに比べて、ことさらにハードルが低くなっているということはなく、むしろ高い方ではないかとさえ感じることもあります。

○方法の why に関する記述の必要性について
・なぜ,そのデザインを適用したのか?
・なぜ,そのような介入パッケージにしたのか?
・各期のセッション数の判断基準は?
・(行動間マルチベースラインデザインを用いた場合) 複数の標的行動に対する介入の順序はどうやって決めたのか? etc.

 ご指摘の通り、論文に書くべきことも多いですし、専門家には自明のことでも専門外の方には明示しないとわかりにくいこともありそうです。
 書くべきことでも、紙面の都合で(頁数、文字数制限で)、相対的な重要性判断から省略するものもありますから、このあたりは難しい判断が必要で、万人が満足する正解はなさそうな課題のような気もします。

 次の質問については教科書的な回答になりますが(あるいは、私の研究室ではやっていますが、ということになりますが)、それぞれ回答します。

○以下のような基本的なことをきちんとしているか?

・ベースライン期の変動に実際に注目しているか?

 ベースラインもしくはベースラインの測定を開始する準備段階の観察や測定で、変動を探し、それを制御変数の特定に活かします。

・標的行動を定義するためのパイロット観察をきちんとしているか?

 上述のように、しています(すべきです or しないと次の段階で大抵コケます)。

バイアスの異なる複数の方法による測定をしているか?

 具体的なイメージがわきませんが、一度に複数の測定方法を実施するということはその比較検討が目的の研究でない限り、あまりないことだと思います。ただ、測定してみたけれどうまくいかない(信頼性が確保できなかったり、妥当性が怪しかったり)ときに、うまくいくまで他の測定方法を順次試していくということはよくあることです。

・観察の一致度のチェック以前に,訓練や定義の精緻化などに手間暇をかけているか?

 観察対象によります。一致度が低くなる要因は定義が不鮮明だったり、訓練が不足していることが多いので、高い一致度をゴールにしておけばある程度自動化されるプロセスです。もちろん、たとえば九九の計算を回答シートで数えるような場合には、このあたりのプロセスは簡略化できます。なので、観察対象によりますとなります。

以上です。

 昨日、朝のワイドショーで取り上げられていた、古いお好み焼き粉に発生した、ダニ(コナヒョウヒダニ)の話。

「1グラムに1万匹」というのがまず信じられない。1匹あたりの体重はどうなってしまうのだ?

「1ミリの3分の1から4分の1」というのも不思議だ。コメンテーターは「それじゃ目では見えないですね」とか言ってたけど、0.25-0.3mmなら目で見える大きさだと思う(白く、透明っぽい体が白い粉に入っているので見えにくいということなら、本体を黒い紙の上に落とせば見えるのでは?)

そして、この二つが本当なら、一匹のサイズが0.25-0.3mmのダニ一万匹が、どうやって1gの粉の中に潜めるのだろうか?? 1gのうち、かなりの割合でお好み焼き粉が残っているということなんだろうし(そうじゃなきゃ、そのままお好み焼き作れないはず)。

もはや異次元生物。もしくは蟹の怪異にやられた戦場ヶ原ひたぎ状態。

謎です。

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久しぶりにSkypeしたら、こんなメッセージが表示された。

え、まず意味がわからないんですけど。

「連絡先」が「アクティブでない」とは?

最近、Skype使ってませんね、ってこと?

余計なお世話です。

しかも、「アップデートを投稿」って、どこに何を?

文法的には「Facebookに」ではないですよね。

「お友達の最新情報」って、別にあなたに言われなくても、欲しい情報は欲しいときに入手してますけど。これまた、余計なお世話です。

一時、MicrosoftがSkypeを買収するという話がでてたけど、実現したのでしょうか。

MicrosoftはFacebookにかなり出資しているそうで、その影響でしょうか。

訳のわからん日本語メッセージは日本マイクロソフトのお家芸だもんな。

Skypeさんには遠隔ゼミなどで大変お世話になったので、お礼に代案です。

お久しぶりです。Skypeをご利用いいただき、ありがとうございます。
SkypeからFacebookに投稿したり、Facebookのお友達とSkypeでお話できるようになりました。よろしければ、ご利用下さい。

吉田先生からの問いかけ:

○結果を一般化する際の限定条件についての論述の必要性について
・このようなことについての記述が考察であまり(ないし,ほとんど?)なされていないのでは?

 まず、その8に書いたように、シングルケースデザインは母集団についての仮説を演繹的に検証する実験計画法ではありません。ですから、群間比較法を用いた実験論文のように、その実験のデータから母集団について結論をだすという意味で「結果を一般化」することはしません(できません)。シングルケースデザインで得られたデータからは、その研究で対象にしたことについてしかわかりませんし、それでいいのです。

 ただし、先行研究の再現、系統的再現をしている研究については(ほとんどの研究は何らかの再現をしているはずなのですが)、先行研究の手続きと、その研究の手続きにおける各種変数の相違点と結果一致/不一致について述べ、先行研究の結果を「再現」したのか、しなかったのかを書く必要があります。その中で、先行研究(や先行研究の積み重ね)でわかったことがさらに確認できたのか、それともできなかったのかは論述すべきです。前者は帰納的な文脈での「一般化」になりますし、後者は推測ではなく、先行研究と当該の研究における違いを事実として書くということで、「一般化」に制限がかかる、もしくはかかる可能性を示唆することになります(ほんとうに制限がつくのかどうかは、さらなる再現が必要になります)。

 どの研究の再現なのかを論文中に明記することで、後でメタ分析をするときに研究をまとめやすくなるというメリットも生まれると思います。このあたりは、現状、公刊されている論文では必ずしも実現されていませんが、それは、ある実験がどの実験の再現にあたるかついて、実験者の視点は唯一無二のものではなく、視点によって変わってくるということもあると思います。

吉田先生からの問いかけ:

○内的妥当性への脅威(種々の攪乱要因の介在可能性)について
*実際には内的妥当性が高いデザインによる検討を行なうことが困難である場合が多いであろうから,この問題の顕現性は高いと考えられる。
・多標本群間比較法よりも(個人変数以外の変数に関する)交絡に関する配慮の必要性が高い?
・実験者(期待)効果,要求特性の効果,ホーソン効果,評価者のバイアスなどは,群間比較法と同様(ないし,それ以上に)に介在する?
・特に実験者の行動に関わる攪乱要因については注意が必要では?
・(特に ABデザインによる研究では)介入が長期にわたる場合の自然変動などについても考慮する必要性が高いのでは?
*以上のことについてのクリティカルな検討が不十分では?
・考察において他の解釈可能性をもっと慎重に論じるべきであるとともに,(研究者にとってはリスキーなものである)種々の攪乱要因の介在に関する情報を積極的に集めようとすべきでは?

 ご指摘されている種々の脅威についてはその通りで、内的妥当性に対する脅威は、群間比較法を用いた場合と同じ程度、存在すると思われます(シングルケースデザインを用いた研究の方がより高い脅威にさらされているという主張の根拠はわかりませんでした。すみません)。

 実験者効果などの剰余変数について:

 まず、実験者効果をできるだけ除外するように要因分析をすることが考えられます。たとえば「授業中に発言する前には挙手して指名されたら席を立って話をする」を標的行動とする場合、最初に教員による教示のみの条件から始め、それでも効果がなかったときに、たとえばトークンなどを使った条件に移行するのであれば、教員の期待の効果は相殺できます。
 もちろん、教示+「期待」では不十分で、教示+「期待」+トークンで効果がでたと考えれば、「期待」の効果を除外したことにはなりません。ただし、これは臨床的に考えればあまり意味のある議論ではありません。なぜなら、「期待」を除外してこの手続きを導入することがそもそも難しいからです。
 むしろ、同じ手続きを他の学級、他の教員で試していくうちに(再現、系統的再現を続けていくうちに)、児童と教員の組合わせによっては、同等の効果が得られないときがでてくるかもしれません。そのときには、たとえば、教員からの指示に従うことが日頃からどのくらい強化されているかとか、教員の意図を予想する児童の行動頻度とか、意図どおりになることの強化力などが、この介入に影響することが推察され、その条件が実験で確かめられることになるでしょう。
 内的妥当性の検証は、当該の研究内で行われるべきものと、一般的には考えられているかもしれませんが、シングルケースデザインの場合は、このように再現、系統的再現の試みの中でも進行するものと考えられます。

