2005年3月アーカイブ

外出先で仕事をしようと、iDisk(アップルは.Macのインターネットディスク)に接続しようとしているが、つながらない。

再起動しても×。アップルのホームページでサーバーの状況を確認すると「通常運用を行なっています」のグリーンサイン。

applesupportidisk

変だなと思ってサポートに電話したら、「ほんとですね、サーバーが落ちています」とのこと。「ホームページの運用状況が更新されてませんよ」と冷静にコメントして電話を切った。

こんなことならUSBメモリーにもバックアップをとっておくべきだったが、後の祭り。

運用状況はこの後すぐに更新された。

appleidisksupport2

う〜ん..... おおよそでいいから復旧の見通しも表示して欲しいなぁ(数十分なのか、数時間なのか、半日以上なのか)。

映画『羊たちの沈黙』や海外ドラマ『Xファイル』などに登場するFBI捜査官たち----アカデミーで学んだ“行動科学”を駆使して、犯人の割り出しにプロファイリングという手法を使うという。

映画やドラマの世界だから現実離れしているはずだし、誤解・歪曲も多いはず。でも、先進国では犯罪者の捜査に“行動科学”の手法が取り入れられていることは事実らしい。

本書は「科学警察研究所犯罪行動科学部」という、日本の警察にもそんな部署があったのだ!という機関に所属する研究者たちが書き上げた、捜査心理学に関する概論書。

捜査心理学における“行動科学”とは、主に心理学を中心に、犯人の行動パターンを分析したり(数量化など、統計的な手法を使う)、容疑者や証人への尋問におけるテクニックを開発したり(認知心理学の「目撃者証言」に関する知見なども引用されている)することのようだ。

本書の後半では、ばらばら殺人や連続放火、年少者わいせつ犯罪など、犯罪の類型ごとの詳細な分析も紹介されていて、誠に興味深い。いずれの場合も、基本となるのは犯罪者の過去の行動記録であり、複数の行動間の関係を主に統計的に見つけていくことが主眼である。

現時点では行動分析学の知見は活用されていないようだが、複数の行動間の関係をもうすこしロジカルに見ていくのに、行動分析学のアイディアを取り入れても面白いのではないかと思った(たとえば、犯罪行動や犯罪未遂行動、犯罪につながる前段階の行動などを動機付け、強化している背景要因などを整理するなど)。

ちなみに、ドイツ語では“行動科学”による分析のことを「行動分析(behavior analysis)」と呼んでいるらしいが、行動分析学とは無関係のようである。

捜査心理学捜査心理学
渡辺 昭一

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東京理科大学の澤田利夫先生が日本の小学校で使われている算数の教科書を分析したところ、1970年代と2000年代を比較すると、総ページ数で26%、復習・演習で63%も少なくなっていることがわかったそうだ(日経新聞, 2005.3.12)。

澤田先生はこれが「学力低下」の一因であるとして、1970年代のカリキュラムに戻すことを提言している。

算数に関わらず、読み・書き・計算の基礎スキルの流暢性は、これらの基礎スキルを駆使しなくてはならない、思考や問題解決など、私たち人間の知的活動に重要であることは多くの研究からわかっていることだ。

復習や演習などの「練習」の時間や機会を減らせば、基礎スキルが習熟しないままになってしまう危険も自明の理だと思う。

日本の場合、義務教育のカリキュラムは法律で定められている。それを変更するのはどうやら大事(オオゴト)で、お偉い先生たちが喧々諤々することになるそうである。時間がかかるし、変更されたカリキュラムが最適であるという保証もない。

だから、教育現場では、むしろ、カリキュラムがどうであれ、子どもたちの学習を保障するにはどうすればいいのかを工夫していくことが必要だと思う。

ちなみに、現在、米国と台湾の研究者と共同で、小学校5年生のかけ算に関する国際比較的な研究をしている。サンプル数が少ないので一般論を導くつもりはないのだが、現在までに集められたデータからは、日本と台湾の小学生は九九(一桁のかけ算)の流暢性で米国の小学生を上回っている。日本と台湾では差がないか台湾の方が若干上のレベルだ。そして、この基礎スキルが駆使される2桁のかけ算でも、その差が残っている。というか、差は拡大する傾向にある。

教材さえ工夫すれば、流暢性を向上させる練習にかかる時間は、実はそれほどかからないというデータもある。一日1分間の練習を数回続ければ基礎スキルは向上するからだ。おそらく、何が何の基礎スキルであるかを見定めて、基礎スキルの数を集約することにあると思う。(このあたりについてはここの学校が情報の宝庫)

そうすることで、残りの時間を、体験学習でも、問題解決的学習でも、総合的学習でも、基礎スキルをふんだんに駆使する課題に充てられるはずだからだ。

速読って、風水みたいな眉唾のトンデモ系かと思っていたけど、新聞で取り上げられていた「トレーニング例」を見て、もしかしたらそれなりに意味があるかもと、さっそく本を注文した。

とりあえず、気になったのは、これ。

sokudoku

「あ」から順番に「い」「う」「え」とかなを探していく課題。1分間でどこまで探せますか?ということで、まさにPrecision Teaching と同じ手続きだ。

この課題で必要とされる行動は読み(テクスチャル)というより、視覚的探索。これが、意味をとりながら速く読む行動の下位行動にあたるのかどうか、とても興味深い。

「注意力が散漫」とか「視野が狭い」という人に文章読解を教えるのに、まず課すべきなのは、どれだけ視線を速く移動しながら音読するかということかもしれない(vs 「主人公の気持ちになって読みましょう」と教示する)。「注意のスパン」みたいなものが神経生理学的な限界としてあるなら、行動のスピードを上げることでそれを補償できるかもしれないからだ。

記事によれば、60-80時間のコースで10万円くらいかかるスクールもあるという。授業料返還などを要求する訴訟が起こっているとは聞かないから、それなりに効果があるということだろうか?

