2011年11月アーカイブ

自分にとって旅は修行。生活環境が変化するのは苦痛だし、予想外のことが起こるのも苦手。だから日常生活ではできる限り生活を単純なルーチン化し、すること、する場所、する時間は、できる限り固定化している。

だから、本来、旅行はしたくない。テニス合宿やスノボのように、やることが決まっているなら大丈夫なのだが、いわゆる観光旅行のように、目的もわからず、ハプニングだらけの徘徊のような活動は性に合わない。

それでも若い頃は、なぜか一人旅をよくした。千葉から原チャリで四国までテント暮らしで旅したこともある。アメリカ留学中も休みになると一人であちこち出かけたものだ。アジア諸国はけっこう歩いて回った。なんだか、そういうのがカッコいいと思っていたのだ。

でもあるとき、ふと気がついた。なにこれつまらないじゃんって。一人旅のときには、美術館や博物館、なんちゃらタワーなど、普段では絶対に行かないようなところを回るわけだが、そもそも寺もチャペルも、名所旧跡の類いにはまったく興味がない。食事も一人でしないとならないし、言葉も通じないことがあるし、何しろ、日常生活がかなり快適で楽しいのに、そこから離れて暮らさないとならない。

そう、勘違いをしていたのだ。若気の至りというやつに違いない。大学生の頃、人はひとなりという言葉通りに生きるのが大切と信じて、あえて外見より性格で女の子を好きになろうとしていたのと一緒だ。

それでいつの頃か、ぱったりと一人《旅》をするのをやめた。毎年5月にアメリカで開催される国際行動分析学会(ABAI)に参加するのもやめた。日本を1週間あけるのに、その前後1週間は準備や後始末に追われる。それに、普段からあまりに規則正しく生活しているせいか、はたまた単に加齢によるものか、時差ぼけがひどくてたまらない。逆に、友達を訪ねたり、ダイビングやスノボーや山登りをするという、目的やスケジュールがはっきりした《旅行》だけをすることにしたのだ。

しかし、そうこうしていると、これも加齢のせいなのかもしれないが、どんどん頭が固くなっていくのが自分でもわかる。同質性への執着、新奇性、自分とは異なるものへの拒否感がどんどん強くなってくる。少しでも決まったスケジュールでコトが進行しないと満足できないどころか、イライラするようにまでなってくる。そう、寛容さというものが乏しくなってくるのだ。

《旅》に寛容さは必須である。というか、ケセラセラ的寛容さがないとやってられないのが《旅》である。昔は自分ももう少し寛容だった気がする。もしかすると《旅》という随伴性が自分の中にあるわずかながらの寛容さを保持してくれていたのかもしれない。

というわけで、今回は、ほんとうに十年ぶりくらいの《旅》である。11/24-26にスペインはグラナダで開催される国際行動分析会に参加することが建前だが、その前に6日だけ休みをとり、バルセロナ、マドリッドを歩く旅とした。スペイン、というかヨーロッパは初めてで、もちろんスペイン語は話せない。

どうせ時差ぼけで早朝に起床してしまうだろうから、その時間を使って旅の記録を残したい。

というわけで、オラ、バルセロナの街並。

Img_0787

グエル公園のさらにその上の丘から。グエル公園はアントニ・ガウディの作品が並ぶ公園で、世界遺産に登録されている。

観光客はここまでは来ないみたいで、地元の人が犬を散歩(というか軽い登山くらいの傾斜)させていた。

ちなみに、うんちはし放題であと始末もしてない。グエル公園の中にも放置された犬のうんちを多数発見。それでも世界遺産。

追記:一応、出発前にiPhoneのアプリでスペイン語の挨拶くらいは勉強したのだが、誰も「ブエノスディアス」とか「ブエノスノーチェス」とか「コモエスタ」「ムイビエン」とか言わないじゃん。ほとんどすべて「オラ」でOK。地元の人に聞いたら「ブエノスディアス」とかは会社などでお客さんに会うときに使うような、よほどフォーマルな挨拶レパートリーらしい。


アーカイブ

法政心理ネット