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自閉症教育実践研究協議会

Noro20070209
(↑野呂先生。話してる人の画像をスクリーンに映しだす演出(?)が陣内孝則陣内智則のネタっぽくて思わず写メってしまいました ^^)

先日、学校見学におじゃました、久里浜養護学校の研究発表会に行ってきました。とはいっても残念ながら午前中は別件で参加できず。さらに、会場(代々木オリンピックセンター ←すごい豪勢!!)のホールで京都の朝野浩校先生(京都市西総合養護学校)に再会し、すっかりしゃべりこんでしまいました(これはこれで楽しかったです)。

というわけで最後のシンポジウムだけ聞いたので、研究の全体像は分からずじまい。後で報告書をよく読んでみることにします。

ちょっと長くなりますが、シンポジウムとその後の「講評」で印象に残った二つのことを書き留めておきます。

自閉症をもった子どもたちを“健常”に近づけるためにできないことを教えるという姿勢と、子どもたちをそのままの状態でみとめるという姿勢が、しばし対立軸としてあらわれるようです。私の周りではほとんどでてきませんが、人づてにはよくある議論だと聞いています。

シンポジウムの司会を務めていた野呂文行先生(筑波大学)が、パネラーにこのへんのことを質問していましたが、「対立軸」としては明らかになりませんでした。これは、ある意味あたりまえの話で、子どもたちと一緒にいる保護者や教員の方々にとって、子どもたちとのやりとりの一つひとつのどれが「指導」でどれが「支援」かなんてことは区別もつかないし、そんな区別には区別すること以上の意味(というか意義)がないのだと思います。

もちろん、指導や支援の目標や方法の妥当性というのはいつでも評価されるべきで、それは自立生活や社会生活、職業生活にとっての必要性だったり、QOLをどれだけ高めるかということだったり、ご本人や保護者の希望だったりするわけでしょうが、そういう評価軸に中には、上述の「“健常”に近づけるために」vs「そのままの状態でみとめる」という視点はうまくフィットしないというか、無関連因子のような気がします。

発達障害を持っている・持っていないに関わらず、個人をそのまま認めるというのは「基本的人権」が保障されている近代国家ではあたりまえのことだし、発達障害を持っている・持っていないに関わらず、いまできないけどできるようになりたいことがある場合には、何からの指導を受ける権利も「学ぶ権利」として保障されているからです。

学問にしろ、ある種の政治運動にしろ、砂上の楼閣に陥った言語行動によくある、“理念の一人歩き”なんだろうなぁというのが感想です。

もう一つ。研究発表会のオオトリは文科省の石塚謙二調査官による「講評」でした。そもそもこの学校はもともと国立の養護学校であり、また今回の研究発表会は3年間にわたる文科省の指定研究を総括するものなので、そういう意味では自然な流れなのかもしれません。でも、「研究」の最後のしめをお役人さんが務めるというのは、我々、研究者にとってはきわめて異例ですので、とても不自然で不思議な印象でした。

石塚氏は特殊教育から特別支援教育への移行を進めている大元締めみたいな人です。教員や保護者の方々からも意見をよく聞かれる人で、よくある「官僚」のイメージ(霞ヶ関でえらそうにしている人たち)とはほど遠い方です。前任校の鳴門教育大学の附属養護学校が自閉症児の教育に関する研究指定を受けたときにも、そういう印象を持ちました。

自閉症をもった子どもたちにフィットした教育課程を作り出すこと、もっと言えば、全国どこの学校にいっても、自閉症をもった子どもたちがそうした指導や支援を受けられるように、スタンダードをつくること(もっと言えば法律にすること)が、石塚氏がコミットしている仕事だということです。そして、今回、石塚氏は、自閉症をもった子どもに必要なのは、たとえば視力が低い人たちへの眼鏡のような固定的なツールではなく、自立に必要な機能的なスキルや自発的コミュニケーションといったことを、ひとり一人の子どもにあった方法で教えるための変動的なシステムであるというような総括をされていました。