学校経営品質

schoolmanagement

三重県では社会経済生産性本部の経営品質向上プログラムを応用した学校経営改革に取り組んでいるという(日経新聞, 2005.3.26, p.29)。

記事を読む限り、学校の理念や方針をまず決めて、そこからトップダウン式に、数値化して評価できる目標を作って、その達成を確認していくという、マネジメント手法としてはごくごく一般的な方法だ。公立学校ではほとんど行われていないと思うので画期的であることは間違いない。

記事には、

学校では「頑張った」という言葉をよく聞くが、これでは客観性に欠けている。他人の評価を率直に受け、評価を「あくなき向上心」に活用するためにも成果主義は重要である。

とある。

客観的な目標を共通理解の上で設定することで、その達成のための建設的なアイディアが、教員や、保護者や、理想的には生徒からもドンドンでてくるようになると望ましいのだろうが、そのためには一般企業にはあまり見られないたくさんの障壁がありそうだ。

具体的な事例を知りたかったのでweb検索したところ、事例発表会が予定されていたのに、3月23日にすでに終了していた。

とても残念。

9たての0投稿

3/18から投稿0の日が9日も続き、10日ぶりのblog記事になった。

先週は土曜から水曜まで休みをとって北海道でボード(スノー&クライミング)をして遊んでいた。そのせいで書き込む時間がなったこともある。でも、もっと大きな要因は、毎週月曜か火曜にやっていた、書き込み数とアクセス数の集計をしなかったことかもしれない(木曜から日曜まで、じゅうぶん時間はあったので)。

ちなみにアクセス数は、ココログのアクセス解析の機能を使って、累積数などをグラフにしているのだが、サーバーの不調やメンテナンスなどが多くて、データが欠損することが多く、信頼できそうもない。

余分にお金を払っているのにたいへん不満である。  (−−”)

blog_cum_050328

ゼミ日記で竹田先生がこんなことを書いている。

「変数の混交」 ふと、自分がケース研究をしていた時のことを思い出しました。
 掲示板がなかったその当時は、先生と定期的にミーティングをして、指導手続きの修正をしていきます。
 ついついやってしまったのが、現在の指導手続きに効果がないと分かると別の方法を思いつき、すぐ実践してしまうのです。
 結果的には効果があったものの、二つ以上の新しい介入を同時にしてしまい、ミーティングの時「何が有効だったの?」と質問されて初めて気が付くという、情けない状態でした。

決して情けない状態ではない。指導に効果があったのだから、むしろ誇らしい状態だ。今では「何が有効だったのだろうか?」と考えられることからすれば、望月先生の言う「○→×」型に近い学習だったとも言えるのではないだろうか?

研究では、どんな環境設定が子どもの学習に効果があったのかを調べるために、変数をできるだけ統制して、変数の混交がなくなるように工夫する。

しかし、学校で子どもを指導しながら同じように変数を明らかにして行くことは、不可能ではないにしてもかなり難しい作業だと思う。変数の統制をする時間的、機会的な余裕がないのが現実だ。

学校で大切なのは「変数の混交をしないようにする」ことではなく、「変数が混交しているときにはそれに気づくこと」ではないだろうか? いくつもある変数の候補から、ほんとうは指導に効果がない変数を効果がある変数であると思い込んでしまうと、「これがうまくいくはず。前にもうまくいったから」という思い込みで、効果のない指導を続けてしまったり、他の先生に「こうすればうまくいきますよ」と、根拠の薄いhow-toを伝授してしまうかもしれない。

指導がうまくいった理由はこれかもしれない、これかもしれない、あるいはこれかもしれない...と、指導場面に多数存在する剰余変数をできるだけたくさん考えられるようになることが重要だと思う。そうすれば、同じ方法や教材を使って次にうまくいかなかったときには、他の可能性を試してみれるから。

去る3/12(土)『鳴門教育大学特別講座:学校でここまでできる!』が附属養護学校で開催されました。

年度末の土曜日。しかも徳島ヴォルティスJ1昇格後初のホームゲームと重なったににも関わらず、特別支援教育に関わる80人以上の方々が参加して下さいました。

特別講演の望月先生のお話は、子どもを認めることから始める“脱力系”の考え方が面白かったです。

mochizuki050312

行動分析学は「教える」ことが得意なだけに、子どもがまだ獲得していない行動を見つけて次々と教え込んでいくことになりがちですが(これを「×から○へのアプローチ」と呼んでらっしゃいました)、すでにできていることを使って子どものQOLを上げていくという“脱力系”の支援方法(これを「○から×へのアプローチ」と呼んでらっしゃいました)は注目すべきだと思いました。もちろん、そのためには回りの大人の行動を変えないとならないことも多いわけです。

望月先生のご講演と配布資料はコラボネットにアップしてあります。ここからどうぞ。

また、後半のポスター発表の時間には5つの学校で行われた36の事例研究について活発な質疑応答が行われました。ほとんどの先生方にとってはポスター発表という形式自体が初体験で、なんでこんなことまでしなくてはならないのだろう?という戸惑いもあったようです。

postersession050312

いろいろな学校に出かけて、いろいろな先生方とお話していると、担当されているお子さんの学習や生活支援や指導に取り組み“悩み”ながら、どうすればいいのか、何ができるのか、具体的な方法論について質問をされることが多いです。

