2003年11月アーカイブ

藤原さんの『デジカメとPCを使う』を読んで考えたこと。

お話作りを通じて,彼らに“表現の自由さの享受”や“世界に対する自分の視点の再構築”をして欲しいと思う我々にとっては,何らかの手立てを考えてクリアすべき課題である.  

教育実習の指導教官と実習生が評価授業について打ち合わせをしているところを、附属養護学校でたまたま見学させてもらった。評価授業とは教育実習の最後をかざる授業で、大学の教官も観察して成績をつける。打ち合わせを、少し脚色すると、こんなかんじであった(ちなみに、附属養護学校には知的障害や自閉症をもったお子さんが多く入学されている。彼らひとり一人の教育ニーズにあわせた指導を目指している。そして、こうした特別支援教育に関して文科省のしばりはとても緩い。某調査官の言葉を借りれば「何やってもいい」ことになっている)。

指導教官:「どんな授業をしたいですか?」
実習生A:「エアロビクスとか面白いと思うんですけど。私、最近、習ってるんですよ」
指導教官:「そう。発想は面白いね。でも、うちのクラス子どもたちは、おおまかな動作をゆっくり模倣できるくらいだから、難しいかもね。あなたは、どうですか?」
実習生B:「パッチワーク作りとか考えたんですけど、ちょっと難しいかもしれません。クッションのカバーとかならできるでしょうか?」
指導教官:「そうだね。授業をいくつかに分けて、部分部分をあらかじめ作っておいて、評価授業で完成させるようにすればできるかもね」

 指導教官の先生はこれまで一緒にプロジェクトをやったこともある方で、親しくさせていただいている。しっかりした教育観をもたれている先生だ。しかし、私にはこのやりとりがとてもショックだった。授業で「何を教えるのか」という指導目標に関する話し合いがなかったからだ。

 「どんな授業をするかをまず考えて、何を教えるのかはその次」という発想が学校教育に蔓延していて、これが教えるべきことを教えきれない理由の一つになっていることは前々からぼんやり認識していた。それなのに、ここ数年、学校と協力していろいろプロジェクトを進めるうちに、そのことをすっかり忘れていた自分に気がついた。ダブルショックであった。

 すぐにこのクラスを担任しているもう一人の先生に事情をきいた。すると面白いことが分かった。もちろん附属養護でも個別指導計画が導入されていて、ひとり一人の子どもごとの年間目標と学期目標が決められている。ところが、プライバシー保護の観点から、個別指導計画は実習生に見せていないというのだ。それなら指導目標を先に考えるという発想が抜けてしまうのも納得がいく。

 指導目標をまず設定して、それを教えるために最適な指導方法や教材はその次に考えるという発想は、特別支援教育だけじゃなく、教育のすべての分野での基本だと思う。それを教育実習で教えられないというのはたいへん残念だ。というか、めでたく教員に採用されてから、OJTや研修で教えなくてはならないのは効率が悪すぎる。
 
 総合的な学習の時間でも同じことが言えると思う。「インターネット」とか「交流学習」とか「郷土の名産品」など、どんな授業をするかが先に来るのではなく、何を教えたいかを最初に決めるべきだと思う。

このblogの記事では2段落以降の行頭には全角スペースを入れて一文字ぶん開くようにしているのだが、ブラウザーで見ると空白が無視されて詰まってしまうことが気になっていた。