これはとても正確な理解だと思います。もちろん大賛成で、できるだけ応援したいことではあります。ただ一つ懸念もあります。そういうシステムが果たして「教育課程」の変革で実現するかということです。

「指導要領」というのは、何年生の何学期に何をどこまで教えるべきか、そして、それを教えるにはたとえばこういう方法が有効ですよといった、極めて固定的な処方箋の伝達には役立つと思います。そして、そういう処方箋が学級のほとんどの子どもに同じように有効な場合には、国の教育システムとしてうまく機能すると思います。

しかし、石塚氏がまとめられたように、発達障害をもった子どもさんの指導には(もっと言えば、発達障害の有無に関わらず、実は「教育」には)、ひとり一人の子どもにあった変動的なシステムが必要なわけです。たとえば「自分の名前を漢字で書ける」という指導目標は子どもさんの発達段階、障害の特性などなどによって、適切なときもあれば不適切なときもあるのです。

面白いことに、シンポジウムのパネラーの一人であった前川久男先生(筑波大学)が紹介されていた、自閉症をもった子どもに有効であると米国教育省が推薦しているプログラムの多くは、“教育課程”ではなく、個々の子どもにあった指導目標を設定する方法や指導方法の選択から始まり、指導経過のモニタリングや改善などをひっくるめて、さらにそういうことをスタッフができるようにするスタッフトレーニングまで含んだ、包括的なパッケージなんですね(もちろん、その多くが行動分析学にもとづいたプログラムなんですけど)。

米国教育省はそうしたプログラムを推奨はしていますが、私の知る限り、日本の「指導要領」にあたるようなものは存在しません。それでも、米国にはそうしたプログラムを採用している学校が少なからず存在します(たとえば、応用行動分析学を活用していると明言している学校だけでもこれだけあります)。


もしかすると、発達障害をもった子どもたちにとって有効な学校教育をつくる仕組みを検討するうちに、日本の学校教育全体をよくするための仕組みとして、これまでのやり方がこれからもほんとうにベストなのかが問われ直されるのではないかと、私は密かに期待しています(ブログに書いちゃうと「密か」ではなくなっちゃうけど)。

その結果は、もしかすると、米国型の、中央はあまり関与せず現場や保護者や専門家に任せる方式が有効となるかもしれないし、もしかすると、日本型の中央からのトップダウンで、国中すみずみまで優れた自閉症教育が行き渡るという世界でも稀な国になるのかもしれません。私が指摘したいのは、文科省の仕事のやり方も、ひとり一人の子どもの学習や生活にインパクトを与える変数の一つなので、おおいに検討される余地があるということです。

最後に、石塚氏のお話の中で、もう一つ、極めて大事なことがありました。以前、このブログでも取り上げた、特別支援教育関係の予算アップについてです。このうち、市町村に配分される学びの支援関係の予算は一般会計として配分されるそうで、ナント、そのままだと「道路」や「橋」に使われてしまう可能性もあるそうです。学校長、教員、保護者の皆さん、そういうことにならないように、各市町村の教育委員会の人たちを支援して、予算を確保してもらって下さいね。

以上。

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昨日はお疲れ様でした。

今回の報告では、4つの研究すべてで、児童の行動をデータにとり、グラフ化するといった、徳島で行われている事例研究さながらの発表が行われていたのは、とても興味深かったです。

ただ、ABC分析のような用語が細かく説明されているのを聞いて、全国的にはまだ応用行動分析は浸透していないのか?と思ってしまいました。と同時に、徳島県での取り組みは、すごいことなんだなと再認識しました。

あと、発表によっては、どのような形で記録したのか書かれてなかったのが残念でした。

>自閉症をもった子どもたちにフィットした教育課程を作り出すこと

教育課程については、ひわさ分校でも実践集録等でいろいろと考えています。今回の話や島宗先生のコメントを参考にして、学校の中で話し合いたいと思います。

なかなか東京に話を聴きに行くことができないので、今回は1日だけでしたが、よい勉強になりました。会場から新宿までの間、いろんな話が聞けたのも楽しかったです。

次回は3月3日ですね。よろしくお願いします。

陣内智則では??