専門家としてそれらしいアドバイスをすることはいくらでもできますが、本当に役に立つ情報は現場にあるものです。というより、現場での事例研究が豊富で、しかもたくさんの先生方がそういう情報を共有できれば、先生方にとってこんなに便利なことはないわけです。

これを機会に、先生たちの中に、教わる行動だけではなく、教える行動がもっと増えていくといいなぁ。
そういう感想を持ちました。

柴田さんの分析と同じように、前々から気になっていたMacとWinのコントロールパネルのインターフェイスの違いについて比較してみた。

MacではOSXからコントロールパネルという名前がなくなり、「システム環境設定」というメニューに各種設定項目がまとめられた。

cntlpanel_mac

XPで同じような機能を果たすのは「コントロールパネル」である。Windows98のときにも混乱したのだが、XPになっても改善されていないのは、実は「プロパティ」でも各種のシステム環境設定が変更できたり、中にはプロパティじゃないと/コントロールパネルじゃないと設定できない項目があることなのだが(つまり一貫性がない)、ここではそのことについてはふれないでおこう。

ここで比較したいのはアイコン表示の違いだ。

XPの「カテゴリー表示」は全部で10カテゴリー。この分け方も問題で、何がどこにあるのか直感的に分かりにくい。逆に「サウンド、音声、およびオーディオデバイス」なんて、名称自体がものすごくリダンダント(冗長的)。たぶん、慣れないうちは、探し物が見つかるまであちこち開いてみるユーザーが多いのではないだろうか。

ctlpanelXP-1

自分はそんな宝探しみたいなのが嫌なので「クラシック表示」にすることが多い。これだと標準で(?)アイコン の数は29。ちなみにMacOSXは24だ。

ctlpanel-XP2

ところがこのクラシック表示も使いづらい。長らくその理由が分からなかった(というより考えてみなかった)のだが、柴田さんの分析がヒントになった。

まず、クラシック表示(アイコン表示)の並びは、なんと五十音順。Macのようにカテゴリー毎にまとまっているわけではない。29の設定の名称を覚えてしまわない限り、どのへんに何があるのかわからないことになる。

しかも、このアイコンの位置はウィンドウのサイズによって変わってしまう。「プリンタとFAX」はウィンドウの右の方にあることもあれば、左の方にあることもあるのだ。

ctlpanel-xp3

これに対してMacの「システム環境設定」ではカテゴリー毎にアイコンがまとめられ、位置は固定。これまで気づかなかったが、この画面はリサイズできないようになっている。つまり、強制的に位置が手がかりになるような設計になっているのだ。

毎日のようにパソコンをいじらなくてはならないものにとって、位置の手がかりは重要だし、有効だ。これが使えないと、どこにアイコンがあるのか、毎回、視覚的に探索しないとならなくなる。

たとえば、システム環境を設定するいくつかの課題を与えられたときの遂行スピードなどを比較すれば、ユーザービリティに関するこの側面の評価ができそうだ。

macvswin01

MacPeopleの4月号にMacとWindowsのインターフェイスの違いについて柴田文彦さんによる面白い記事が掲載されていた。

Macではアプリケーションのメインメニューは画面(デスクトップ)の最上段に表示される約束になっている。これに対しWindowsではメインメニューは各アプリケーションのウィンドウの上段に表示される。Windowsではこの仕様によって、メインメニューを操作しようとするとき、理論的にはマウスカーソルの距離が短くてすむ。だから操作が機敏にできるはずという設計だ。

ところが柴田氏は、常に画面の最上段にメインメニューがあるMacのインターフェイスを、(1)いつも同じところにあるから探さなくてすむ、(2)マウスカーソルを移動させたとき、画面の(正確にはデスクトップの)端にメニューがあれば、それ以上カーソルが動かないので、マウスの移動先の実質的な大きさはWindowsのメインメニューより大きくなるとしている。

試しに目をつむってマウスを動かしてみた。Macではかなり正確にメインメニューにアクセスできる。いつも同じところにあるし、マウスカーソルが“通りすぎないから”だ。同じことをXPでやってみたが、まったくヒットしない(当たり前だけど)。

Windowsでもすべてのアプリケーションを全画面表示(最大化)すれば同じことになるかなと思ったけど、実は、各ウィンドウの最上段はアプリケーションの名称が表示される欄になってしまっているから、カーソルは通り過ぎてしまうのだ。

もうちょっと現実的な実験として、たとえば、文章ファイル内のカット&ペーストをメインメニューから行なうスピードやそのときの誤反応率みたいのを計測すれば、実証的なユーザービリティの評価になるかもしれないと思った。

ネットゲームでアイテムを盗難されたと届けでる被害者が増えているという。元恋人から別れた腹いせにすべてを盗まれた人もいるらしい。

当局は「盗難」ではなく「不正アクセス禁止法違反」などで立件可能かどうかを検討しているそうだが、中には盗難後、高額で取引されているアイテムもあり、そうなると「バーチャル」などと言っていられないリアルな事件である。

パソコンやネットが普及してから、「仮想現実」とか「バーチャルなんとか」とか、やたらに「仮想」と「現実」と区別しようとするようになってきているが、そもそもそんなに違うものなのか、よく考えてみなくてはいけないと思う。

たとえゲームであったとしても、ゲーム中の行動随伴性はまったくリアルである。強い敵がいるところを回避したり、アイテムが見つかりやすいところを探したり、プレイヤーの行動はリアルに強化され、弱化され、消去される。