 評価者(観察者)のバイアスなどについて:

 シングルケースデザインでも群間比較法でも同じように脅威になる要素ですが、一般に、応用行動分析学における研究の方が、その他の教育・発達心理学よりも、この点に関するチェックは厳しいように思います。つまり、行動の直接観察だけではなく、行動の所産についても独立した観察者間の一致度を測定するし、そのための各種観察法も開発されているし、その上で生じる観察者ドリフトやその対処法なども考慮されているからです。つまり、バイアスのリスクは認知されていて、できるだけ排除、低減する措置がとられていることが多いと思います(たとえば、行動の直接観察をしている実験論文を各種学術雑誌から取り上げ、観察者間の一致率を求めているかどうか、またその測定や算出方法の妥当性を比較すればわかることかもしれません)。

 他の解釈可能性について:

 よっぽど怪しい変数があれば考察で議論する価値があると思いますが、それほどでもなければ(他の研究でもありえる、一般的なリスクであれば)、わざわざ取り上げる必要はないかもしれません。なぜなら、もし剰余変数が実験変数よりも効いていて、それが介入手続きに内在しないのであれば、再現、系統的再現されるときにわかるし、逆に、それまではわからないからです。

犬のあくびがこんなにも研究されているとは(笑)。

Romero T, Konno A, Hasegawa T (2013) Familiarity Bias and Physiological Responses in Contagious Yawning by Dogs Support Link to Empathy. PLoS ONE 8(8): e71365. doi:10.1371/journal.pone.0071365

 ちまたの犬の本には、犬があくびをするのは不安とかストレスの顕われだと書いてあることが多いのですが、最近の研究は、いわゆる“あくびの伝染”は“共感”によるものである可能性を追求しているらしいです。

 この研究では、飼い主と見知らぬ人があくびのフリをしたときに飼い犬がそれに追従してあくびをするかどうか(それから、あくびに似た動作をしたときにあくびをするかどうかも)調べていて、見知らぬ人よりも飼い主があくびをしたときに追従することが多かったことから、“親近性”が影響し、その背景には“共感”が影響していると解釈しています。

 でもね、ローデータをみると、実験に参加した25頭中17頭は実験条件でも統制条件のあくびをしなかったか、実験条件=統制条件か、統制条件の方で多くあくびをしていたのですよ。

 統計ってすごいなぁとこういうときに思います。

 それに「あくびのフリ」に“共感”するってのもすごいなぁ。「わかったよ。おいらもあくびのフリするよ」って“共感”なんでしょうか。

 うちの犬で試してみましたが、退屈そうにするだけでした。もちっと共感しろ!(笑)

 あ、うちの犬は、朝起きた直後とか昼寝から目覚めた後とかに、フツーにあくびしてますよ。不安でもストレスでもないような気がします。眠いときにするあくびです。

 あくびの生理的なメカニズムは知りませんが、少なくとも人の場合は眠気と関連したレスポンデントではないかと思います。でも、眠いときには口元に力をいれたり、息をのんだりするような、両立しないオペラントを自発できるので、あくびが社会的に望ましくない場面(会議中やゼミ中やデート中であくびが弱化される危険がある状況)では、嫌子出現阻止の随伴性でこうしたオペラントが強化、維持されていると考えられます。

 そして他の人があくびをすると、それが嫌子が出現しない状況の刺激(警告刺激の反対の安全刺激)となり、オペラントの自発頻度が下がって、追従あくびがでるのではないのでしょうか。だから、そもそもレスポンデントとしてあくびを誘発する刺激がないところでは追従あくびもでないと思うのだけれど、どうなんでしょう。

 もちろん、模倣行動のオペラント水準はある程度あると思うので、他者の何からの行動がそれと形態的に一致した行動を引き起こすということはあると思うし、このあたりがミラーニューロン関係の話(がおそらく上述の研究の流れの“共感”説の根底になるのだと思うのだけれど)と関連している可能性はあるかもしれません、でも、そうなると、あくびのオペラント的側面を考えるか、模倣の制御が反射にまで影響することになります(新生児模倣のような制御がその後も続くとか)。だから、ちょっとよくわからないというか、私にしてみれば懐疑的な話です(愛犬家研究者の気持ちはわからなくもないですが)。

 ましてや犬おや。犬や犬と人の生活には、あくびを控えるオペラントを強化する社会的随伴性はないと思うのだけれど.... そのような社会的随伴性のないところでの“共感”とは、何なのでしょうね。

吉田先生からの問いかけ:

○検討していることの新奇性・脱常識性について
・反証を求めている(リスキーな検討をしている)か?
*率直に申し上げて,門外漢が読んで「へえー」とか「なるほど」とは思えない論文がたくさんありました(人間というものは,基本的・単純な原理の適用の積み重ねで変わるものなのかもしれませんが)。
*「分からなくならないと認識は進展しない」,「自分を分からなくさせることが大切」だと思っています。
・「このことについてはこれまでに検討がなされていない」という理由だけでは当該のことについて検討することを正当化するための論拠として脆弱では?
*ただし,実践を兼ねているから仕方がない面が多分にあるのかもしれません。
・実践の場ないし世間にとっての新たな知 vs. 学界にとっての新たな知 ・前者も実践上大切だが,後者が重視されていないのでは?
*以上のことは,リプリケーションにおいても同様に該当する。

 3月に慶應義塾大学の渡辺茂先生の最終講義「八つ当たり心理学批判-言いたい放題-」を拝聴させていただきました。渡辺先生は行動分析学に対する「批判」として「面白さに欠ける」とおしゃっていました。行動分析学の考え方とか研究とか方法論はよく理解し、その意義もわかっていながら、このように考えて、それゆえに(それだけではないでしょうが)行動分析学を専門とはしない実験心理学の先生方は他にもいらっしゃると思います。

 行動分析学の研究は、結局のところ、そのほとんどが行動随伴性に帰結します。もしそうならない現象が発見され、積み重なり、そうした説明不可能な現象をもまとめて説明可能な枠組みがでてきたら、そのときこそクーンのいうところのパラダイムシフトが起こるべくして起こるわけです。でも、そのときが来るまでは、なんでもかんでも行動随伴性みたいになるわけです。

 私は、これだけ複雑で多様な事柄がこんなに単純な原理で「解釈」でき、かつ役に立つように使える(行動を「制御」するのに有効)ことを「面白い」と感じ、価値を見いだしているわけですが、そういうことよりも意外性や「新奇性」や「脱常識性」に面白さを感じる人が多いことも理解できます。

 ここのところは、もしかしたら突き詰めれば「趣味」の問題かもしれません。なので議論にはならないし、議論すべきことでもないかもしれませんが、それでも議論するのなら、何が科学者の行動を強化しているか、研究行動を制御している変数は何か、ということになるのかなと思います。

 ただ私も、世間一般の人たちにとって「面白い」と思われるような研究がもう少し増えてもいいのではないとは考えていて、だから「忍者の修行」とか「幻臭」とかについて、行動分析学から研究したりしているわけですが、日本だけではなく、国際学会でもこういう実験をする研究者は少数派です。

 「分からなくならないと認識は進展しない」について:

 基礎研究(実験的行動分析学)では「わからないこと」の探求が多く行われています。直接の応用可能性は不明だが、「学界にとっての新たな知」を純粋に追求している諸研究は、たとえば Journal of the Experimental Analysis of Behavior などをご参照下さい。

 応用研究の目的はどうしても「どうすればこの行動が変わるか」になります。ある意味でベースライン条件では「どうしたらいいかわからない」のでわざわざ介入をするわけですから、その都度、わからないことをわかろうとするプロセスにはなっているはずです(もちろん、行動が変わったことが、なぜその行動が変わったのかがわかったことでは必ずしもないことには注意しなくてはなりませんが)。