島宗先生、こんにちは。いつもblog拝見させてもらってます。初めて書き込みます。
>固定的なツールではなく、自立に必要な機能的なスキルや自発的コミュニケーションといったことを、ひとり一人の子どもにあった方法で教えるための変動的なシステムで・・・
私は養護学校の職員ですが、校内で最近、画一的で、固定的なツールを推し進める傾向があり、それで良いのかと悩んでいる矢先に、先生のこの記事を読んで、なんだかすっきりしたところがあります。
以前、先生の講義を受けて、「チームを作ろう」というお話がありましたが、私が勤務する学校でも、ようやくABAを学習するチームができつつあります。これからもっともっと勉強して、子どもたちに還元したいです。
先生のblogを今後も楽しみにしています。失礼します。

まえば先生 >

 出張、おつかれさまでした。3/3の発表会では日和佐での取り組みの報告もあるんですよね。楽しみにしています。


SHINO >

 う、ほんとだ (^^ゞ

 訂正。

Goghさん >

 固定的なシステムは変動的なシステムなシステムに比べて、導入しやすいというメリットがあります。たとえば、TEAACHの構造化のアイディアなんかは、その意味でとても優れていると思います。

 そうした固定的なシステムではどうもうまくいかないとこへの対処として、何人かの先生たちがチームを作って変動的なシステムを取り入れ、成功をおさめ、そこから学校全体へ広めていくという道筋が現実的なのかもしれませんね。

 頑張って下さい。

被写体になった野呂@筑波大学です。

私自身は「指導」と「支援」を対立軸としたつもりはありませんでした(^_^;。

話題提供を聞いて私が考えていたのは,「正の強化(快経験)」による学習の積み重ねの大切さでした(ここでは詳しく説明はできませんが)。一見すると成立している行動であっても,「負の強化(不快経験の回避)」によって維持している場合が多くあります。社会参加をする上で,最終的に生活の中で定着していく行動は,正の強化により維持されている行動であり,養護学校(特別支援学校)の指導においても,その点に配慮して指導して欲しいなあ,と思っています(当たり前のことかもしれませんが)。そんな思いで質問をしたのですが,私の話術不足により伝わらなかったみたいですね(残念)。徳島ではがんばります。

野呂先生、コメント書き込みありがとうございます。なるほど、そういう展開だったのですか(私の理解不足ですね、きっと)。

マロタリアン的(? ^^;;)には、好子出現による強化(≒「正の強化」?)を増やすこと、行動に非随伴の嫌子出現や、嫌子出現による弱化は最小限にすることには賛成ですが、嫌子消失による強化(例:騒音でうるさいときにパニックになる前に「静かにして下さい」と要求する、など)や、好子消失阻止による強化(例:給食でみそ汁やおかずがこぼれないように、ゆっくりとお盆を運ぶ、など)、嫌子出現阻止による強化(交差点をわたるときには信号をみて、青になって、かつ、左右から車がきていないときにわたる、など)等々、嫌子(≒「不快経験」?)がからんだ随伴性にも、社会参加をする上で学習が不可欠なものがたくさんあると思います。

指導の効果をあげるのに大事なのは、好子出現か嫌子消失かの区別ではなく、強化率(成功率や正答率?)のような気がします。そして、それとは別次元に、指導されていて子どもたちが楽しいかどうかとか、指導者との関係がポジティブになっていくかとか、指導目標以外の望ましい行動が自発されるかとか、そういうことには、できるなら嫌子よりも好子を使った方がいいのではないでしょうか?。

もしかすると、そういうふうに区別して指導法や指導環境を評価したり、比較検討した研究があるのかもしれませんが、私は知りません。

なんて議論が徳島でできるといいですね(笑)。

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