2チャンネルでの目を避けたくなるような誹謗中傷書き込み行動なども、「バーチャル」だから生じるというより、反社会的行動を弱化する行動随伴性の欠如などに原因があると考えてみれば、たとえばかつて東南アジア諸国から非難をあびた日本人海外旅行者の「旅の恥はかき捨て」的な非人道的行為や、もっと極端な状況では、戦時下の兵士の行動(たとえば米兵のイラク人虐待)にも通じることがあるとわかるのではないだろうか。

もちろん、その上で、ゲームをしているときにさらされた行動随伴性によって、現実での行動にどのような影響が起こりえるのかを検討していくべきだろう(たとえば、バーチャルなゲームばかりしていると殺人や殺傷に麻痺してしまって、現実社会でも命の尊さを軽んじるようになるという批判がほんとうに的を射ているのかどうか、など)。

残虐な殺人/傷害事件が起こると、容疑者や犯人の精神鑑定が行われる。犯人に刑事的責任能力の有無を調べるために行われるものだが、その過程から「悪魔の声が聞えた」とか「誰かに追われて殺されそうになった」など、事件が幻覚や妄想によって引き起こされたという「証言」が得られることがある。

こういう記事を読むたびに「なぜ、そういうネガティブな妄想ばかりが生じるのだろう?」と疑問に思っていた。統合失調症などの精神障害によるものでも、薬物の濫用によるものでも、たとえば、「神様が一日一善しなさいと言うのが聞えたので、毎日、近所を掃除しています」なんていうポジティブな妄想を聞いたことがないのはなぜだろうか?と。

事件性がないとメディアでは報道されない。だから、もしかしたら、本人にとっても回りの人にとってもハッピーな幻覚や妄想を抱えている人はけっこういるのかもしれないが、我々が聞くところの幻覚や妄想にはどちらかというとひどく反社会的なものが多いような気がする。

いずれにしても、幻覚・妄想はどのようにして獲得される「行動」なのかなぁと思っていたら、こんな論文を見つけた。

Layng, T. V. J., and Andronis, P. T. (1984). Toward a Functional Analysis of Delusionaal Speech and Hallucinatory Behavior. The Behavior Analyst, 7(2), 139-156.


著者らはGoldiamondのノンリニア行動随伴性分析論とスキナーの言語行動論にのっとり、幻覚や妄想を《適応的な》言語行動と捉えている。そして、その理解と対処には、本人の置かれている環境をよく調べて、幻覚や妄想的行動の持つ機能を分析することが重要であるとしている。

一般に、幻覚や妄想は、不適応行動とか異常行動とみなされている。しかし、彼らの臨床経験と理論的分析からすると、その背景には必ず納得できる理由が行動随伴性として見つかるというのだ。ちょうど、発達障害児の問題行動に何らかの意味があることが機能的分析からわかるのと一緒である。

そして、そうした理由がわかれば代替的行動を教えることで、幻覚や妄想を減らしていくこともできるというのである。論文にはいくつか具体的な臨床事例も紹介されている。行動分析学をベースに臨床心理的な仕事をしている人、目指している人にはオススメの論文である。

行政の役割?

NYSEIGuidebook

3/9の記事でふれた米国ニューヨーク州の保健省(Department of Health)が出版しているガイドブックを紹介しておこう。

Clinical Practice Guideline: Report of the Recommendations Autism/Pervasive Developmental Disorders Assesment and Intervention for Young Children (Age 0-3 Years).

ニューヨーク州では0歳から3歳までの発達障害児とその家族に早期介入サービスを保障している。療育費を無駄に使わないために、さまざまな介入方法や療育方法、アセスメントツールについて、効果があると実証されているかどうかを専門家の委員に委ねて調査・研究し、その結果を保護者へのガイドラインとして配布しているのだ。

ガイドブックには評価や手続きが明記され、そのプロセスはガラス張りで、基本的には、学術的な研究の裏付けがどのくらいあるのかを評価している。つまり、しっかりした研究によって効果が確認されているかどうかの判断である。そして、さまざまな療法について、(A)効果を示す明確な裏付けがある、(B)ある程度の裏付けがある、(C)若干の裏付けがある、(D)裏付けがない、の判定をしている。D判定については、基準を満たさない研究を調査した上での委員会の判断と、そのような調査もできなかった上での判断にさらに分かれている。

日本でもこうした仕事が行政主導で進められるべきだろう。

WindowsユーザーにMacへ乗りかえるように奨める−それがAppleのSwitch(スイッチ)キャンペーンだ。アップルのサイトにはMacにスイッチする理由トップ10があげられている。

「1.誰でも簡単に始められる」や「2.クラッシュしない」などの本質的な話や、「3.WindowsPCと一緒に使える」や「4.Microsoft Officeなどアプリケーションが豊富」など、かなり迎合的なポイントまで網羅している。

パソコンの苦手な院生や友人(←Windowsユーザー)の“お手伝い”をするたびに、Macにスイッチしてくれたら、どれだけ楽だろうかと思う。

そんな私の「Macにスイッチして欲しい理由トップ10」。

1.システムの更新(Windows Updateみたいなやつ)をすると訳のわからないエラーがでてきて、マイクロソフトにその情報を送らせるようなメッセージに悩まされることがなくなる。