 ご存知の通り、シングルケースデザインは再現に依存する研究法です。母集団を想定し、仮説を作り、標本抽出し、無作為に実験条件を割り当てた群間比較から仮説を検証し、演繹的に母集団についてものをいうわけではありません。シングルケースデザインでわかることはその実験のその行動の制御変数についてのみ。その一般性は同じような介入をどこかで繰り返し行い、その効果を確認していくようになっています。
 だからこそ、群間比較実験より、再現が必要だし、それこそ命といってもいいと思います。だからこそ、似たような介入方法の研究が多いことは、むしろそれだけ再現(や系統的再現)が繰り返されているということで、変数の外的妥当性が検証されつつある、望ましい状況ととらえます。

Continuous Learning Group (CLG)は Fortune 100 の企業や米国の行政機関に対してコンサルティングサービスを提供している会社で、 Julie Smith 博士は Leslie Wilk 博士と共にこの会社を創業し、自らコンサルタントとして仕事をされてきた先生です。

お仕事で来月初来日するSmith先生に昔のよしみでお願いし、法政大学で講義をしていただけることになりました。

企業で成果を出し続けるための、リーダーシップやモチベーションの仕組みを、組織の中に埋め込んでいく、行動分析学を駆使した方法についてお話いただきます。

せっかくの機会ですので、講義の後に少人数での質疑応答セッションの時間も持つことになりました。

講義は英語ですが、日本語の解説(私が担当します)をつけますので、安心して参加して下さい。

講師:Julie Smith 博士 (Continuous Learning Group)
日時:2013年11月8日(金)16:50〜18:20
会場:法政大学市ヶ谷キャンパス外濠校舎S407教室
アクセス:http://www.hosei.ac.jp/gaiyo/campus/ichigaya/index.html
解説:島宗 理(法政大学文学部心理学科 教授)
主催:法政大学文学部心理学科
共催:法政大学大学院ライフスキル教育研究所、日本行動分析学会

☆講義の聴講に参加費、参加予約は不要です。そのまま会場にお越し下さい。道案内の看板は設置しませんので、あらかじめ地図などをご持参下さい。

☆講義の後に少人数による質疑応答セッションを行います。質疑応答セッション(S404教室、18:30-19:30)に参加を希望される方は11/4(月)までにお名前とご所属をメールでお知らせ下さい(島宗 理:simamune@hosei.ac.jp)。先着順で受け付けさせていただきます。こちらも参加無料ですが、教室の都合で20名程度で締切らせていただきます。ご了承下さい。

案内はこちらからダウンロードできます。

Smith先生には下記の論文や著書がありますが、研究者というよりは起業家、企業人というノリの先生です。個人的にも今から再会をたいへん楽しみにしています。

  • Smith, J. M., Kaminski, B. J., & Wylie, R. G. (1990). May I make a suggestion?: Corporate support for innovation. Journal of Organizational Behavior Management, 11(2), 125-146. doi:10.1300/J075v11n02_08
  • Smith, J. M., & Chase, P. N. (1990). Using the Vantage Analysis Chart to solve organization-wide problems. Journal Of Organizational Behavior Management, 11(1), 127-148. doi:10.1300/J075v11n01_09

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週末になると近所の公園は野球少年やサッカー少年たちでいっぱいになる。最近は男女が一緒に練習しているから、正確には少年少女たちだ。

地元のチームなのか、その中に大人が交じっていて、ノックしてたりするのだが、これが酷い。

「あきらめんじゃんぇーよ」、「どこみてんだ、このくそぼけ」、「どうしてできねぇんだよ!!」の連続。

それでも子どもたちは「よろしくお願いします!」とか「すみません」とか、とても礼儀がいいし、一生懸命ボールを追いかけている。見ていて、正直、胸が痛くなる。そのうち、きっとどこかで折れるぞ、この子たち。

こういう大人の特徴。

まず、ノックしかしない。自分でキャッチの見本をみせているところを見たことがない。子どもと離れているから、身体的ガイダンス等で、たとえば膝を曲げる角度とか、キャッチする前の事前動作等を誘導することもできないし、しない。

ノックも適当。近距離のキャッチボールから始めて、次第に距離を伸ばすとか、あまり移動しなくて捕れるところから始めて、前後左右へ移動しないと捕れない球をだすとか、そういうプログラムが一切ない。

子どもがすべきことの説明もない。どうすれば捕れるのか、落下地点に移動できるのか、コツの言語化ができないのかしらないのか。キャッチできなかったり、ポロリと落としたときに文句を言うだけ。それも、ちんぴらのような言葉遣い(昨日目撃した奴はサングラスかけていて見かけもなんだか酷かった)。

そして、何しろ褒めない。驚くほど、褒めない。かなり厳しいところに飛んだボールを子どもがキャッチしても無言。

うそでしょ、とあきれるくらいだ。

腹が立つので、公園の脇のベンチに愛犬と腰掛け(自分は犬と散歩中なのです)、「ナイスキャッチ!」とか「惜しい!」とか、赤の他人なのに声をかける。

サッカー教えている大人にはこういう大人はみかけない。パイロンとか小さなゴールとか、いろいろな仕掛けも持参して、ゲームみたいな方法も取り入れて、子どもがいい動きやプレーをするたびにめちゃめちゃ褒めてる。

野球はいくつかのチームをみかけるが、程度の差こそあれ、たいてい酷い。

なんなんだろ、あの差は。たまたま? それとも競技の文化なんだろうか?

お母さんたちの話では、監督やコーチが厳しくても、チームが強ければ子どももそのチームに行きたがるし、親も行かせたがるらしい。

でも、そのチームが強いのは監督やコーチの教え方が上手いからじゃなくて、酷いコーチでも我慢して練習するほど野球が好きな子どもや、そういうのに耐えてでも勝ちたい負けん気の強い子どもが残るからですよ、と言いたくなるが、犬の散歩仲間にそんなことを言っても仕方ない。

だから、自分はできる限り、ベンチから声をかけるのだ。変なおじさんと噂されてもね。

せっかくの休日を子どもの指導に使うというせっかくのボランティア精神も、あんな教え方では台無しです。せめて、この本でも読んで勉強して下さい。


コーチング―人を育てる心理学 コーチング―人を育てる心理学
武田 建

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 ハズバンダリー・トレーニングとは、動物の健康維持のために、血圧や体温を測定したり、歯を磨いたり、シャンプーしたりするときに、動物が嫌がらないように、それどころか自分から協力するように教える方法で、多くの動物園や水族館で使われている訓練法です。

 たとえば、秋田市大森山動物園の柴田典弘さんは、キリンのハズバンダリー・トレーニングの動画を公開してくれています。

 人に触られたり、器具を付けられたり、口や肛門に何かを入れられたりすることは動物の不安や攻撃行動を誘発する可能性がある刺激ですが、個体差があったり、拮抗条件づけでそうした行動が減るところをみると、必ずしも生得性の機能(無条件刺激や生得性の確立操作)ではないのかもしれません。

 拒否したり、逃げようとしたり、威嚇したりする反応は、きっかけはレスポンデントでも、そうした行動で嫌悪事態がなくなることで強化された、逃避・回避オペラントなのかもしれません。

 ハズバンダリー・トレーニングの効果や仕組みは「拮抗条件づけ」で説明されることが多いようです。レスポンデント的な効果だけではなく(不安に拮抗する、フードに対する反射)、動いたり、逃げたりしたときに、FTもしくはVTで提示するフードを停止することでこれが阻止の随伴性となり、好子出現阻止によって弱化されているようにも思えます。

 うちの犬は元々どこを触られても怒らないです(だからこそ「飼いやすい、いい犬ですよ」と奨めていただいたわけです)。でも、散歩から帰った後に、たらいの中に脚を入れて洗われたり、ブラシで毛をとかされるのには、抵抗していました。吠えたり、噛んだりはしませんが、寄ってこなかったり、体重を反対側にかけていく感じの、ゆる〜い拒否反応を示していました。