あれこれ悩んでいるうちに、ふと違うブラウザーで見てみたら、ちゃんと一文字開いているではないか! それだけじゃなく、行間やフォント、カラーなども微妙に違う。

MTは世界で最も使われているblogなので、機種依存性は少ないんだろうっと勝手に思いこんでいた私の敗北である。

日常的に使っているSafariでは行頭のスペースが無視されてしまう。

macsafari.jpg

同じMacでもIEでは行頭にスペースを開けてくれる。でも、行間がつまってしまって読みにくい。

macie.jpg

皮肉なことに、XPのIEが3つの中では一番見やすいような気がする。

xpie.jpg

異なるOS間やブラウザーでもできるだけ同じように読みやすく表示させて欲しいものだが、それにはかなり細かな設定が必要なのかもしれない。

時間があるときに調べてみよう。

コラボレーションネットワーク上でblogコミュニティをつくる計画をしている。

 とりあえずコラボネットのメンバーに、「教育における問題解決」に関連したテーマ限定ではあるが、blogスペースを無料でレンタルすることになる。

 メンバーがそれぞれ日記形式で情報発信してもいいし、共通のテーマに関してコメントやトラックバックしあってもいいだろう。学校や学級でいくつか日記をレンタルして、学級日誌や読書感想文を投稿するようなサイトをつくってもらっても面白いと思う。

 とりあえず、学内では私と藤原先生と谷口先生で始めることになった。

 どうなるか、楽しみである。

藤原先生のサイト:鳩尾のクスリ
谷口先生のサイト:Transit

コラボレーションネットワーク上でblogコミュニティをつくる計画をしている。

 とりあえずコラボネットのメンバーに、「教育における問題解決」に関連したテーマ限定ではあるが、blogスペースを無料でレンタルすることになる。

 メンバーがそれぞれ日記形式で情報発信してもいいし、共通のテーマに関してコメントやトラックバックしあってもいいだろう。学校や学級でいくつか日記をレンタルして、学級日誌や読書感想文を投稿するようなサイトをつくってもらっても面白いと思う。

 とりあえず、学内では私と藤原先生と谷口先生で始めることになった。

 どうなるか、楽しみである。

藤原先生のサイト:鳩尾のクスリ
谷口先生のサイト:Transit

池田清彦氏の『やぶにらみ科学論』(ちくま新書)が面白い。
 「クローン人間作ってなぜ悪い?」とか「地球温暖化なんてホントにあるのか?」など、社会で常識として疑われないことに敢えて挑んでみせる。《科学》も扱い方次第では《オカルト》と変わらない。我々の日常生活に一見科学的なエセ科学が蔓延していることは、昨年度「論理的思考講座」で講演をお願いした岡山大学の長谷川先生のお話にもあった通りだ。
 池田氏は「先進国の中で最低」とされる日本人の科学リテラシーについて、子どもの経験や生活体験を重視し、原理的なことを教え込もうとしない文科省の方針を批判して、「国民の科学リテラシーの向上を阻んでいるのは、やっぱり文科省みたいだね」(p.69)と切り捨てている。
 文科省以外にも原因はあると思うけど、文科省の中央集権的、官僚的な側面が、確かに阻害要因の一つになっていると、私も思う。少なくとも、問題を解決しているようには見えない。
 たとえば、マスコミでも話題になった円周率の問題。池田氏は「3」とか「3.14」とかの具体的な数字の問題ではなく、『無理数』という、小数点以下どこまでも数字が確定しない数があるということの理解の方はよっぽど重要だと指摘している。まったく同感だ。行動分析学的に考えれば、標的行動(指導目標)は、「円周率は?」という問いに「3」とか「3.14」と答えられることではなく、「無理数」という概念を自分の言葉で説明できるとか、無理数と円周率の関係を図示できるとか、じっさいに小数点数桁まで円周率を計算できるとか、そういう行動群になるはずだ(もちろん、そういう標的行動を小学校で教えることにどれだけ意義や価値があるのかは別の問題であるが)。
 そんなことを考えているときに、スタジオジブリ、高畑勲監督脚本の『おもひでぽろぽろ』を観た。 この映画では田舎好きな主人公の独身OLたえ子に、彼女が小学校5年生だった頃の思い出が繰り返しフラッシュバックされる。その中に、分数のわり算に関するシーンがある。
 たえ子は言う。「分数を分数でわるってどういうこと?」「3分の1個のリンゴを4分の1で割るってことは、3分の1個のリンゴを4人でわったら一人何個になるかってことでしょう?」「分数のわり算がすんなりできた人は、その後の人生もすんなりいくらしいのよ..... 」
「分子と分母をひっくり返してかける」--この計算のルールをそのまま何の疑いもなく覚えてしまって使えば、確かにテストではいい点がとれる。どうしてそうなるのかを全く理解していなくても。そういう人は、確かに人生も「すんなり」過ごせるのかもしれない。ルールに従う行動は、ルールと実際の随伴性が一致している場合には強化されるからだ。でも、ルールと実際の随伴性が食い違ってくると、たちまち弱みをみせるというのも事実である。これは行動分析学の基礎的な実験でも分かっていることだし、日常的な観察からも納得がいくことではなかろうか。
 ものすごく大雑把は話になるが、日本の社会は加速度的に既存のルールが適用できない状況になってきていると思う。変化の加速度はこれからさらに増すだろう。年功序列、終身雇用、右肩上がりの経済成長、日米安保条約..... 近代日本がより所にしていた前提が、今やどんどん崩れてしまっているのは承知の通りである。
 そうなると、ルールに従っているだけの行動は機能しないし、非効率である。よって、いずれ淘汰される。このような変化の多い環境で機能するのは、自ら随伴性を探索し、弁別刺激を探していく問題解決的行動だと思う。そして問題解決的行動をうまく誘導してくれる仕組みが科学や倫理にはある。
 池田氏は言う。「生きる力」も「自ら学ぶ力」も「総合学習」も原理的なことがわからなければ、すべて絵に描いた餅であると。『おもひでぼろぼろ』の主人公はあいにく、なぜ分子と分母をひっくり返すのか、その原理や考え方を教わらなかった。家庭教師役の姉のヤエ子には「とにかく、リンゴにこだわるからわからないのよ。かけ算はそのまま、わり算はひっくり返すって覚えればいいの」と言われてしまった。
 日本の学校に必要なのは、ヤエ子姉さんのルール支配的な思考からの脱却である。
 ちなみに、たえ子が落ちこぼれたわり算の問題は、比率としての分数(例:ある量の3分の1)と絶対量としての分数(例:1/2=0.5)が混同しているところに原因の一つがあるように見えるのだが、指導要領はどうなってるんだろう。
 もう一つちなみに、『おもひでぽろぽろ』は最後まで見るには忍耐のいる映画であった。