2.動作をめっちゃくちゃ遅くさせるウィルス対策ソフト(しかも有料)をインストールしなくてすむ。

3.ネットからダウンロードしたファイルを解凍しようとすると解凍ソフトがなくて、今度は解凍ソフトを探さなくてはならない、なんてことがなくなる(しかも、Windowsが解凍ソフトを自動的に見つけてくれると思いきや、ぜんぜん見つけられなくてがっかりということもなくなる)。

4.Microsoft のWordを使わなくてもすむ。

5.Microsoft のWordのファイルを読み書きできるという安い(あるいは無料の)、でも使い勝手の悪いソフトを使わなくてもすむ。

6.PDFを作るソフトを購入しなくてもすむ(Macには最初からついている)。

7.サウンドボードみたいのを購入しなくてもすむ(Macには最初からついている)。ネット電話ソフトSkype(日本ではライブドアが配布している)をWindowsマシンにインストールしたら、3台中2台が「サウンドシステムがありません」というエラーがでて使えなかった。

8.「based98.exe」「ss287.dll」とか初心者にとってはもはや何のことだかわからないプログラム名(しかも役に立たない情報)を見なくてすむ。

9.日本語の入力がしやすい。←これぜひ試してみて欲しい。日本語入力と英数(半角)入力モードの切替え方法はMacの方が圧倒的に楽ですよ。

10.Exposeが使える。←これぜひ試してみて欲しい。一度使うと、後戻りできないくらい革新的機能です。WindowsXPにインストールできるシェアウエアがでているそうなので試してみたらどうでしょう?

以上。

注記:もちろん私はAppleの回し者ではありません。エラー対策とか、インストール作業とか、クラッシュしたマシンの復旧とか...、無駄でつまらなくていらいらする作業を世の中からできるだけ減らしたいだけです。

billatkinson

数日前、「マックと行動分析学の親密な関係」という記事で、アップルのユーザーインターフェイスの基礎をつくったLisaというコンピュータの開発過程で、いかに行動分析学の考え方が活用されていたかを紹介した。

実は、グレッグのあのメールを翻訳しようと思い立ったのは、MacFanというパソコン雑誌に掲載された、ビル・アトキンソン氏へのインタビュー記事「MacOSを作った伝説のプログラマーが語るMacOS誕生の秘密と彼が目指したパソコンの未来」に触発されてのことであった(MacFan, 2004, 11月号, Pp.32-33)。

ビル・アトキンソン氏は、アラン・ケイやスティーブ・ジョブズと共にアップルを創出した、知る人ぞ知る天才プログラマーである。

インタビューアーの、最近のPCは昔に比べると飛躍的に性能が向上しているのにもかかわらず、逆に使いにくくなっているのでは? という質問にアトキンソン氏はこう答えている。

(使い勝手をよくするためには)ユーザーテスティングが重要なのだ。インターフェイスをどのようにするか決めるのはデザイナーでもプログラマーでもなく、ユーザーなのだ。3人のユーザーが眉を曇らせたら、そのインターフェイスは誤りだということ。デザイナーよりもユーザーを信用することが大切だ。

まさに「学び手は常に正しい」というインストラクショナルデザインの鉄則である。パソコンのユーザーインターフェイスだけではなく、教育でも福祉でも医療でも、あらゆるヒューマンサービスに関わる仕事のコアになる概念だ。

この記事のことをうっかり失念していたので追記しておく。

コミュニケーションとか社会性の障害はおそらく自閉症の主因ではないだろうと疑っている。これらはもっと根本的な障害からくる二次的な、言ってみれば学習性の障害ではないだろうか?

それでは一次的な障害は何かというと、何らかの脳の機能的障害による感覚過敏とワーキングメモリの障害ではないだろうか(「と」の部分は“and/or”)。

それで感覚過敏に関する研究を調べようと思って、まずはこの本を読んでみた。

アスペルガー症候群といわれる障害を持つ人たちの「感覚過敏性」とはどういうものなのか、どのようにアセスメントできるのか、どのように対処できるのかが、わかりやすく書かれた、教師や保護者向けのガイドブックである。

残念ながら、期待していたような、脳科学や神経生理学的研究の引用などはなく、対処法もhow-toの寄せ集め的な印象が強い。だから役に立たないということはもちろんなくて、「どうしてこの子はいつも同じ服ばかり着るんだろう」とか「食べ物の好き嫌いが激しすぎる」など、感覚過敏性の問題で指導に窮している先生方や親御さんには参考になると思う。

どうやら著者は日本でもかつて一世を風靡した「感覚統合」の専門家らしく、本書でもその紹介がされている。ところが、対処法のhow-toを一つ一つ見て行くと、視覚的支援とか構造化とか強化とかトークンとか、「感覚統合」以外の手法がたくさん列挙されている。

たとえば、特定の食べ物を食べない子どもの対処法としては以下の3つがあげられている。

栄養上の支障がない限り、子どもに食べ物を選ばせる

→ 対処法としては、ごくごく常識的なもの。無理強いさせないことで、食事場面で問題行動を学習させないためには、意味があるだろう。

1つずつ違う感覚的特徴をもつ食品を加えながら、新しいものを増やしていく。たとえば、もし子どもがヨーグルトが好きなら、コーンフレークなどのシリアル食品をヨーグルトに加えて、新たな食感を試させる。

→ 行動分析学的に言えば、好子の中に中性子あるいは嫌子をフェイドインしていき、あわよくば価値変容の原理を使って、中性子(好きでも嫌いでもなかったコーンフレーク)を好子にする手法とも考えられる。ただ、この方法でうまくいったという事例はあまり聞いたことがない(むしろ、信じられないくらい丁寧に好きなものを嫌いなものから選り分けて食べるという話の方をよく聞く)。