 そこで、ホーム・ハズバンダリーを始めました。

 散歩から帰ると、玄関から風呂場に行き、濡れタオルで顔と体を拭き、たらいの中で脚を洗い、洗い終わったらタオルで脚を拭いています。最初の頃は、玄関から風呂場に連れてくるのに苦労していました。玄関で座り込んでしまうのです。名前を呼んではいけないと思ったので(呼び声に応えて来たときに嫌なことがあると、呼んでもこなくなるから)、結局、リードをひっぱったり、抱えていったりしていました。

 そこでハズバンダリーの発想を導入。引っぱるのも、かかえるのも止め、代わりに、風呂場の椅子におやつをひとかけら置いておくようにしました(最初の数回は抱えていき、おやつを食べさせました)。しばらくすると、放置したリードを引きずりながら、自分から風呂場に来るようになりました。

 たらいへの入水に関しては、最初は前脚を身体的ガイダンスで入れ、腰を少し押してやり、両脚が入ったら、フードをあげていました。しばらくすると、腰のプッシュはいらなくなりました。数ヶ月後には、ガイダンスせず少し待つと、自分から前脚を入れるようになりました。初発反応には多めのフードを与えました(すごい感動!)。以来、たらいには、指と声のプロンプトで入るようになっています(どちらもなくても入ることもあるし、注意がそれていて入らないこともあります。たぶん根気よく待てば自分から入ると思いますが、朝の忙しい時間などは待てずにプロンプトしてしまいます)。

 タオルで顔と体を拭くには私の前方に縦方向に向いてもらえると作業が楽なのですが、最初はこちらが無理やりに体を動かし、押さえていました。これも私の方を向いたらおやつをあげるようにしました。ここは、どちらかというとフードで誘導して形成し、今でも誘導を抜いていない箇所です(誘導でも問題ないので)。

 百聞は一見に如かず。こちらが現在の動画です。iPadで撮影したのが気になったのか、カメラ目線です(笑)。

 ブラッシングは最初はほぼ数秒毎におやつをあげながらブラシをかけるところから始めました。おやつは目に見えるところに置き、でも動いてそちらに近づいたらブロックしました。つまり、数秒のうちにブラシを1−2回かけ、その間動かなければすぐにおやつを一つあげ、またブラシを1−2回かけ、動かなければおやつをあげる...ということを繰り返しました。
ブラッシングを嫌ってというより、目の前のおやつを食べようとして動こうとすることの方が多かったかもしれませんが、これも数ヶ月続けるうちに、食べようとする動きは減り、数秒は5−6秒に、そして十数秒にと伸びていきました。

 こちらが現在の動画です。腰から後脚をブラッシングするときに、お座りをしてしまうので、今は手で支えています。「たって」のコマンドが不十分なのでこれを教えるのと、ブラシの方向に逆らって立ち続けることを教えるのが今後の課題です。

 自分はアニマルトレーニングの専門家でも、しつけの訓練士でもないし、そういう研修やトレーニングも受けていません。たぶん、専門家がやれば数セッションもかからずに教えられることだと思うのですが、飼い主にはスキルはなくとも時間があります。数ヶ月かけてゆっくり教えようと思えば、それなりの成果はでそうですよ。

 ブラッシングやシャンプーなどでてこずっている飼い主の皆さま、お試しあれ。

 

前回、万引きの「衝動」を測定することについて書きましたが、今回はその続きです。

  「衝動」と呼ばれる感覚は、それが何に対する「衝動」かによって性質が変わってくることでしょうか、たとえば、“ざわざわ”したり、“いてもたってもいられなく”なったり、“胸のあたりがきゅー”っとするような感覚ではないかと思われます。
 自分は万引きへの「衝動」は感じたことがありませんが、一日中テニスをして温泉に入った後、仲間がお座敷に集まり、乾杯の一声までビールを飲むことに待たされると、腰からお腹のあたり、そして喉のあたりがうずうずするような感覚をおぼえます。

 行動分析学ではこうした刺激を「私的出来事」(private event)と呼び、分析の対象とします。たとえば、Capriottiら (2012)ではチック症を示す子どもに対するDROと反応コストの効果を比較検討し、どちらも同じように効果があることを示していますが、チックだけではなく、その前兆となる「衝動」も測定し、DROと反応コストの影響を検討しています。

  • Capriotti, M. R., Brandt, B. C., Rickftts, E. J., Espii, F. M., & Woods, D. W. (2012). Comparing the effects of differential reinforcement of other behavior and response-cost contingencies on tics in youth with Tourette syndrome. Journal of Applied Behavior Analysis, 45(2), 251-263. doi:10.1901/jaba.2012.45-251

 行動分析学の土台となっている徹底的行動主義では、第三者からは観察できない刺激(例:歯痛など)や行動(例:不安や思考やイメージなど)も研究の対象とします。ただし、こうした刺激や行動が、顕現的な行動よりも時間的に先んじているからというだけで、顕現的な行動の原因となっているとは考えませんし(例:ビールを飲むのはビールへの衝動を感じたからではない)、私的出来事もむしろ従属変数として、何が制御変数となるかを検討します(例:どんな条件でビールへの「衝動」を感じるのか)。また、私的出来事は、本人であれば観察可能な現象であり、本人であっても観察できない、あくまで理論上の存在である媒介変数や仮説的構成体のことではありません。内観法を使うといっても、それは心的世界の構造を知るためではなく、あくまでも自分の行動や体内の刺激の観察と測定が目的です。

 徹底的行動主義が、従来の行動主義(徹底的行動主義と対比させる文脈では「方法論的行動主義」と呼ばれます)が土台としている論理実証主義や操作主義と大きく異なる点は、実用性を客観性に優先させるところにあります。
 私的出来事は本人にしか観察できず、このため客観性を保証できません。このため、ワトソンは心理学が科学たるためには私的出来事を対象から外すべきと論じていたわけです。これに対し、スキナーは、客観性が保証できないという理由で科学の対象から外す必要はないと考えました。

 自分で自分の鼻を触るという行動を考えましょう。この顕現的行動は、自分にも、第三者にも観察できます。一定の条件を整えれば、自己観察と第三者観察の間に高い一致率を保った観察も可能になります。つまり、客観性が保証できることになります。

 次に、自分が自分の鼻をさわっている様子を思い浮かべるという内潜的行動を考えましょう。これは、本人になら観察でき、回数も測定できますが、第三者にはできません。
 論理実証主義を貫くと、客観性を重視するため(「truth by consensus」の要件です)、顕現的行動は科学の対象になるが、内潜的行動は科学の対象からはずれるということになります。
 ところが、突き詰めて考えると、顕現的な行動でも、客観性が確保されない場合があることがわかります。たとえば、鼻を触るという行動について、誰も手伝ってくれる人がいなくて、自分一人で観察する場合はどうなるでしょう。まったく同じ観察対象なのに、誰か他の人が確かめてくれないからという理由で、客観性が保証できなくなってしまいます。
 複数で観察できるからといって信頼できる観察かというと、そういうわけでもありません。たとえば、子ども同士のやりとりの中で「友達を遊びに誘う」行動を直接観察で測定しようとしたら、客観的な測定を保証するためには、行動を具体的にいくつかに分けて定義したり、観察者訓練をしたりと、様々な条件設定が必要になりますそしてそこまでしても観察者全員の基準が変化してしまう、観察者ドリフトという現象も確認されています。つまり、本人以外の第三者から観察可能かどうかという問題と、観察が正確かどうかという問題は別次元の、独立した問題なのです。

 科学にとって何がより重要かという問いに対し、スキナーは、客観性の確保よりも、有効性であるとしています。プラグマティズムです。プラグマティズムは「実用主義」とか「実際主義」とか、文脈によって訳し方が異なるようですが、ここでは科学者が知りたいことを知るのによりうまくいくことを重視するという意味です。上の例で言えば、自分が自分の鼻をさわっている様子を思い浮かべる行動について知りたいのであれば、それを観察できるのが本人しかいなくて、第三者が正確さを確認してくれないからといって、研究対象からはずすのは本末転倒です、ということになります。

 徹底的行動主義は、論理実証主義の立場はとりません。真理の基準は公的一致ではなく、行動をどれだけ予測し、制御できるか、そしてそれがどれだけ再現できるかです(佐藤, 1996)。

  • 佐藤方哉 (1996)認知科学と行動分析学との<対話>は可能か  哲學, 100, 275-299.