池田清彦氏の『やぶにらみ科学論』(ちくま新書)が面白い。
 「クローン人間作ってなぜ悪い?」とか「地球温暖化なんてホントにあるのか?」など、社会で常識として疑われないことに敢えて挑んでみせる。《科学》も扱い方次第では《オカルト》と変わらない。我々の日常生活に一見科学的なエセ科学が蔓延していることは、昨年度「論理的思考講座」で講演をお願いした岡山大学の長谷川先生のお話にもあった通りだ。
 池田氏は「先進国の中で最低」とされる日本人の科学リテラシーについて、子どもの経験や生活体験を重視し、原理的なことを教え込もうとしない文科省の方針を批判して、「国民の科学リテラシーの向上を阻んでいるのは、やっぱり文科省みたいだね」(p.69)と切り捨てている。
 文科省以外にも原因はあると思うけど、文科省の中央集権的、官僚的な側面が、確かに阻害要因の一つになっていると、私も思う。少なくとも、問題を解決しているようには見えない。
 たとえば、マスコミでも話題になった円周率の問題。池田氏は「3」とか「3.14」とかの具体的な数字の問題ではなく、『無理数』という、小数点以下どこまでも数字が確定しない数があるということの理解の方はよっぽど重要だと指摘している。まったく同感だ。行動分析学的に考えれば、標的行動(指導目標)は、「円周率は?」という問いに「3」とか「3.14」と答えられることではなく、「無理数」という概念を自分の言葉で説明できるとか、無理数と円周率の関係を図示できるとか、じっさいに小数点数桁まで円周率を計算できるとか、そういう行動群になるはずだ(もちろん、そういう標的行動を小学校で教えることにどれだけ意義や価値があるのかは別の問題であるが)。
 そんなことを考えているときに、スタジオジブリ、高畑勲監督脚本の『おもひでぽろぽろ』を観た。 この映画では田舎好きな主人公の独身OLたえ子に、彼女が小学校5年生だった頃の思い出が繰り返しフラッシュバックされる。その中に、分数のわり算に関するシーンがある。
 たえ子は言う。「分数を分数でわるってどういうこと?」「3分の1個のリンゴを4分の1で割るってことは、3分の1個のリンゴを4人でわったら一人何個になるかってことでしょう?」「分数のわり算がすんなりできた人は、その後の人生もすんなりいくらしいのよ..... 」
「分子と分母をひっくり返してかける」--この計算のルールをそのまま何の疑いもなく覚えてしまって使えば、確かにテストではいい点がとれる。どうしてそうなるのかを全く理解していなくても。そういう人は、確かに人生も「すんなり」過ごせるのかもしれない。ルールに従う行動は、ルールと実際の随伴性が一致している場合には強化されるからだ。でも、ルールと実際の随伴性が食い違ってくると、たちまち弱みをみせるというのも事実である。これは行動分析学の基礎的な実験でも分かっていることだし、日常的な観察からも納得がいくことではなかろうか。
 ものすごく大雑把は話になるが、日本の社会は加速度的に既存のルールが適用できない状況になってきていると思う。変化の加速度はこれからさらに増すだろう。年功序列、終身雇用、右肩上がりの経済成長、日米安保条約..... 近代日本がより所にしていた前提が、今やどんどん崩れてしまっているのは承知の通りである。
 そうなると、ルールに従っているだけの行動は機能しないし、非効率である。よって、いずれ淘汰される。このような変化の多い環境で機能するのは、自ら随伴性を探索し、弁別刺激を探していく問題解決的行動だと思う。そして問題解決的行動をうまく誘導してくれる仕組みが科学や倫理にはある。
 池田氏は言う。「生きる力」も「自ら学ぶ力」も「総合学習」も原理的なことがわからなければ、すべて絵に描いた餅であると。『おもひでぼろぼろ』の主人公はあいにく、なぜ分子と分母をひっくり返すのか、その原理や考え方を教わらなかった。家庭教師役の姉のヤエ子には「とにかく、リンゴにこだわるからわからないのよ。かけ算はそのまま、わり算はひっくり返すって覚えればいいの」と言われてしまった。
 日本の学校に必要なのは、ヤエ子姉さんのルール支配的な思考からの脱却である。
 ちなみに、たえ子が落ちこぼれたわり算の問題は、比率としての分数(例:ある量の3分の1)と絶対量としての分数(例:1/2=0.5)が混同しているところに原因の一つがあるように見えるのだが、指導要領はどうなってるんだろう。
 もう一つちなみに、『おもひでぽろぽろ』は最後まで見るには忍耐のいる映画であった。