固く、弾力性のあるゴムのチューブやストローなどを噛ませて歯や歯茎に強い圧迫感を与える(本文中ではリストの2番目に登場する)

→ これが、私のもつ「感覚統合」のイメージに一番近い方法だ。

 自閉症児に対するさまざまな療育方法について数多くの文献を調査し、各種療育方法の効果を検証した、ニューヨーク州保健省のレポートは、感覚統合(Sensory Integration Therapy)は、「効果を示すデータがないため、主な療育方法としては推薦できない」としている(Clinical Practice Guideline: Report of the Recommendations Autism/Pervasive Developmental Disorders. 同省のHPから注文可能)。

 確かに「固く、弾力性のあるゴムのチューブやストローなどを噛ませて歯や歯茎に強い圧迫感を与える」ことで、どうして嫌いな食べ物が食べられるようになるのかよくわからない。

 自閉症の主因の一つではないかと思われる「感覚過敏性」に着目している点は評価できるので、もう少し詳しく調べてみようと思う。

アスペルガー症候群と感覚敏感性への対処法アスペルガー症候群と感覚敏感性への対処法
ブレンダ・スミス マイルズ ナンシー・E. ミラー リサ・A. ロビンズ

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自閉症の人は「視覚優位」だという。

 確かに言葉がけでは指示に従えない子どもがカードを見ながら自分で動けているのを見ると、視覚的支援の有効性には異論のないところだと思う。

 でも、視覚的支援が有効だからモダリティとして「視覚優位」だとは言えない。これは短絡的すぎる結論だ。

 たとえば「片づけなさい」という言葉がけが機能するためには、「片づけなさい」という音声が、“いまやってる遊びを終えて、おもちゃを棚にしまいなさい”という意味であることを理解できなくてはならない。これに比べて、たとえば指さしや片づける場所の写真カードなどなら、「片づけなさい」という言葉が理解できなくても従える。視覚と聴覚という刺激のモダリティのみを比較するためには、視覚刺激の方も、たとえば「かたづけなさい」と文字カードを使うなどしなければ公平ではない。

 注意喚起の問題もある。「片づけなさい」という言葉がけは、子どもが遊びに熱中しているときにでも、子どもの背後や離れたところから、ついついかけてしまうものである。これに対して、子どもの背後から、子どもに見えないように、指さししたり、カードを出す人はいない。たいていは、子どもがカードを確実に見るように、目の前にかざしたり、カードを指さしたりしているはずだ。音声による指示も同じようにして提示しない限り(たとえば、子どもの目の前で、まず指導者の方に注意を向けさせてから言葉がけするなど)、公平な比較にはならない。ちなみに、注意喚起しないで音声の指示をだし、従わないからカードで指示をするということを繰り返していけば、どこからか聞えてくる音声には注意を向けず、目の前に提示されたものだけに従うことを学習してしまっても不思議ではない。

 刺激の特性として、言葉がけは刺激の提示時間が一時的(瞬間的)になりがちである。一方、カードなどの視覚刺激はそこに置いておく限り、継時的に提示される。公平に比較するならば、たとえばカードも瞬間提示する(ちらっとだけ見せる)か、音声を継時的に提示しないとならない。後者は技術的に難しいが、疑似的にはたとえばVOCAなどを逆に使い、1回の提示で指示がわからなければ子どもが自分で何回もボタンを押して指示を再生できるようにするなどが考えられると思う(カードをちらっと見ても何が書いてあるかわからなければ何回かわかるまで見直すのと一緒)。

 自閉症の人たちはワーキングメモリーがうまく働かないということを示す研究もあるらしい。もしそうなら、たとえばPECSの文章ストリップ(複数のカードを並べて文章を作る)などで、複数のカードを同時に並べて提示せず、継時的に提示したら(一枚見せて、次の一枚を見せるときは前のカードをしまってしまう)、視覚刺激でも音声と同じようにその処理が難しくなると予想できる。

 もう一つ。言葉がけの場合には、言葉をかけるたびに刺激が変化しがちなことも忘れてはならない。「かたづけようね」「かたづけなさい」「はやくかたづけなさい」と、いろいろな言葉が出やすいだけでなく(特に一度で指示が通らない場合)、音声のピッチ、テンポ、イントネーションなども異なるはずだ。言葉がけをする人によっても刺激ががらっと変わってくるだろう。これに対し、カードの場合は、いつも同じカードを使うことが一般的である。指導者が変わっても同じカードを使うことで、“般化”を促進させようとするくらいだから。聴覚と視覚で公平な比較をするならば、言葉がけも、たとえばVOCAやテープに録音した同じ刺激を使うとか、逆にカードの場合にはそのときそのときで少しずつ異なるカードを使うとかしなければならない。

 自閉症の特性として刺激の過剰選択性(シングルフォーカス)が指摘されている。もしかしたらこの特性によって、刺激クラスによる弁別学習が進みにくいのではないだろうか? だとすれば、たとえば、カードを使っても概念的マッチング(いろいろな犬の写真を「犬」、いろいろな猫の写真を「猫」に分けるなど)は難しいはずである(もちろん、犬と猫の決定的な違いをシングルフォーカスして区別する手がかりを見つけてしまえば、逆に驚異的な弁別力を発揮すると思うけど)。