 ただし、これはあくまでも徹底的行動主義、つまり「考え方」の話です(「科学哲学」の話といってもいいでしょう)。実際の学術研究となると、少し話が制限されてきます。科学者の行動は、現実的には、ピアレビューによる審査で学術雑誌への掲載が決まるという随伴性によって決まってくるし、こうした基準はいい意味でどうしても保守的になるからです。
 観察可能性と観察信頼性が独立しているとはいえ、私的出来事の測定では、顕現的行動観察について標準的になっている観察者間の一致率を測定できませんから、それがない研究を、これまではそのようなケースがほぼないのにも関わらず「受理」する査読者や編集委員や編集委員会があるかどうかということになります。
 そして、私の知る限り、行動分析学関係の学術雑誌で、私的出来事のみを、私的出来事として明示して書いた論文を掲載する可能性がある雑誌は、Journal of Precision Teaching and Celeration(以前はJournal of Precision Teaching)くらいです。この雑誌はOgden Lindsley博士らが中心になって開発したPrecision Teachingという枠組みで行われた研究を掲載する雑誌で、内潜的行動(“inner”)を測定したり、変容したりする研究も数多く掲載されています(具体例:Kubinaら, 1994)。

  • Kubina, R. M., Haertel, M. W., & Cooper, J. O. (1994). Reducing negative inner behavior of senior citizens: The one-minute counting procedure. Journal of Precision Teaching, 11(2), 28-35.

 Precision Teachingの方法論は非常に独特で一言では書けないし、Lindsley先生は(すでにお亡くなりになっていますが)、本当にユニークな人で、論文はどれをとっても面白いです。興味がある人がぜひ探して読んでみて下さい。Precision Teachingの方法論で内潜的な行動の変容に取り組んだ研究を展望したCalkin(2002)によれば、内潜的行動も顕現的行動と同様のふるまいをみせるそうです。数多くのそうしたデータから、本人によ内潜的行動の測定の妥当性、信頼性がある程度示されるというのが彼女の見解であり、これは、公的一致より、行動の予測と制御の再現性を重視する徹底的行動主義の考え方とも一致しているところです。

  • Calkin, A. B. (2002). Inner behavior: Empirical investigations of private events. The Behavior Analyst, 25(2), 255-259.

 Precision Teachingをやっている人たちは、ちょっとオタクの集まりっぽいところがあるし、JEABやJABAなどの主流派の雑誌を読むと「“研究の対象とする”と言ってるくせに、ちっとも研究してないじゃん」ということになりそうですが、これも必ずしもそうでもありません。

 我田引水になりますが、たとえば島宗ら(2000)では営業担当者が顧客のニーズをくんだ提案を考えることを標的行動としています。測定しているのはワークシートに記述された提案ですが、文字を書く行動を標的としているわけではありません。書く前の「考える」という内潜行動を訓練しているわけです。ただ、その測定対象が、考えたことを書かせたその所産であるということです。

  • 島宗 理・磯部 康・上住嘉樹・庄司和雄(2000)小規模なソフトウェア開発会社における企画提案思考ツールの開発と遠隔支援  行動分析学研究, 14(2), 46-62.

 前述のLindsley先生は、このような内潜行動や私的出来事や、あるいは“共感性”のような抽象的な概念を、具体的で、測定できる(必要なら客観性も確保できる)顕現的行動を介して測定することを行動の顕現化("externalizing behavior")と呼んでいました。文章理解や文章題、問題解決など、考えることを教えるような介入のほとんどはこのようなことが行われているわけで、研究で測定しているのは顕現化された行動でも、実際に変容しているのは内潜的行動だという研究は数多くあるわけです。研究者がそのように主張していないだけです。主張したら、内潜的行動が顕現的行動と共変している“客観的”な証拠を提出しないとならないわけで、それは技術的には不可能だからです(ただし、自己報告行動の正確さに影響する要因を調べる研究も行われています、例:Finneyら, 1998)。

  • Finney, J. W., Putnam, D. E., & Boyd, C. M. (1998). Improving the accuracy of self-reports of adherence. Journal of Applied Behavior Analysis, 31(3), 485-488. doi:10.1901/jaba.1998.31-48

 今年の日心では「行動主義誕生100周年記念シンポジウム」があり、残念ながら私は見逃してしまったのですが、ツイートを読んだり、その後に登壇者も含めて複数の方からお話を聞いたところ、第三者が観察できない私的出来事の取扱についても議論がなされたそうで、そのときの論調は「研究の対象とするが、なかなかできない」だったようです。これに対し「いやいやそんなこともないですよ」というのが今回の補足でした。

 私的出来事の測定もあわせて測定している研究もあれば、私的出来事の変容に直接焦点をあてた研究もあれば、実際変容の標的は私的出来事でも、測定しているのは顕現化した行動という研究もあり、それらをあわせれば、「研究の対象とし、実はけっこうやっています」というのが私の主張です。

 もちろん、これは私の考えで、同じ行動分析家でも「private」の定義一つとっても多様な見解があります。興味のある方は The Behavior Analyst 第34巻第2号の特集をお読み下さい。

 日心WSのフォローアップシリーズはこれで終了です。ありがとうございました。

吉田先生からは「多くはシングルケースデザインによる研究のみに該当することではありません」という注釈つきで、数多くの「実際の適用に対する批判的コメント」をいただきました。

ここから先はその中からいくつか選んで回答させていただきます。

○副作用について考慮しているか?(物事は基本的には「両刃の剣」)
・標的行動以外の側面(変数化されていない側面)への影響にも目を向けているか?
・社会的妥当性に関する検討において,当事者からのコメントに対する価値判断が短絡的、一面的では?
例:
・「10 分間に作文を5行以上書く」ということの促し
・促進すべきこと? ・質の良くない作文を書くようにはならないか?
・(他者からの賞賛や叱責のような)強化がないと行動しない人間にしてしまうことはないのか? そうだとしたら,それは望ましくないことではないのか?
・相互依存型集団随伴性 ・正反応を示さなかった子に対する否定的な評価・行動を誘発しないか?

 応用研究では、標的行動以外の行動の共変化についても考慮すべきだと思います。事前に予測可能な変化であれば、何かしらの測定をすべきですし、そうでないものも事後にできるだけ情報収集すべきだと思います。
 実際には「社会的妥当性」の検討のために、対象となった本人や周囲の人たちからアンケートやインタビュー形式で情報収集することが多く、ポジティブな副作用も、ネガティブな副作用もそれである程度把握できると思います。もちろん、そうしたデータの信頼性、妥当性については慎重に検討すべきで、「当事者からのコメントに対する価値判断が短絡的、一面的」にならないように注意すべきです。
 一方で、応用行動分析学の研究のように対象者の行動を継続して長期間にわたって測定し、対象者やその環境にあわせて介入を計画するアプローチにおいては、研究遂行に当事者たちの協力が欠かせません。ある意味、周りの人たちからの積極的な参画行動を引き出し、維持しないと研究そのものができないこともあるわけで、こうした事情が、社会的妥当性アンケートに対する回答にバイアスをかけることは十分予想できます。
 しかしながら、研究でわかったことを実際に使うときには、やはりそうした関係者からの協力の取付が必要になるわけですから、そのこと自体に妥当性がないわけではないと私は考えます。むしろ、その研究がどのような人のどのような協力を得て成立したか、その協力はどのように勝ち得たかを論文に書く方が生産的なのかもしれません。
 なお、「社会的妥当性」の概念は応用行動分析学にのみ適用されるべきものではないと思います。それこそ「教育心理学研究」などに掲載される応用研究でも、こうした概念が適用され、測定、検討がなされるようになるといいと思います。