safety.jpg

数年前から鳴門市の交通事故原因調査部会の委員というのをやっている。毎年1〜2回、重大事故の発生現場に行き、観察・検証し、事故調書などの資料などを読んで原因を分析し、会議で対策を考え、報告書を提出する仕事だ。

 さながら明智小五郎にでもなったつもりで、「運転者からは信号がどのように見えていたのだろうか」とか「ここで被害者に気づいてブレーキを踏んだとして、それでクルマがここで停車したとすれば、スピードはかなりでていたことになる」とか、現場を見歩きながら考える。デジカメで写真を撮ったりもする。

 事故の当事者にインタビューできるわけではない。警察が用意してくれる資料にこちらの知りたい情報がすべて記載されているわけでもない(たとえば、運転中「被疑者」が携帯メールをしていたかどうかなどの情報さえもなかったりする)。警察がまとめる資料の《原因》欄には、「前方不注意」とか「信号不確認」とか「安全速度不履行」など、死人テストをパスしない項目が並んでいる。

 行動分析家としては「前方不注意」ということなら、なぜ「不注意」だったのかをやはり考えたい。たとえば、前方を見ずにどこを見ていたのか?(対立行動があったのか) あるいは居眠りや目をつぶるなどして何も見ていなかったのか?(行動そのものが生じていなかったのか) それとも視界に歩行者は入っていたけど減速行動を制御しない理由があったのか?(飲酒? 視界中の他の刺激への反応? まさか故意とか?)
 