 脳科学や神経生理学的な研究はまったくといっていいほど読んでいないので、自閉症の人の「視覚優位」について、どれだけハードな証拠があがっているのかは実は知らない(不勉強です)。
 でも、今回、このように、ちょっと考えただけでも、たとえ神経生理的に視覚と聴覚の“情報処理”に差がなくても、行動的には視覚優位に見えることは十分にありえる。それは自閉症という障害のより根本的な特性(ワーキングメモリーに関することや過剰選択性に関すること)と、日常の指導で使われやすい刺激の特性から説明可能だということだ(もちろんモダリティによって“情報処理”に差があるという事実がでてくるかもしれないけど、上述のような条件の差があることは変わらない)。

 私見:視覚的支援が有効だからといって、自閉症の人はモダリティとして「視覚優位」だから、聴覚刺激は使わず、視覚刺激のみを使うべきだというような極論にならなければいいと思う。聴覚刺激も教え方を工夫すれば教えられるし、視覚刺激も教え方を間違えると、うまくいかないはずだから。

 この記事を書くきっかけとなった「Comic Strip Conversations」に載っていた「みんなで話を聞きましょう」の絵。ソーシャルストーリーのキャロル・グレイ著のコミック会話の本(Future Horizons, 1994)。気持ちはわかるのだが、この絵(というか使い方?)はちょっと行き過ぎなのはと思いました。

comicconversation
ivlogo

?マーク付きマウスアイコンでもめてる一太郎。東京地裁の判決は松下に軍配が上がり、ジャストシステムはユーザーが安心して(?)使えるように、アイコンを変更するパッチを配布した。もちろん判決には不服として控訴。

そんな中、相変わらずいきなり.jtdファイルをメールしてくる人たち対策に「一太郎ビューア」をインストール。
これなら無料だし、軽いし、VPCでも動作する。

せめて、これだけでもMac版をだしてくれたらいいのに。

というか、WindowsXPが、MacOSX並に、標準でPDFへの書き出しをサポートすべき、という気もする。

アップルのMacintoshの元になったLisaというパソコンとソフトウエアの開発に行動分析家が関わっていたことはあまり知られていません。

今でもスティーブ・ジョブズと交友のあるグレッグ・シュティークリーサーが、インストラクショナルデザイン−特にユーザーテスティングを中心とした開発テスト−の専門家として、システムやアプリケーションソフトの開発に関わっていた様子をうかがい知ることのできるメモを入手しましたので、ご本人の許可をいただき、翻訳しました。

スティーブ・ジョブズの指令は「ユーザーにソフトを使い始めさせて、20分以内に何らかの意味ある仕事ができるくらい操作を簡単にすること」だったそうです。

自分も教員対象の研修プログラム開発に、このへんの精神を活かしてみようと思います。

この資料はこちらからどうぞ。

日経新聞で「大学激動:大学院肥大化のツケ」という特集が連載中。

本日は「院生・一般編」。

・単位認定を厳しくすべき。 ・授業料分の授業をして欲しい。 ・研究中心で教育は軽視している。 ・社会の要請に応えるべき。

など、院生や大学外からの厳しい意見が示されている。

こうした評価を大学が自主的に収集して、授業やカリキュラム、指導方法の改善に活用していける情報のサイクルができれば、大学院教育の質も改善できると思うのだが、現状は難しい。

ようやく始まった「授業評価」もおざなりのアンケートに終わってしまいがちで、次年度の授業改善の材料にしている教員は少ないようだ。また教員養成系の大学のカリキュラムには、文部科学省からの強力な「しばり」がかかる。教育現場で必要とされている知識や技能でも、それが認可されなくては授業開講も難しいし、逆に、現場では必要性が低いと判断されるような教育内容も、課程認定として含まれている限りはずせない。

大学教員一人ひとりの授業改善への取り組みももちろん必須だが、システム全体の見直しも欠かせないのではないかと思う。

インストラクショナルデザイン』を出版してから、この本を読んで行動分析学に興味を持ち『パフォーマンスマネジメント』も読みましたという、たいへんありがたい読者からのメールを何通もいただいている。

行動分析学Q&A掲示板ではマコトさんより以下のような質問をいただいた。実は他の人からも同様の質問をされることが多いので、この際、掲示板での私の回答をここでも引用しておきたい。

マコトさんからの質問日本企業へのパフォーマンスマネジメントの展開についての先生のお考えやご活動について教えていただければうれしいです。
私の回答マコトさん、はじめまして。

拙著をご購入、ご拝読いただき、誠にありがとうございます。

「日本企業へのパフォーマンスマネジメントの展開についての先生のお考えやご活動について教えていただければうれしいです」というご質問ですが、そんなだいそれた話はできませんので、個人的な印象というか、感想だけ書かせていただきます。

今から10年ちょっと前、私が米国の大学院でパフォーマンスマネジメントを学んで帰国した当時の印象は「日本の企業はよくやっている!」でした。その頃、学術雑誌に報告されているパフォーマンスマネジメントの研究事例はアメリカで行なわれたものが多かったのですが、介入によって生産性が2倍とか3倍になるようなケースがざらにありました。ということは元々、ベースラインでは本来できることの1/2とか1/3しかやっていなかったってことなんですね。

日本の民間企業、特に外部からコンサルタントを雇ってまで経営改善の努力をしているような会社では、こんなことはほとんどなく、みんなそれなり以上に頑張っていますよね。つまり、ベースラインがすでに高く、だから改善の余地もアメリカの企業に比べると少ない−というのが私の印象でした。