 作文の例、集団随伴性の例についてのご指摘はその通りで、各々の研究もしくはその追試で検討されるべき課題だと思います。つまり、実証的な問題(実験によって回答すべき問題)ということです。

 「強化がないと行動しない人間にしてしまうことはないのか? 」については、これも論理的には実証的な問題ですが、現実には実験するまでもないことだと思います。
 シングルケースデザインには無関係なコメントですが、行動分析学(というより行動分析学にもとづいた一部の臨床、教育活動)に対する批判としてはよくあるものなので回答しておきます。

 まず、ある人間のすべての行動に、他者からの賞賛や叱責を提示するのは現実的にも、もちろん倫理的にも不可能です。また、生きている限り、行動はありとあらゆる形で強化されます。言い換えれば、研究(や実践)で操作できる随伴性は、生体の行動全体にとってほんの僅かでしかありません。それだけ限られた随伴性の操作が、生体の行動全体に影響を与えることは、まずないと思います(もしあれば、何かしらの報告がなされているでしょうが聞いたことがありません)。さらに、そもそも賞賛や叱責なしに自発される行動が数多くあり、特に生きていくのに最低限必要な行動は賞賛や叱責なしにも自発されるはずです。
 単純な例:水を飲むたびに褒めたり、お金を払い、その後、褒めるのや支払をやめても、水を飲まなくなるわけではない。
 一方で、他者からの賞賛や叱責が人の行動に影響を与えることは、人が社会生活を営む上で、あるいは社会が社会として機能するために、ほぼ必須の条件です。親や教師が褒めることが行動を強化する機能を獲得できないと(発達障がい、知的障がいをもったお子さんにはこういうハンディキャップがありえるわけですが)、どれだけ教えるのがたいへんか、そういう仕事をされたことがある人ならよくわかると思います。
 単純な話:人が人として社会に適応していくためには、賞賛や叱責が行動を増やしたり減らしたりする機能を持つように教えることは、ほぼ欠かせない条件である。
 もちろん、できなかったことをできるように教える段階では賞賛が必要でも、その後は褒められなくてもやれるようにすべきだろうという指摘もあると思います。これはその行動の随伴性によると思います。放っておいたら使い方を学べないスマホでも、使い方を学んだ後は、電話したり、メールしたり、検索したりする行動を強化する内在的随伴性がありますから、賞賛いらずで維持できることでしょう。でも、たとえば歩きながらスマホを使う行動を減らそうとしたら、何かしらの随伴性を付加する必要がでてくる可能性が大きいです(歩きタバコでもいいし、健康のためにジョギングを続けることもでいいし、やりたくもないけどやらなくちゃらならない大学の仕事でもいいです;世の中には何かしらの教育、社会的随伴性なしには、望ましい行動が継続して自発されにくいことがあるのです)。
 現実的な話:人が人として社会に適応していくためには、賞賛にせよ、叱責にせよ、給与にせよ、法律と罰則にせよ、何かしらの随伴性を付加し、維持し続けないと難しい行動もある。

 番外編は7月末の日本行動分析学会創立三十年記念シンポジウムで岡山大学の山田剛史先生から話題提供のあった「シングルケースデザインにおける統計分析」についてです。シンポジウムの後、山田先生に個人的に質問させていただいたことも含めて書いておきます。
 私は統計の専門家ではないので、おそらくはトンチンカンになると思いますが、実は疑問だらけの話なのです。こういうのは、自分以外にも疑問に思う人がいるはずだが、きっと恥ずかしくて口に出せないのだ、だから自分が人柱となって恥をかいてでも質問するのだという思い切りが必要で、清水の舞台から飛び降りる気合いで書いてみます。

 シングルケースデザインのデータは個人の(あるいは同じ集団の)時系列データです。時系列データには系列依存性があることがわかっています。系列依存性があるかどうか、あるいはどのくらいあるかは自己相関を計算すればわかります。t検定やF検定を自己相関のあるデータに適用すると結果が歪みますから、他の方法を使わなくてはなりません。これが、シングルケースデザインの実験から得られたデータに、標準的なt検定や分散分析が使えない理由です。
 そして、この問題を回避するためにいくつかの検定方法が開発されていているのですが、山田先生が行動分析学研究でも紹介されている「ランダマイゼーション検定」は、自己相関の問題もクリアでき、多層ベースライン法など、AB法やABA法以外の実験デザインに適用する方法も開発されているので、検定方法としてはお奨めということでした。

  • 山田剛史(2000) 単一事例実験データへの統計的検定の適用 : ランダマイゼーション検定とC統計 行動分析学研究,14(2), 87-98.
  • 山田剛史(1999)単一事例実験データの分析方法としてのランダマイゼーション検定 行動分析学研究, 13(1), 44-58.

 ただし、標準的なランダマイゼーション検定では、介入を始める前にあらかじめ無作為に選んだ介入開始時期を決めなくてはなりません。これは、データをライブで監視しながら、それに応じて介入開始時期や介入方法を決めるときがある(そしてそれが臨床的に有意義でもある)シングルケースデザインの特性を失うものです。この点について山田先生に質問したところ、介入開始時期を後から決められる、ランダマイゼーション検定の変形もあるそうです。これについてはまた勉強しないとならないなと思いました。

追記:山田先生からさっそくご指導いただきました(ありがとうございます!)。上記の山田(1999)でも紹介されている Ferron & Ware (1994) がそれだそうです(後で読んでみます)。

  • Ferron, J., & Ware, W. (1994). Using randomization tests with responsive single-case designs. Behaviour Research And Therapy, 32(7), 787-791. doi:10.1016/0005-7967(94)90037-X

 さて、素朴な疑問です。

 「時系列データには系列依存性がある」とはいっても、どれくらいあるかは実験によって異なるようです。山田先生が引用されていたShadish & Sullivan  (2011)では、サンプリングした研究における自己相関の平均値を問題にしていて、非常に小さいが無相関ではないとしています。しかし、範囲が -.931〜.780、平均が -.08、標準偏差が.36ですから、特定のデータセットによっては自己相関が0に限りになく近いものもあるはずです。

  • Shadish, W. R., & Sullivan, K. J. (2011). Characteristics of single-case designs used to assess intervention effects in 2008. Behavior Research Methods, 43(4), 971-980. doi:10.3758/s13428-011-0111-y

 こうした研究から「(すべての)時系列データには系列依存性がある(はずだ)」、「(だから)得られたデータセットに自己相関があるかどうかには関わらず、t検定もF検定も避けるべきである」というロジックになるという理解でいいのでしょうか? もしそうなら、実験参加者や標的行動や状況や随伴性など、諸々の影響は無視し、「時系列データ」という枠組みでくくった母集団を想定し、得られたデータセットに自己相関がなかったとしても、それは偶然(サンプリングエラー)であるとみなすということでしょうか。

 なんでこんなことを考えているかというと、たとえば、まずは得られたデータセットに自己相関があるかどうかを確認し、なければt検定や分散分析、ごく小さければ二項検定、大きければランダマイゼーション法などの方法を使うというように、データセットの特性次第で分岐するような作業フローは作れないものなのでしょうか?

 でも、そうすると、たとえば、たかだが4つ、5つのデータポイントから(あるいはJABAの平均である10個前後から)、信頼性をもって自己相関を計算できるのかということにもなると思います。そしてそうなると、そもそもデータポイント数が少ない場合の自己相関は記述統計として意味を持つのか?ということになるかと思います。あるいは、ここでも推測統計をするのでしょうか? だとすると、その場合の母集団は何を想定することになるのでしょうか?