 事故の《本当の原因》を見つけることは難しい。しかし「前方不注意」で話を終わらせないことが大切だし、そこから何らかの対策を考え出すところで、行動分析学が貢献できると思う。
 
 実際、この調査部会では、事故を起こしやすくしている環境側の要因が特定できるのであれば、それらをできるだけ排除していこうと積極的に取り組んでいる。会議には国交省の関連部局の担当者も出席し、道路に補足線を引くとか、停止線の位置を変えるとか、かなり具体的な解決策が話し合われる。
 
 惜しむらくは、こうした会議で提案した解決策を最後までフォローアップできないことである。2年前に提案した補足線は確かに引かれていたけど、この会議の成果なのかどうかは知らされていないし、それで事故が減ったかどうかも分からない。そもそも重大事故の件数は市で年数回しかないので、特定地点で一つの解決策を講じても、その効果を重大事故の件数でのみ測定する限り、評価には数年以上かかることになり、あまり有用ではないけれど。
 
 先週の会議では国道11号線の事故多発交差点の現地調査および分析を行った。ここは自分も、同会議に出席しているうちの大学の松井先生も、通勤で行き来する交差点であり、ヒヤリやドキリが多い場所である。会議でもいろいろな対策が話し合われた。
 
 果たして、実際にはどんな対策が講じられることになるのだろう。

safety.jpg

数年前から鳴門市の交通事故原因調査部会の委員というのをやっている。毎年1〜2回、重大事故の発生現場に行き、観察・検証し、事故調書などの資料などを読んで原因を分析し、会議で対策を考え、報告書を提出する仕事だ。

 さながら明智小五郎にでもなったつもりで、「運転者からは信号がどのように見えていたのだろうか」とか「ここで被害者に気づいてブレーキを踏んだとして、それでクルマがここで停車したとすれば、スピードはかなりでていたことになる」とか、現場を見歩きながら考える。デジカメで写真を撮ったりもする。

 事故の当事者にインタビューできるわけではない。警察が用意してくれる資料にこちらの知りたい情報がすべて記載されているわけでもない(たとえば、運転中「被疑者」が携帯メールをしていたかどうかなどの情報さえもなかったりする)。警察がまとめる資料の《原因》欄には、「前方不注意」とか「信号不確認」とか「安全速度不履行」など、死人テストをパスしない項目が並んでいる。

 行動分析家としては「前方不注意」ということなら、なぜ「不注意」だったのかをやはり考えたい。たとえば、前方を見ずにどこを見ていたのか?(対立行動があったのか) あるいは居眠りや目をつぶるなどして何も見ていなかったのか?(行動そのものが生じていなかったのか) それとも視界に歩行者は入っていたけど減速行動を制御しない理由があったのか?(飲酒? 視界中の他の刺激への反応? まさか故意とか?)
 
 事故の《本当の原因》を見つけることは難しい。しかし「前方不注意」で話を終わらせないことが大切だし、そこから何らかの対策を考え出すところで、行動分析学が貢献できると思う。
 
 実際、この調査部会では、事故を起こしやすくしている環境側の要因が特定できるのであれば、それらをできるだけ排除していこうと積極的に取り組んでいる。会議には国交省の関連部局の担当者も出席し、道路に補足線を引くとか、停止線の位置を変えるとか、かなり具体的な解決策が話し合われる。
 
 惜しむらくは、こうした会議で提案した解決策を最後までフォローアップできないことである。2年前に提案した補足線は確かに引かれていたけど、この会議の成果なのかどうかは知らされていないし、それで事故が減ったかどうかも分からない。そもそも重大事故の件数は市で年数回しかないので、特定地点で一つの解決策を講じても、その効果を重大事故の件数でのみ測定する限り、評価には数年以上かかることになり、あまり有用ではないけれど。
 