民間企業を辞めて大学に移り、学校教育のパフォーマンスを上げる仕事に就くことにしたのも、日本では、民より官、特に教育業界に、大きな改善の余地があると思ったからです。この印象は今でも変わっていません。学校という組織には、ものすごい改善の余地があります。民間企業と同じように予算と人材をかけてしっかり改善努力をすれば、日本全体が変わるのにと思うくらいです。

一方、過去10年間で民間企業の方にも変化があったように思われます。生産性(統計のマジックもありそうですが)では米国に抜かれ、安全管理やコンプライアンスなどで、大きな失点が目立つようになりました。

私は、年に数回、大手の企業さんの管理職を対象にしたパフォーマンスマネジメントの研修をしているのですが、そこで上がってくる問題を見ていると、日本全体の文化的背景の変容が、マネジメントの難しさに影響してきているのかなとも思います。つまり、価値観(好子・嫌子)や行動様式(行動レパートリー)の多様化によって、これまでは何も言わなくてもわかっていたこと、指示や指導しなくてもできていたことが、できなくなっているようです。

先輩や上司の言うことなら無条件で従うという文化が背景にあれば、「向上心」という価値観が根付いていれば、マネジメントは楽ですよね。ところがそうした文化的背景というか前提が崩れてきたので、これまで通りの(無意識的に)文化に頼った手法に限界が生じているのではないでしょうか? 経営者にしても問題は感じていても、どうすればいいかわからないといったところではないでしょうか?

価値観や行動様式の多様化それ自体は悪いことではないので(異論反論もあると思いますが、楽天やライブドアの活躍?に見られるように)、要は、こうした新しい文化的背景でも使える手法や考え方が必要だということですよね。

アメリカという国はもともと価値観や行動様式が多様な国です。日本もこれからますますアメリカ化(というかグローバリゼーション)していくでしょうから、そこで鍛え上げられてきたパフォーマンスマネジメントには期待できると思います。

マネジメント手法にも時代時代で流行があります(たとえば最近ならコンピテンシーマネジメントとかコーチングとか)。それとパフォーマンスマネジメントのどこに違いがあるかと言えば、前者はあくまでハウツーなのに対して、後者は行動分析学という科学を基本にしているので、うまくいかないときにそれがどうしてうまくいかないのかというホワイの分析を可能にするところだと思います。

問題の原因を正しく突き止めないで解決策ばかり追えば、解決策自体は素晴らしくても効果は期待できないことがありますよね。多様化した価値観や行動様式が背景にあると、「これでok」という手法はありえないと思います。ですから、その企業やその職場やその個人にあった手法を考えないといけない。そうした問題解決と目標達成のための「思考方法」として、行動分析学とパフォーマンスマネジメントは有効だと思っています。

というわけで、とりとめがなくなってしまいましたが、以上が私の印象というか感想です。

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『マイソーシャルストーリーブック』 キャロル・グレイ他 編著  安達 潤 監訳  / 安達潤・柏木諒 訳 スペクトラム出版社

自閉症児の苦手な社会的文脈や手がかりの理解を高めるのに有効であるとされる「ソーシャルストーリー」。本書はその提案者であるキャロル・グレイが最初に出版した本の日本語訳版である。

ソーシャルストーリーについては、近年、実証的な研究も進められている。反転法や多層ベースライン法を使って効果を検討した研究もある(詳しくはこちらから)。

ただ、こうした研究のほとんどで、「ソーシャルストーリー」をどう使うかといった指導方法についての変数統制が甘く、またベースラインの条件についての記述も少ないので、効果があったとしても(問題行動が減ったり、社会的に望ましい行動が増えたり)、それが何によるものなのかが不明確なケースも多い。また、介入効果を示した事例でも維持や般化は見られないことが多い(ソーシャルストーリーの講習会に参加された方の話では、グレイは「自閉症児は般化が苦手なので期待してはいけない」と説明しているようだ)。

附属養護学校で実践され、成功した事例を聞くと、たとえば注射が嫌いで医者に行こうとするとパニックになるお子さんに、
(1)看護婦さんが「痛くないよ」と言うかもしれないけど、ほんとうは少し痛い。とか、
(2)注射の針が刺さると痛いけど、2秒くらいで痛くなくなる。
など、そのお子さんが、どうしてパニックを起こすのかを理解した上で、その状況を乗り越えるための情報が含まれていることがわかる。

たとえば、(1)は言われたことを文字通りに捉えてしまうこのお子さんの特性に配慮したものだし(「痛くない」と言われているのに痛いからびっくりする)、(2)は見通しがきかないので、痛みがずっと続くのではないかという不安を軽減しているものと思われる。

そして、こういう情報は、一人ひとりのお子さんが、それぞれ苦手とする状況で、何を手がかりにして行動しているのか、また、何を手がかりにできずうまく行動できないのかを、ソーシャルストーリーを作成する先生方がよく理解しないとわからないことである。

つまり、ソーシャルストーリーの導入がうまくいくなら、その最大の理由は、ストーリーを作る過程で、先生たちが子どもの行動をそれまで以上に理解することではないだろうか? おそらく、作成する上で、「あ、この子はこういう勘違いをしていたのだ」とか「そうか、私のこの指示がわかりにくかったのね」のような発見があるのではないだろうか。

逆に、どこかで見つけてきたソーシャルストーリーを、対象とする子どもの行動の分析なくやみくもに取り入れてしまったら、まず成功しないのではないだろうか。

せっかく日本語訳されたグレイの例文集だが、実践に移すときには、そのまま使うのではなく、子どもの行動を分析し、実態に合わせて作成することが欠かせないだろう。

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キャロル・グレイ アビー・リー・ホワイト 安達 潤

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