 シングルケースデザインで得られたデータの平均値をベースライン期と介入期とで比較するということは、何らかの母集団を想定していることになるのではないかと思うのですが、果たして何を母集団としているのでしょうか?(ランダマイゼーション検定はベースライン期と介入期のデータのすべての組合わせを母集団にする特殊な方法だと思うので、この話はあてはまらないのかもしれませんが)。
 同じ条件でその行動を記録し続けたときを母集団とするのでしょうか? その実験参加者のその標的行動の観察時間以外の自発を母集団とするのでしょうか? たとえば、算数の時間の課題従事行動を測定しようとして、60分の授業の中盤20分だけ、しかも週に4回ある授業の2回だけを抽出して測定し、かつ、測定方法が60秒間隔のタイムサンプリングだったとすれば、母集団は全算数の授業の全時間で、そこからサンプリングした標本から母集団を推定するというのもわからなくもありません。でも、たとえば、一日に2回ある登下校時の靴の履き替えを標的行動とし、毎日測定したら、それは全数調査になり、母集団の推定は必要ないのではないかと思います。このような検討は必要ないのでしょうか?
 そして、たとえ前者のようなケースであっても、測定対象を介入対象とし、その限定された条件で行動が変わるかどうかを問うなら、測定対象イコール母集団とはならないのでしょうか? (研究の目的に応じ、その他の場面への影響は「般化」として検討するとして)
 その場合、全数調査ですから、平均(を計算したとして)の差がそのまま母集団の差になるわけですから、検定する必要さえないのではないでしょうか?(それが教育的に有意な差かどうかは別の文脈での検討がもちろん必要として)。

 どなたか親切にご教授いただければ幸いです。

 最後に:山田先生も論文を引用されていたHuitema先生ですが、私はWestern Michigan University に留学中、彼の基礎統計の授業を受講したことがあります。とてもわかりやすく教えてくれる先生でした。発音は「ヒューテマ」ではなく「ハイテマ」だったと記憶しています。

吉田先生からの問いかけ:

○多くの人が同じように判断できるようになることは重要(ないし,必ず必要なこと)なのか?
○一律の判断基準などというものを想定すべきか?
○個々の状況を踏まえた職人芸的な面は本来存在すべきものでは?
 *ただし,職人芸的な面の言語化(の努力)は必要

 たとえば、減らそうとしている行動の頻度がベースラインで減りつつあるのに介入を始めてしまうなど、シングルケースデザインの基本原則を理解せずに研究や実践を行っている人も、残念ながら多数います。
 そのような現状を考えると、基本的な「一律の判断基準」をよりわかりやすく言語化し、教え、普及させるという仕組みが必要だと思います。
 その上で、個々のデータの読み取りについては、その研究で扱われている行動の特性や対象としている状況など、様々な変数によって影響される言語行動になるので、「職人芸的な面」も残ると思います。天気図やMRIの画像を読み取る力に個人差があるのと同じで、どれだけ判断基準を明確にしても、機械的に結論をだすのは難しい領域ではないかと思います。

○視覚的判断においてどのように考えたか(思考過程・判断の基準など)について各研究者がていねいに記述する必要があるのでは?
 (そうでないと)
・判断が甘くなってしまいがちでは?
・精緻な判断ができるようにならないのでは?
・(完全な収束というものを追求する必要はないと思うが)判断基準の(ある程度の)収束がなされないのでは?

 まったく同感です。多くの基礎研究では研究計画時点で条件の変更基準を設定します(例:連続した5セッションにおける生起頻度が平均値の上下10%以内に収まったらなど)。残念ながら応用行動分析学の研究でこうした基準を明確にしている研究は少ないです。もちろん、剰余変数を最初からなるべく統制している基礎実験と、フィールドで行う応用実験とでは、やってみないとわからない予測が難しい変数があることは確かで、研究計画時点で事前に設定した条件をそのまま突き通すことが無意味なことさえありますので、せめてベースラインを取りながら(私の研究室ではベースラインのベースラインを取ったりします)、介入の変更基準や中止条件を決めておき、それを論文でもそのように設定した理由と共に報告すべきだと思います。

○そもそも「視覚的判断 vs. 統計的分析の適用」というように択一視する必要があるのか?
・各研究において,両方とも適用しても良いのでは?

 「択一視」という主張はあまりみかけません。統計的検定をするべきだと主張している人もその多くは「併用」を主張していると思います。その根拠となるのは、視覚的判断のみでは主に第一種の過誤を犯す危険があるときがあるからです(第二種の過誤は起こりにくいとされています)。
 そもそも第一種の過誤が起きるようなデータは、行動の水準や傾向が介入によって明確に変わっていない場合ですから、本来なら、介入の条件を変えたり、別の介入を探すべきなのです。そのようなときに統計的検定を使って、たとえ統計的有意差が得られたとしても、それは社会的妥当性が低い結果である可能性が高いことになります。つまり、研究者の行動を強化すべき条件は、問題とされたことが標的行動の制御変数を明らかにしながらどれだけ解決できたかであり、目標は統計的な有意差ではないのだという考えが根本にあり、これが統計的分析を適用することへの本来の反論だと私は考えています。
 実際には、研究者の行動を強化する(あるいは引き出す確立操作として)、できるだけ早く論文を書き、できるだけ早く投稿、掲載するという随伴性もあり、これが十分に長いベースラインをとったり、行動が明確に変わるまで介入を続けるという行動を阻止する傾向にあることは否めません。査読者、編集者側の行動にも、時に同様の随伴性が働きます(こうした問題はどの分野でも似たり寄ったりではないかと思います)。でも、統計的分析を適用することがこの問題の解になるとは思えません。

○検定の適用が可能なようにデザインを考えてはいないか?
・「こうまでして検定を持ち込む必要があるのか」と思えてしまうデザインがある。
・「実験デザインや介入法の臨機応変な変更」という利点であるはずのことを反故にしてはいないか(「手段の目的化」ではないのか)?

 これも統計的検定の重視に反対する理由の一つです。そもそもシングルケースデザインで統計を使った研究は少なく、ご批判されているような「無理矢理な」論文を私は読んだことがありませんが、もしあれば同様の感想を持つと思います。

 同じシンポジウムで話題提供して下さった岡山大学の山田剛史先生にシンポジウム後にお話をお聞きしたところ、ランダマイゼーション検定には、事前に介入開始時点を決めなくてもいい変形版もあるそうですが、そうでないなら「臨機応変な変更」を失うのはもったいないと思うと話されていました。

 統計についてはさらに数々の重要な問題提起をいただきました。私は統計の専門家ではないので、かつ、シングルケースデザインで行う研究について最初から検定を前提にすることには懐疑的なので、以下、提起された問題はご紹介しますが、直接の回答はしないでおきます(それこそ山田先生などにご参加いただき、もっと詳しく、徹底的にこのあたりのことを集中して話し合うセッションなどをやってみれたらいいですね)。

○検定に関する種々の問題(有意水準の恣意性やデータ数によって検定力が大きく左右されることなど)について,どう考えるのか?
・検定をやっても,(現実には)外的妥当性の問題は解決しない。
・検定をやっても,内的妥当性への脅威(種々の攪乱要因の介在可能性)は解決しない。
○種々の検定法や記述統計量をどう使うか(ないし,どう使い分けるか)。
・従属変数(標的行動)の内容や,それに関してどのような状態になることを目指すのかなどによって,適切であろう統計量(効果量の指標)は異なる。
・各研究において,どれか1つのみを選択しなければならないわけではない。基本的には,多面的に記述する方が望ましいと考えられる。
・「平均値差÷標準偏差」という標準化された効果量よりも,単なる平均値差の方が適切な場合もあると考えられる(行動分析学では,通常,具体的な行動を従属変数としているのだから,値そのものの変化に関する意味づけが,ある程度,可能だと考えられる)。
・「臨床的に意味のある効果(差)」ということを意識した考察をしているか?
○効果の規定因分析に関するメタ分析は有用だと考えられるが,この領域では公表バイアスが顕著に生じているのでは?
○統計的分析の基本的な考え方に習熟することは,視覚的判断を精緻なものにすることにつながるのでは?