 先週の会議では国道11号線の事故多発交差点の現地調査および分析を行った。ここは自分も、同会議に出席しているうちの大学の松井先生も、通勤で行き来する交差点であり、ヒヤリやドキリが多い場所である。会議でもいろいろな対策が話し合われた。
 
 果たして、実際にはどんな対策が講じられることになるのだろう。

衆議院選挙2003

誰が勝ったのかはっきりしなかったけど、負け組は明らか

衆議院選挙2003

誰が勝ったのかはっきりしなかったけど、負け組は明らか

rdc.jpg


『すみません。一太郎の文章ファイルは読めませんので、Wordの文章ファイルかPDFかテキストファイルで送っていただけないでしょうか?』

こうお願いするのにもついに疲れ果て、とうとうWindowsXPのノートPCを用意して一太郎をインストールした。さすがに徳島!なのか、学校現場の特徴なのか、資料などをいきなり一太郎のファイルで送ってくる人が多いからだ。うちの大学ではマイクロソフトのキャンパスアグリーメントというのを購入していて、一応、公文章などはWordかPDFということになっているはずなのだが、それでも一太郎ファイルを送ってくる事務の人も多い。ちなみに私はEGWordかAppleWorksというワープロを使っていて、どこにも属さないマイノリティだ(だってWordも一太郎もめちゃくちゃ使いにくいんだもん)。

それでも2台のPCを行ったり来たりするのはめんどうだし、不必要に場所もとる。そこで、マイクロソフトが無料配布している「Remote Desktop Connection: RDC」というソフトをインストールした。これはMacのソフトで、WindowsXPが起動しているPCにリモートでログインして使ってしまうというシステムだ。

以前、VirtualPCというエミュレーションソフトを使い、Mac上でXPを動かそうとしたが遅くて使いものにならなかった。でも、RDCはエミュレーションではなく、相手側のCPUとOSをそのまま使っているので、速度的には問題がない。キー操作など少々設定が必要なところがあるが、ほぼ快適に、まるでMacで一太郎を使っているように操作できる。ついうっかりして、XP側でコピーした文字をMac側でペーストしそうにもなる(これはできない)。

Mac使いだが、どうしてもXPなどを使わなくてはないないことがあるという人にはお勧めである。

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『すみません。一太郎の文章ファイルは読めませんので、Wordの文章ファイルかPDFかテキストファイルで送っていただけないでしょうか?』

こうお願いするのにもついに疲れ果て、とうとうWindowsXPのノートPCを用意して一太郎をインストールした。さすがに徳島!なのか、学校現場の特徴なのか、資料などをいきなり一太郎のファイルで送ってくる人が多いからだ。うちの大学ではマイクロソフトのキャンパスアグリーメントというのを購入していて、一応、公文章などはWordかPDFということになっているはずなのだが、それでも一太郎ファイルを送ってくる事務の人も多い。ちなみに私はEGWordかAppleWorksというワープロを使っていて、どこにも属さないマイノリティだ(だってWordも一太郎もめちゃくちゃ使いにくいんだもん)。

それでも2台のPCを行ったり来たりするのはめんどうだし、不必要に場所もとる。そこで、マイクロソフトが無料配布している「Remote Desktop Connection: RDC」というソフトをインストールした。これはMacのソフトで、WindowsXPが起動しているPCにリモートでログインして使ってしまうというシステムだ。

以前、VirtualPCというエミュレーションソフトを使い、Mac上でXPを動かそうとしたが遅くて使いものにならなかった。でも、RDCはエミュレーションではなく、相手側のCPUとOSをそのまま使っているので、速度的には問題がない。キー操作など少々設定が必要なところがあるが、ほぼ快適に、まるでMacで一太郎を使っているように操作できる。ついうっかりして、XP側でコピーした文字をMac側でペーストしそうにもなる(これはできない)。

Mac使いだが、どうしてもXPなどを使わなくてはないないことがあるという人にはお勧めである。

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