 応用行動分析学の研究では、上述したように、統計的な有意差よりも、臨床的、教育的、あるいは経済的な有意差の方が重視されます。たとえば、100点満点のテストを考えたときに、元々50点くらいの成績だったお子さんを指導によって60点とれるようになったとして、その差に統計的有意差があったとしても、それでほんとうに教えたことになりますか?という話です。「臨床的に意味のある効果(差)」とか「値そのものの変化に関する意味づけ」は常にしなくてはならないこと、論文でも「考察」で論じられるべきことです。

 このブログでもシリーズで紹介してきたように(下記に列挙します)、現在、心理学や関連分野でシングルケースデザインに統計的分析を使うことに注目が集まっているようです。しかし、ほとんどは、シングルケースデザインで行われた研究成果を集めてメタ分析するための議論です。シングルケースデザインで研究を行うのは、目の前の標的行動を社会的な要請に応じて変える制御変数を見つけるためであり、メタ分析を行うのは、そうした変数が世の中の類似の行動に、全体的にどのくらいの効果をもたらすかを推定するためです。つまり、研究の目的が異なります。目的によって必要な情報が異なるわけで、制御変数を「見つける」ためには効果量の測定は必ずしも必要ではないと私は思います。
 ですから、個人的な見解は、応用行動分析学の研究で統計的分析をする必要は多くの場合はないが(逆に統計的有意差を重視する随伴性は本来すべきことを妨害する危険もあるので反対するが)、後でメタ分析をする人がしやすいようにデータを提供するのはいいことだ、ということになります。学術誌の電子出版も普及してきていますから。たとえばシングルケースデザインのローデータを、論文のPDFと一緒にダウンロードできるようにする環境設定などを進めるべきだと思います。

臨床心理関係の図書を数多く出版している金剛出版から隔月で刊行されている雑誌『臨床心理学』で行動分析学の特集が組まれた号を読みました。

一般臨床、発達臨床、学校臨床、リハビリの他に、薬物依存支援や矯正教育における臨床という、ふだんはあまりお目にかかる機会のない領域に関する記事もあり、勉強になりました。

上記リンク先のこれまで発刊された号の特集タイトルを眺めていると、この雑誌で行動分析学が特集されたこと自体が画期的であることがよくわかります。

神村先生と伊藤先生の「誌上討論」からは、昨年、法政で開催した公開講座「臨床場面における「ことば」をめぐる精神分析と行動分析との対話」を思い出しました。あのときは、東京国際大学の妙木浩之先生と、同志社大学の武藤崇先生の「公開討論」を私が司会させていただいたわけですが、結局は臨床の目的の違い(≒クライアントのニーズの違い)が分水嶺であると(再)認識しました。そして、研究ならともかく臨床サービスについての話であれば、選ぶのはクライアントであり、セラピスト側ではありません。だから、異なる臨床目的をもち、異なるクライアントのニーズにそれぞれ対応しているサービスプロバイダー同士の対話であれば、お互い、どこがうまくいっているかを共有し、役に立てる会話をするのが生産的で、お互いに批判し合うのはあまり意味がないと思います。これは私の意見ですが。

この雑誌をクライアントさんたちが読むことはないでしょうから、こういう特集を組むことで、現在心理臨床をやられている方、これからやろうとしている方が、これまで学んできたアプローチとはかなり異なるアプローチがあるのだと気づくきっかけとなることに意義があるのでしょうね。

さらに「広がる」ことを期待します。

臨床心理学 第12巻第1号 特集:行動分析学で広がる心理臨床 臨床心理学 第12巻第1号 特集:行動分析学で広がる心理臨床

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Aogaku

青山学院大学から感謝状が届きました。昨年度に担当させていただいた応用行動分析学の授業評価アンケートの総合評価が上位30位以内だったそうです。

素直に嬉しいです。

所属大学でFD委員会から諮問されたら「こういう感謝状はもらっても嬉しくないのでは?」と懐疑的に答えていたと思いますが、いざいただいてみるとそれなりに気持ちのいいものですね(こうやって「自慢」もできるし)。

時間差がありますから授業準備や採点や講義中の様々な行動を強化するわけではありませんが、一種の確立操作として、今後の頑張る行動を引き出しそうです(名誉好子消失の阻止)。こういう機能推定は経験してみないとわからないものですね。事前の決めつけは慎まないとならないとあらためて思いました。

後日、「記念品」も届くそうです。ちょっと楽しみ。

青学の非常勤は今年度サバティカルということもあり、昨年度限り。今年度は杉山尚子先生にバトンタッチしています。きっと、さらに高い評価を受けられることでしょう。

感謝状に感謝の倍返しだ!(笑)

追記: 米国では全国を対象にすぐれた教員を選び、奨励するNTOY(National Teacher of the Year)という賞があるそうです。この賞を受賞された Charbonneau 先生らによるシンポジウムンの案内が届いていました。"Educational Leadership" 〜教育の目的とは〜:2013年10月22日(火)18:30〜20:00 東京大学本郷キャンパス 福武ラーニングシアターにて 詳細はこちらから。

 

(その3に行く前に2.5を挿入します)

以前、こんなツイートをしました。

日心のワークショップでは、行動分析学の「機能分析(functional analysis)」とは、問題行動の機能を、物の要求、注目獲得、課題回避、自己刺激などの、臨床的にはよくありがちな代表的な「機能」に分類することではなく、オペラントだけではなくレスポンデントの機能も含め、標的行動以外の行動も含め(両立しない行動の並立随伴性など)、あるいは確立操作や強化スケジュール、弁別刺激やプロンプトの有無や提示のタイミングなども含め、とにかく何が行動の制御変数となっているかを調べることであるという話をしました。

それで、その後、別件もあり、色々と文献を読んでいると、岡山大学の長谷川芳典先生が以下のように書かれているのを発見しました(色々考えた末に出した結論が、後から調べるとすでに長谷川先生が論文で書かれていたのを見つける、というのは日常茶飯事的によくあることです)。

実験的行動分析学のいちばんの特徴は「functional analysis」にある。「functional analysis」 は通常「機能分析」と翻訳されているが(Skinner, 1953, 原書 35 頁、訳書 41 頁)、「function」 には「関数」という意味もあり、じっさい、物理的用語で記述された、環境側の諸要因(独立変数)と、行動(従属変数)との関数関係を定立し、行動の定量的な予測やコントロールを目ざすことが主要な課題であるとされてきた。

長谷川芳典 (2011) 徹底的行動主義の再構成—行動随伴性概念の拡張とその限界を探る— 岡山大学文学部紀要, 55, 1-15.

星槎大学の杉山尚子先生も「functional analysis」を「機能分析」ではなく「関数分析」と訳すことを主張されておりますが、長谷川先生も、単純に行動が上がったり下がったりすることだけではなく、どのくらい上下するのか、どのように上下するのか、質的な変化までも含めて予測制御することを可能にするのが「関数」分析であるとされています。

数学的(統計学的?)には、y=f(x) のxやyがノンパラであっても(介入の有無や行動変化の有無)「関数」と呼ぶのではないかと思うので(自信ありませんが)、そうであれば「functional analysis」を「関数分析」と訳すのも悪くないなと思います。

ただ、「関数分析」という訳語には若干の抵抗感もあります。それは、行動分析学の個々の研究は、その研究だけで汎用的な関数関係を見いだすようには設計されていないからです。応用行動分析学の研究は特にそうです。関数関係が見いだせたとしても、それはその研究が対象とした人や行動や場面に限定された関数関係です。それが汎用的なものかどうかは他の研究で再現されるかどうかを待たないとなりません。

ですので、「行動分析学という学問の目的は<関数分析>を明らかにすることである」というフレーズには違和感は感じませんが、「この研究の目的は<関数分析>の同定である」となると、特に応用研究ではフワフワした違和感を覚えます。

訳語に関する議論は、元の用語や概念の定義を見直したり、詳細に分析するきっかけとなるのなら意義があると思いますので、そういう文脈では、面白いテーマの一つになるかもしれないと思い、捕足しました。

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